世界一のドジャース、大谷翔平が開拓した道 日本選手の挑戦60年史

エンゼルスのユニホームの袖に腕を通し、うれしそうな表情を浮かべる大谷翔平(左)=2017年12月

 ドジャースの大谷翔平はワールドシリーズを制し、「本当に最高の終わり方ができて、最高の1年だったなと思います」と喜びをかみしめた。

 その大谷が生まれたのは1994年7月だった。日本選手がアメリカで次々と活躍し始めた2000年代初頭はまだ多感な小中学生だった。

 17年11月、大谷はプロ野球・日本ハムから大リーグ挑戦を表明するにあたって、「子どもの頃からテレビで見て、『自分も行ってみたい』という少年のときの心じゃないかなと思う」と話した。

 米球界には、大谷の投打の「二刀流(2way)」に対して懐疑的な見方も根強かった。それでも、その挑戦を容認する球団があったのは、日本出身大リーガーが放ってきた輝きを目のあたりにし、成功の可能性を感じていたからではないだろうか。

 もしも、大リーグで日本のプロ野球の実力が認められていなかったら……。これまでの日本選手の活躍がなかったとしたら……。

 野球の本場で二刀流への挑戦が容認されることはなかったかもしれない。大谷だって、アメリカで野球の「常識」を覆す冒険をしようなんて思いつきもしなかったかもしれない。

■日本で「本物の野球はやってない」と言われた時代も

 大谷が球史に残る活躍をみせる今シーズンは、1964年に初の日本人大リーガーが誕生してからちょうど60年の節目にあたる。

 “ファーストペンギン”になったのは、左腕の村上雅則さん(80)だった。ジャイアンツに入団し、2年間で54試合に登板して5勝を挙げた。

 そこから2人目の日本選手が海を渡るまでには、30年の空白があった。

 日米の野球を題材にした複数の著作がある米国人作家ロバート・フィッツさんは、朝日新聞のインタビューに「当時は『日本って野球をやっているんだ』とか『本物の野球はやっていない』とか、侮蔑的な言葉をよく耳にした」と答えている。

 そんな偏見を、95年にプロ野球・近鉄から渡米した野茂英雄が変えた。

 ジャッキー・ロビンソンが黒人初の大リーガーとしてデビューし、メキシコ出身のフエルナンド・バレンズエラがヒスパニック系の草分けとして活躍したドジャースで、新人王と最多奪三振を同時受賞。センセーショナルな「トルネード旋風」を起こし、日本人投手のレベルの高さを証明した。

 マリナーズのイチローは2004年、大リーグの年間最多記録となる262安打を放ってみせた。松井秀喜は指折りの名門球団ヤンキースで03年から7シーズンプレーし、09年にはワールドシリーズで日本選手初のMVPを獲得した。

 17年に23歳で大リーグに挑んだ大谷は、21、23年とアメリカン・リーグのエンゼルスでMVPを受賞した。昨季から2年連続で最多本塁打のタイトルも手にし、ワールドシリーズの王者にまでなった。大リーグで最も年俸を稼ぐスーパースター、大谷の二刀流を否定する意見は皆無だろう。

■本塁打王ジャッジも大谷に敬意

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