「(藤井の)記録をとっているときには、常に負けてほしいと…」伊藤匠叡王が3年前にそう語っていた理由

「『藤井世代』という意識は特にない」新叡王・伊藤匠(21)が考える“ライバルの存在”とは〉から続く

 第9期叡王戦において、タイトル戦22連覇の王者・藤井聡太を破り、初戴冠を果たした伊藤匠新叡王。21歳8ヶ月での獲得は、歴代8位の若さだ。

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 文春オンラインでは、伊藤がプロデビューして1年後の2021年11月16日に「藤井時代か、藤井世代か」と題したインタビューを行っていた。伊藤四段(当時)は初めての通年参加となったこの期に、藤井四冠(当時)の5年連続勝率1位を阻止して、年間勝率1位に輝いている。

 インタビューにあらためて目を通すと、その言葉には19歳の繊細で鋭利な感性が宿っていた。そこに秘められた想いこそが、今回の叡王獲得に繋がったのだと感じた。

 今回、タイトル獲得から5日後に現在の心境を聞くことができた。19歳と21歳の言葉を対比させながら、本人の言葉をありのままに近い形でお届けする。

プロデビューして1年後の伊藤匠四段(当時)

19歳の肉声

 伊藤がプロデビューを果たしたのは、2020年10月1日。同学年である藤井聡太に遅れること4年だった。躍進を期してのスタートだったが、第1局目の杉本和陽四段(当時)戦、第2局目の山本博志四段(当時)戦に連敗してしまう。デビューから29連勝を記録した藤井とは対照的に、厳しいプロの洗礼を浴びた。

「デビューして2連敗は、かなり厳しいスタートでした。相手の方も若手だったので手強いと思っていたのですが、実際にそういう結果になって焦りはありました。内容に対しての自問自答は常にあります。このときはまだ実力不足というのが大きかったと思います。やっと持ち時間の長い対局に慣れてきたのは、今年(2021年)の7月くらいからでしょうか。成績としては上がってきているのかなと感じています」

 この年に最も記憶に残ったことは何だろうか?

「やはり永瀬先生(拓矢王座・当時)と公式戦(王位戦予選)で対局できたこと、そして勝利できたことです。永瀬先生には三段の頃から頻繁に教わってきました。だから公式戦で指せるのは嬉しいことでした。将棋に対する姿勢ではかなり影響をいただきました。

 先生は1日のほとんどの時間を将棋に費やされているのかなと感じます。会話をしなくても、教わっている中でいろいろな変化に精通されている様子から勉強量の深さが伝わってくる。そして指していて、とにかく強い。

 永瀬先生はいろいろな方と研究会をしていて、自分もいつか教わりたいと思っていたので、誘っていただく機会が巡ってきたときは嬉しかったです。何回も指すことで、自分とは読みの深さが違うのを実感していきました。四段になれたのもそれが大きい。最も影響を受けた棋士といってもいいです」

藤井は「本当にありがたい存在」

 取材の1か月ほど前には新人王戦で優勝を飾っており、手応えを感じ始めていたのか、藤井への率直な気持ちも口にしている。

「公式戦で早く指したい棋士はやっぱり藤井さんです。(藤井の存在は)ありがたいことだと思います。どこまでいってもモチベーションが尽きないというか。(藤井からタイトルを獲ったら気持ちに変化は?)そうなればいいですけども(笑)。本当にありがたい存在です。(藤井を意識することで、同世代が引き上げられていくことは?)どうなんでしょうねえ、そうなればとは思いますけども」

 これからの将棋界をどう見るのかという質問には、こう答えていた。

「藤井さんにタイトル戦で誰が勝つのか、どう戦っていくかというのが焦点なんじゃないですかね。タイトル戦だと、本当に安定した成績ですから。(自身のタイトル挑戦は意識しているのか?)まだそれに手が届くところまで全然行っていない。予選を抜けたこともないので。まずはそういう舞台に立てるようにというところですけども。(藤井に挑むために必要なものは?)やはり技術的なところがかなり差がついていると思うので、そこを埋めないとどうしようもない気がしています」

記録係を務めた最高峰の舞台

 メディアは、藤井と伊藤を子ども時代からのライバルとして取り上げてきた。2人が対戦し、負けた藤井が大泣きする映像は何度もテレビで流された。

 だが実際に対戦したのは一度だけだったという。

「藤井さんを意識したのは、小学3年の小学館の大会(小学館学年誌杯争奪全国小学生将棋大会)くらいで、そこでしか顔を合わせたことはなかったかな? 自分はその大会以降は予選落ちばかりしていた気がします。それ以来、全国大会には全く縁がなかった。小5くらいのときは、何の代表にもなっていなかった気がします。明らかに格下の子に負けていた気がする」

 その後、藤井は小学4年で奨励会に、伊藤は5年生で入会した。関西と関東に分かれてはいたが、先をいく藤井の存在を意識し続けていた。

 2018年2月17日第11回朝日杯将棋オープン戦にて、藤井聡太五段(当時)が優勝を果たしたとき、伊藤は記録係を務めていた。中学生での全棋士参加棋戦優勝は初めてのことであり、大きなニュースとなる。ちなみに藤井は2月1日の順位戦で五段昇段を決めたばかりだったが、この優勝により同日付けで六段昇段となる。五段の期間はわずか16日間であった。

「その日は奨励会の例会と被っていたのですが、自分は三段昇段を決めていたので対局がなく、駆り出された感じでした。そういう最高峰の舞台の記録をとれるのは嬉しかったです。(藤井の)記録をとっているときには、常に負けてほしいと思っているので、勝ちに近づいていくうちに気持ちは落ち込んでいきました。(先に行かれたくない気持ちが)あったと思います。

 最初に(藤井の)記録をとったのはデビュー24戦目でしたか。叡王戦の対梶浦宏孝四段(当時)戦です。(藤井が伊藤に気付いた様子は)ないと思います。あのときはなぜか佐々木勇気先生がいたのを覚えています。私が部屋に入ったときにはすでに端の方に座っていました。なんでここに来ているのかなと。対局開始後に出て行かれたと思います。その頃はまだ面識はありませんでした。(同世代の記録をとることに対して)かなり先を行っている人でしたし、接点もなかったので、そこに対しては抵抗はなかったんですけども。勉強になりますし、強いですから。

(藤井の優勝を目の当たりにして)ふふふ、そうか優勝までしてしまったかという感じですね。その日は打ち上げまで参加して、途中で帰宅したと思います。(藤井と話したことは)なかったです。立食でしたし、職員の方が気を使ってくれたんだと思います。私もまだ中学生でしたし。(家に帰ってその日の将棋を振り返ったのか)ああ、どうですかね……。その辺の記憶はそんなに。将棋の内容は今でも2局とも覚えていますけども。(藤井の将棋だからか?)まあそうですね、そういう将棋は特に覚えています」

クラスに馴染めなかった中学時代

 伊藤は中学時代には友達と話すことがほとんどなかったという。18歳の時に語られた言葉には、思春期の痛みが込められていた。

「そうですね、自分から特に話すことはなかったです。全く話しかけられないというわけではなかったと思います。(休み時間も棋書を読んだり?)そうですね。周りの目はあまり気にならなかったです。何度かは(何を読んでいるのかと)聞かれたことはありました。いじられた記憶はありますけど。基本、男だったと思います。ルールくらいは知っているんでしょうけども。そこの記憶はあんまり。結構学校に行っていない時期とかもあったんで。記録係とかもありましたけど、いわゆる不登校みたいな立場だった時期もあります。中学2年の4月から夏休みに入るまではずっと休んでいました。クラスに馴染めないというか、あったんでしょうね。基本的に将棋の勉強をしていた感じです。研究会とかはしていました。

 家族は心配して、『学校に行ったほうがいい』と言われました。さすがにまずいなと思って、2学期が始まって少し行くようにしました。(友達からのメールは?)そういうのは全くないです。交換している人がいないので。(不登校時に先生が)家に来ることはなかったですが、電話をもらったりとかはありました。(夏休み明けに学校に行く気持ちになれたのは?)やっぱり世間体ですかね。さすがに中学くらいは行かないとまずいというか。自分の場合は世間体としか言いようがないと思うんですけどね。

(その頃は将棋が支えになっていたのか?)支えとはちょっと違うような……。そうですね、やっぱり将棋に集中したいというか、そういう一心だったというか。ちょっとよくわからないですね」

受験で進学するも1ヶ月で辞めた高校

 中学3年で三段昇段を果たした伊藤は、高校に進学した。

「12月に三段リーグ入りを決めて3ヶ月ほど時間が空いたので、まあ、だったら受験勉強してみようかなと。どれくらいできるのかという感じで勉強しました。(入学して)1ヶ月で辞めました。(中学時代から教えてもらってきた永瀬拓矢九段もすぐに退学しているが)そこは別に影響を受けたわけじゃないです。

 そこそこ偏差値の高い高校に行ってしまったので、課題とかも多くて面倒になってしまった感じでした。そうでなくても辞めていた可能性はあると思いますけど。高校くらいは行ったほうがいいのかなと最初は思っていたんですが、入ってみると厳しいなと感じて。親に相談して、最初は結構反対されたんですけど、その日のうちに押し切って。次の日くらいに退学届をもらった気がします。その週末に出しました。学校側に止められることはなかったです。『どうして?』という感じだけで。棋士を目指すことに対しては理解してくれたと思います」

悔しかった西山三段との対局

 三段リーグ4期目の最終戦は、大きな注目の中で行われた。伊藤には昇段の可能性はなかったが、対戦相手の西山朋佳三段(現女流三冠)はその時点で13勝4敗で、勝てば女性初の棋士が誕生する可能性があった。東京の将棋会館には、奨励会の対局とは思えぬほどの多くの報道陣が押し寄せた。結果は西山が勝って14勝目を挙げたが、惜しくも順位差で次点の3位となり昇段を逃した。伊藤は9勝9敗の指分けに終わる。ちなみに、藤井聡太が四段昇段を決めた三段リーグの最終戦の相手は西山だった。

「対局中は普段と変わらずに指していたと思うんですけど、負けて相当に悔しかった記憶があります。(世間の女性棋士誕生への期待によるプレッシャーは)そういうのは全く感じていなかったです。むしろ『止めてやろう』という気持ちの方が強いんじゃないですかね、奨励会員なら。ここは絶対に止めてやろうと。自分が負けて(初の女性棋士が)誕生するのは一番悔しいことなので。(翌期の自分の昇段のバネになったかは)わからないです」

もし将棋のない世界に生まれていたら?

 大一番には強い方だと思うか。

「奨励会に入ってからは、昇段の一番は基本的に上がることが多かったので、(大一番に)そんなに弱くはないと思います。結構繊細な部分はあると思いますが。(藤井は)やはり図太いんじゃないですかね。切り替えの速さとか重要だと思います。(プロになりたいと初めて口にしたのは)自分の記憶ではあまりはっきり覚えていないんですけど、小学1年とか、それくらいから意識していた気がします。(藤井が1年早く奨励会に入ったことは)意識していたかもしれませんが、その頃に何を思ったかはあまり覚えていません」

 伊藤は今も“将棋漬け”の日常を過ごしている。四段のときは1日の生活を以下のように話していた。

「研究会がある日は朝起きてすぐに向かって、夕方頃に帰宅して指した将棋を振り返って。研究会がない日は結構昼頃まで寝ていて。基本的にソフトを使って勉強しています。1日の研究時間は……数えていないので。キリがつかずに遅くなってしまうこともよくあります。昨夜も午前2時半頃に寝ました。テレビは全く観ないです。本もあまり読みません。(世間一般の出来事については?)全く興味がないですね(笑)」

 もし将棋のない世界に生まれていたら?

「ああ、どうだったでしょうね。まあ普通に過ごしていたかもしれません。学校生活に馴染んでいた可能性もあります。(将棋のために学校生活を切り離していた?)まあ、そういう経緯だったかもしれません」

写真=野澤亘伸

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 藤井聡太と同世代の棋士たちの姿を描いた群像ルポ「藤井時代か、藤井世代か」は、好評発売中の文春将棋ムック「読む将棋2022」に掲載されています。どうぞあわせてお読みください。

(野澤 亘伸)

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