「スポーツ解説には空虚な言葉が蔓延しているので…」元フィギュアスケーター町田樹(34)が明かした“スポーツ界への危機感”と“新たな挑戦”

フィギュアスケート日本代表→24歳で電撃引退→大学教員に…町田樹(34)が驚いた大学生からの“意外な反応”「目からウロコな体験でした」〉から続く

 2014年末にフィギュアスケート競技者を引退後、研究者をはじめとして言語表現の分野で広く活躍する町田樹さん(34)。“氷上の哲学者”と呼ばれた町田さんが、「競技する身体」を支える言葉の力について語った、「文學界」のインタビューを特別公開します。

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「『表現力が素晴らしいですね』というような解説は、本質を何も語っていない」「スポーツの世界には実体のない“空虚な言葉”が蔓延している」――。そう語る町田さんの、セカンドキャリアにおける挑戦とは。 (全3回の3回目/はじめから読む)

初出:「文學界」2024年3月号 2023年12月21日収録

町田樹(まちだ・たつき)/1990年生まれ。スポーツ科学研究者。國學院大學人間開発学部准教授。フィギュアスケート競技者としては、2014年ソチ五輪個人戦・団体戦でともに5位入賞、同年世界選手権で準優勝を収めた ©文藝春秋 撮影/石川啓次

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身体をめぐる言語表現のさらに根底には何があるのか

――「言語がすべての表現のベースになっている」という思想を持つ町田さんにとって、言語化が難しい身体、あるいは、言語からこぼれ落ちてしまうような身体性を実感されることはありますか。

町田 この質問にお答えするには、やはり、身体をめぐる言語表現のさらに根底には何があるのか、ということを考える必要があるでしょう。そして、私の場合は、やはり経験が言葉になっている、ということが大きい。研究者としての私は、経験していない、あるいは経験し得ない身体は書きようがありません。ただし、小説家やルポライターなどの物書きはこの限りではなく、おそらく取材などを重ね、かつ想像力を駆使することで、この「経験」の壁を乗り越えていくのだと思います。

解説や評論には、経験した身体を書いているという強い意識がある

 私がなぜフィギュアの解説や評論をやれているのかといえば、それは私がかつてフィギュアスケーターだったからです。でも、どの分野においても、経験者ではない解説者や評論家もたくさん存在します。そしてもちろん、そのことにも大いに意味があります。なぜなら、経験者ではないからこそ語れる身体というのも確かにあり、その独自の観点は、経験者である私にはないものだからです。

 でも、私個人の場合には、やはり経験した身体を書いている、という強い意識があります。経験していない身体を書くと、そこにはズレや齟齬が生じてしまい、それこそ「言語からこぼれ落ちてしまうような身体性」が発生してしまいそうです。あくまで「自分の場合は」というエクスキューズ付きですが、言語によって描出された身体が正しいのか、それとも誤っているのか、その答え合わせをするための拠りどころとなるのが「経験」であるという認識です。でも、この考えが「絶対」だとは言いません。身体の表現方法や、それに対する考え方は千差万別ですからね。

当事者ではない、第三者がアスリートを書くときに生じる問題

――今のお話に絡めて、もう少し文学に関する質問をさせてください。最近の小説、特に純文学というジャンルにおける傾向として、「当事者性」が問われる瞬間が増えていると感じます。「経験に裏打ちされているがゆえに描けるリアル」という側面もありつつ、一方で「経験に依らないことを書くことも技術のうち」という考え方もあると思うので、いろいろと議論の余地があると思うのですが、こうした時代の潮流を、町田さんはどのように分析されますか。

町田 「経験し得ない身体」を第三者が書こうとした時に起こる大きな問題として、一つに、どうしてもステレオタイプが入ってきてしまう、ということが挙げられると思います。だからこそ、それを回避するために、ルポや小説を書く作家は、綿密に取材をしたりするわけです。ただ、あらゆる事象に対して、当事者ではなく第三者が語る場面・機会というのは思いのほかたくさんあります。

 ゆえに、第三者が語る障害者、第三者が語るアスリートといった言説の中に、ステレオタイプが紛れ込むことは絶対になくならないでしょう。そこには、時に実体から大きくズレていたり、的を射ないものも含まれていて、これは当事者を傷つけることになる。しかも、マスメディアという非常に大きな影響力を持つ存在を介すことで、その誤った情報はさらにステレオタイプを強化し、浸透・定着していってしまう。これはやはり食い止めなければならない――ここに、当事者による言語表現というものが求められている大きな理由があると私は考えています。

スポーツにおける「芸術性」の評価とは?

――「第三者による身体の言語化」といえば、スポーツ観戦における、競技者の評価について気になることがあります。例えば、それが球技であったならば、「ボールがよく取れる」「得点ゴールが多い」といった、いわゆる技術の部分が着目され、「評価=言語化」されます。

 これがフィギュアのようなアーティスティックスポーツである場合、ジャンプのクオリティのような部分は「技術」の領域ですが、素人目にはなかなか出来/不出来が判断つきづらいのに加えて、いわゆる「芸術性」に関する領域ともなると、さらにその評価が難しくなってくるように思うのです。鑑賞者と競技者という視点に立った時、両者はどのような言葉の関係性を結び得るのか、町田さんのお考えになる理想像があれば伺えますか。

「世界観が出ている」「表現力が素晴らしい」…本質は何も語っていない

町田 例えばフィギュアでは、「美しい演技」「きれいなジャンプ」のような言葉で評することがよくありますよね。そう感じたから、そう言葉にしたのだろうとは思うのですが、私が気になるのは、じゃあそれは何故に美しく、何故にきれいなのか、ということです。その「美しい」「きれい」と思わせている現象の本質というものをきちんと掴まえないまま、ただ紋切り型の賞賛の言葉が濫用されているように感じてしまうのです。これは、観客の問題である以上に、評価を生業としている人間の問題でしょう。

スポーツの世界に「空虚な言葉」が蔓延している

 その演技がなぜ美しいのか、なぜきれいなのか、その「理由」を解きほぐすことこそが解説者の本来の仕事なのですから。「美しい」「きれい」ということ自体は本当なので、深掘りせずに流してしまうことができる。でも、その結果として、美しさの本質がどんどん分からなくなってきているように感じます。似た話として、フィギュアの解説で頻出する「●●選手/●●の音楽の世界観が出てますね」「表現力が素晴らしいですね」というような言い回しもあります。これもまた、本質は何も語っていません。

「じゃあ、その世界観とは何?」「表現力って?」と聞かれた時、その解説者はおそらく、具体的なことは何も答えられないのではないでしょうか。こうした実体のない「空虚な言葉」が蔓延しているのが、スポーツの世界なのです。

「空虚な言葉にNOと言いたい」研究者・表現者である町田樹の“挑戦”

――空虚な言葉が生まれる背景には、どんな事情があるのでしょうか。

町田 解説者のそうした言葉は、テレビ中継などから流れてくるわけですが、あの世界はものすごく尺に縛られているので、何を言うにも「5秒でお願いします」というような指示が伴います。常にカウントが入っている状態で作品を、演者を評さなければならないわけです。さらに言えば、ちょっとした失言で袋叩きにされるようなこの世の中にあって、自身を守るために当たり障りのない言葉を選ばざるを得なくなるのも致し方ないのかもしれません。

 しかし、言語を信奉する研究者・表現者である私は、こうした流れに「NO」と言いたいのです。これは、「空虚な言葉」を「実のある言葉」に変えていくという挑戦、と言い換えてもいいでしょう。もしここで手をこまねいていては、空虚な言葉が延々と輪廻・再生産されていくという、ものすごくむなしい言論状況を生んでしまうことは必至です。そしてそれは、ともすれば観客をもその主体にしてしまうという危険性も孕んでいます。

 例えば、SNS上には競技に関するたくさんの感想が飛び交います。そして、そうした場の代表格とも言える「X(旧ツイッター)」には字数制限があり、「尺」に縛られているテレビ解説同様に、空虚な言葉が流通しやすいという特性があります。

 でも、私はそこに希望の光も見出しています。なぜなら、非常に的を射ていたり、はっとさせられるような感想も、また同様に存在することを知っているからです。そして、そうした素晴らしいレスポンスが直接届くことで、選手が感化され、それまであまり理解できていなかった自身の演技の本質というものに気づくきっかけにもなり得る。実際、私もさまざまな素晴らしい気づきを、SNSでの感想を介して得ることができた人間の一人です。

 深い洞察力のある言語表現は、業界を活性化させ、次世代のパフォーマーを育むうえで非常に重要だと思います。自分のこれからの仕事も、そうしたポジティブな言葉の循環を作る一助となれば、これに勝る喜びはありません。

(辻本 力/文學界 2024年3月号)

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