【パリ パラリンピック車いすテニス】小田凱人「骨肉腫を発症して8年、17歳で世界一に。有言実行できたことで、自信にも繋がった」Google pixelのCMでも話題!
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今年パリで開催されるパラリンピックへの出場を決めた、車いすテニスの小田凱人(ときと)選手。強気な姿勢が持ち味の彼は、圧倒的な実力で世界を席巻中です(構成=吉井妙子 撮影=岸隆子)
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有言実行できて自信に繋がった
――2023年シーズンは、僕にとって最高の年でした。まだ17年間しか生きていませんが、引退した後も、70歳、80歳になって自分の人生を振り返った時にも、間違いなく心に残る年になっているはずです。
17歳でなぜ世界のトップに立てたのか、競技を始めてまだ7年の選手が世界ランク1位になれた秘訣は何か、と取材のたびに聞かれます。
もちろん、それだけ車いすテニスに向き合い、練習に取り組んできたことで能力を発揮できたという自信はある。「車いすテニス以外なら負けてもいい。車いすテニスでは負けたくない」と、全力を尽くしてきましたから。
でも、人やタイミングに恵まれた部分も大きいと感じています。そうしたチャンスを最大限に生かしてきたからこそ、世界一という目標に辿り着けた、と。
23年6月に行われた4大国際大会のひとつ全仏オープンの男子シングルスで最年少優勝を果たし、世界ランク1位に。7月にはウィンブルドンも制覇。さらに、10月末に中国で行われたアジアパラ競技大会でも優勝し、今年パリで開催されるパラリンピックの出場を決めた。
加えて、「全仏オープン車いすテニスシングルス最年少優勝者」「グランドスラム車いすテニスシングルス最年少優勝者」「世界ランキング1位を獲得した最年少車いすテニス選手」「ウィンブルドン車いすテニスシングルス最年少優勝者」という4つのギネス世界記録を達成している。
――全仏オープン、ウィンブルドンの2つのグランドスラムで優勝できたことはもちろん、ギネス記録に4つも認定されたことはとても嬉しかったですね。尊敬する車いすテニス界のレジェンド、国枝慎吾さんもたくさんのギネス記録を持っていますが、最年少記録は今の僕にしか成し得ないことですから。
なかでも全仏オープンで初優勝を果たした時は、ついに目標が達成できたという安堵感が大きかったです。僕は「グランドスラムでの優勝と世界ランキング1位」を目標にして、常々「優勝します」「勝ちます」と公言し続けてきた。だから、有言実行できたことで、自信にも繋がりましたね。
「優勝します」と言い続けることは、プレッシャーにもなるし、負けた時の代償も大きい。でも、そうやって自分を鼓舞し続けていないとモチベーションも上がらないので、強気な姿勢は僕のスタイルでもあります。
足が不自由でもできることはある
9歳で骨肉腫と診断されるまで、僕はネイマールに憧れ、プロを目指すサッカー少年でした。
ある日、左脚に激痛を覚え、大学病院を受診すると「すぐに入院してください」と。診断は、骨に発生する悪性腫瘍「骨肉腫」でした。両親はショックを受けていましたが、僕はまだ幼かったこともあり、この病気がどれだけ大変なものかを理解できていなかったように思います。
入院してすぐに、抗がん剤治療が始まりました。9ヵ月間に及ぶ治療は、やっぱり苦しかったですね。でも、僕よりつらそうな子もたくさんいたので、なんとか頑張って乗り越えました。
その後、左脚の股関節と大腿骨を一部切除して人工関節を入れ、左の腹直筋を切り取って太ももに移植するという大手術を受けることになったのです。
人工関節にしたことで、左脚が不自由になってしまったことは本当につらかった。何より、サッカー選手の夢は諦めざるをえなくなったことに落ち込みましたね。でも、僕の夢を知っていた担当医が、障害のある人が行うパラスポーツの存在を教えてくれたのです。そこから「足が不自由でもできることはあるのか」と、入院中にパラスポーツ動画を夢中で観続けました。
その中でビビッときたのが、ロンドンパラリンピックの車いすテニスで金メダルを獲得した国枝さんの試合。とにかくかっこよかった。すぐ両親に、「車いすテニスをやってみたい」と言いました。親はなぜか、車いすバスケをやってほしかったようで、驚いていましたけど。
それからはテニスをやりたい一心でリハビリに励み、退院後10歳で、車いすテニスができる岐阜インターナショナルテニスクラブに入会。自宅がある愛知県一宮市からテニスクラブまでは車で1時間以上かかるのですが、父が送り迎えをしてくれました。
ここで、現在のコーチである熊田浩也さんと出会います。熊田コーチをはじめとするクラブのコーチ陣に出会わなければ、僕の今の成長はなかったはず。入院していた時の担当医が違う先生だったら、パラスポーツに出会っていたかもわかりませんし、人との縁は大事だなとつくづく思います。
勝つためならどんなことも耐えられる
車いすテニスを始めて3年後、中学1年生の時に、18歳以下の世界No.1決定戦「世界ジュニアマスターズ」で優勝することができました。中学3年生の時には、世界ジュニアランキング1位に。そうしたこともあって、卒業と同時に「プロ宣言」をすることにしたのです。
海外遠征であまり中学校に行けず、このまま高校に進学しても登校できないことはわかっていたので、通信制高校を選ぶことに。
ただ、めちゃくちゃ悩みましたね。友だちは皆、全日制の高校に進学しますし、高校を卒業してからプロになってもいいんじゃないか、って。でも親に背中を押されて、15歳でプロになる決断をしました。父や母は、どんな時でも「お前ならできる」「お前なら勝てる」と常に励ましてくれる。僕が強気の姿勢になったのも、そんな両親に導かれたからだと思います。
車いすテニスが一般のテニスと違うのは、2バウンドまでの返球が許されていることだけ。それ以外はすべて同じです。
ほかの車いす選手は2バウンドを利用して攻めますが、僕はバウンドなしで返球するボレーが得意。常識を覆せば勝利の近道になると考え、技術を磨いてきました。でも、車いすの操作が難しく、体と車いすが一体化する感覚になるまで基礎練習を繰り返す必要があり、それが大変で。
本来僕は、同じ動作を繰り返す練習があまり好きではありません。それでも打ち込めたのは、勝つことへの執念が強かったから。勝つためなら、どんなにきつい練習でも耐えられます。
英語の勉強もしました。学校での英語の授業は全然できなかったけれど、今は優勝インタビューや海外での記者会見は英語で行っています。ただ英語をしゃべればいいというわけではなく、ネイティブな発音ができなければ海外では通用しません。
ジュニアランキング1位になった中学時代、英語の発音が下手なことを欧米の選手から笑われたことがありました。その時、シニアで世界1位になるまでには、絶対にネイティブな発音を身につけようと心に決めたのです。
そのために、日本語を翻訳して英語を学ぶのではなく、英語で英語を学ぶというか、海外で街行く人々の会話に耳をそばだてたり、英語圏の人と積極的に会話したりするようにしました。
彼らの会話はウイットに富んでいるし、ジョークも豊富。それらを理解するには、背景にある文化を理解することも必要です。ホテルに戻ると、覚えた言い回しなどを一人でブツブツ呟いていましたね。
全仏オープンやウィンブルドンで勝った時、優勝インタビューでジョークを交えて喜びを表現したところ、多くの人が笑ってくれたのは嬉しかった。チャンピオンは強いだけでなく、それに相応しい言葉も必要だと僕は思っています。
ただ、負けた時は多くを語りません。23年9月に行われた全米オープンでも優勝を期待されていましたが、1回戦で敗退。その時、敗因はほとんど話しませんでした。言葉にすると、マイナスの要素が脳にインプットされてしまうからです。
その代わり、悔しさを嫌というほど自分に叩き込みました。こんな屈辱を二度と味わいたくない、と。その甲斐あって、それ以降の試合はすべて優勝しています。
障害者へのイメージを変えていきたい
テニスを始めた頃の目標は、世界一になることと、病気を持った子どもたちのヒーローになることでした。世界一は叶えたけれど、ヒーローはまだまだですね。
僕自身、車いすや杖の生活になった頃、街でジロジロと人に見られることが苦痛でした。「障害をマイナスにとらえられたまま、人生を終わらせたくない。何かで成功して、有名になって一発逆転してやる」と思ったのです。
今では、《車いすテニスの小田凱人》としてたくさんの方に知ってもらえていることが嬉しい。それに、10代後半で発症することの多い骨肉腫に9歳でなったことは運がよかったとすら思っています。そのおかげで、車いすテニス人生のスタートを早く切ることができ、こうして最年少で活躍できているわけですから。
これからも車いすや杖でどんどん外へ出ていき、車いすテニスを通じて、障害者へのイメージを変えていきたい。それが、僕の一番の使命だと思っています。
凱人という名前の「凱」には、《闘いに勝って帰る》という意味があるんです。だから、今年のパラリンピックが凱旋門のあるパリで開催されることに、なにか運命のようなものを感じています。名前の通り、パリで金メダルを獲って凱旋するので、皆さん待っていてください。
09/01 09:00
婦人公論.jp