「戦争に行くような気持ち」マラソン解説者・増田明美、現役時代の日の丸の“重圧”とこれからの挑戦

スポーツジャーナリスト・マラソン解説者の増田明美(60)撮影/佐藤靖彦

 “細かすぎる解説”はたまた“マス・ペディア”─。いずれも、陸上競技を解説する増田明美(60)の代名詞である。走りに関わる解説だけでなく、選手の人となりを、エピソードをまじえて紹介するスタイルは、今年のパリ五輪、女子マラソンでもいかんなく発揮された。

海外選手の情報収集も怠らない

「(一山)麻緒さん、本当に素敵な女性でね。面白いのはいろんな方が麻緒さんにケーキを作ってもらったっていうんですけども、そのケーキの作り方なんかも美にこだわってね。形にこだわると。ご自分もとってもおしゃれで、洋服やスキンケアをする選手なんですけども、もう本当にパリにぴったりの選手だから、(レースの)後半も美しいパリから力をもらってほしいと思います」

 海外選手の情報収集も怠らず、オランダ代表でパリ五輪金メダリストのハッサン選手については、彼女がエチオピア・アジスアベバの、標高2800mの小さな村出身であることを紹介。

「15歳のときに難民として故郷を離れてオランダに来て、看護師資格を取ろうと猛勉強したそうです」

 そして鈴木優花選手が見事6位入賞で走り終えたときに発したひと言は、

「中学校2年生のときに書いた作文が『走り抜いた夏』でした。子どものときから優花さん、作文も上手で絵も上手で芸術的なセンスがある人」

 レースと関係ない情報を“うぜえ”とSNSで批判する人もいた。

 しかし、各選手の走りから疲れや調子などを分析していたし、ママさんランナーが複数出場していることにも詳しく触れている。

「ステンソンさん(オーストラリア)は、ビリー君とエリーちゃんの2人のお母さんで、オビリさん(ケニア)も、ママさんランナーですね」

 解説全体はバランス的に見て、レースと関係のない情報がことさら多い印象は受けない。情報を差し込むタイミングによるものだろうか。増田と何度もマラソン解説をし、公私共に付き合いのある瀬古利彦(68)は、こう話す。

「増田さんは指導者経験がないので技術的なことを話したら、Qちゃん(高橋尚子)のほうが上かもしれないけど。でもね、彼女は選手を輝かせたいと思っているんですよ。

 それと、普段マラソンをあまり見ない人に、マラソン選手を身近に感じてもらって、1人でも新しいファンを増やしたいと考えて、選手を熱心に取材しているのだと思います。本当に熱心なんですよ。感心します。単にお調子者で、ああいう詳しい情報をしゃべっているわけじゃないってことですよ」

 もっともSNSに流れる雑音について当の増田は、

「私が20代ぐらいなら、全員に好かれたいと思うから傷つくかもしれないけど、還暦ですからね。それも楽しんでいますよ」

 と笑い飛ばす。

 それにしても、なぜこうした解説スタイルを確立したのか。その背景は、わずか20歳で初めてオリンピックに出場し、女子マラソンの歴史を切り開いてきた人生と無関係ではない。

負けず嫌いで、褒められて伸びるタイプ

 増田は1964年1月1日生まれ。くしくも、日本で初めてのオリンピック東京大会が開かれた年である。

 両親は、千葉県夷隅郡岬町、現在のいすみ市で専業農家を営んでいた。

 幼いころの増田について、車の開発研究者で3歳下の弟・光利さん(57)は、普段は全力で守ってくれる優しい姉だったという。

「私が幼いころ、親戚の家でお漏らししたとき、姉がはいていたパンツを貸してくれたそうなんです」

 しかし勝負がからむと人が変わったように負けず嫌い。

「ゲームでも負けると“もう1回”と、自分が勝つまでゲームを続けていました」

 おっちょこちょいな部分もあって、忘れ物の常習。登校の途中に忘れ物を思い出し、家にとって返し、全速力で走って戻ると、まだ登校中の友達に追いついたという。通学距離は片道2・5km。長距離走は速かったのだ。

 ただ、中学校では自分の才能に気づかずテニス部に入部。人気アニメ『エースをねらえ!』の岡ひろみに憧れていたのだ。しかし向いていなかったようで、壁打ちばかりの日々。転機が訪れたのは中2のとき。町内一周駅伝大会の助っ人として出場すると高校生男子3人を抜き去る快挙。陸上部に引き抜かれる。

 水を得た魚とはこのことで、大会に出るたびに記録を更新。千葉県大会の800m競走では県新記録をたたき出した。

「よい成績を出すと、朝礼で校長先生が全校生徒の前で私の活躍を褒めてくださるんですよ。それがうれしくてね。次も頑張ろうって」

 3年生のときには、800mで全国4位に入り、強豪の成田高校からスカウトがくる。白のベンツに白いパンタロンスーツといういでたちで現れたのは滝田詔生監督。俳優・滝田栄の兄で鬼コーチの風情。「俺と一緒に富士山のてっぺんに登ろう」の一言にハートを射貫かれ入部した。

 監督の自宅の離れにあった部屋に下宿させてもらった。しかし襖1枚隔てた部屋にライバル選手がいた。

「私、彼女を太らせようと思ってお茶碗にご飯をぎゅうぎゅう詰め込んだんですよ。自分は少しだけ食べてね。幼かったですね。そんなことをしていたからか、貧血で走れなくなったんです。当時の私は協調性もなく、そういう振る舞いを監督は全部見ていたんでしょうね。2学期の最初、私はマネージャーになれと言われました。きっと人として成長してもらいたいと思ったからでしょう。でも、悔しくて陸上部をやめました」

 人生初めての挫折。実家に戻り、元の食生活に戻ると半年後に貧血は改善。監督から「戻ってこい」と誘われる。

〈高く飛ぶためには、一度深くかがむ必要がある〉

 屈辱や後退は次なる飛躍のチャンスという言葉だが、増田にとってまさにその時期だった。

 猛練習に次ぐ猛練習。すると3年生のときに3000m、5000m、1万mの記録を塗り替え、'82年には初のフルマラソンで日本最高記録を樹立。20kmマラソンでは世界最高記録をマークした。飛ぶ鳥を落とす勢いの新星につけられた別名が「女・瀬古」。当時、男子のトップランナー・瀬古選手になぞらえた。

 それから間もなくである。2年後のロサンゼルス五輪で女子マラソンが正式種目に決まったのは。当然、日本最高記録を持つ増田が最有力候補に浮上する。

背負わされた“日の丸”の重さに─

「小学校の先生になるのが夢だったので大学進学も考えていたのですが、環境を変えないで滝田監督のもとで走ることにしました」

 滝田が川崎製鉄千葉の陸上部監督も兼務することになり増田も入社。ただ、そこからが茨の道だった。

 '82年の入部当初から身体の状態は万全ではなかった。高校時代から体重が増えないよう食事制限をしていたので、3か月以上生理が止まる無月経が断続的に起きた。

「その影響で肌にいつも吹き出ものができていて、唯一の楽しみが、鏡に向かってかさぶたをはがすことでした」

 '83年の大阪女子マラソンでは途中棄権。栄養失調だった。その後環境を変えて、宗茂・猛兄弟のもとでトレーニングを積む。がんがん食べて楽しく走るという姿勢に影響され、考え方も変わった。

 栄養状態も改善し、翌'84年の大阪国際女子マラソンで見事、五輪の切符を手にする。

 喜びもつかの間。その先には崖が待っていた。間違ったトレーニングと周囲のプレッシャーである。

 酷暑のロサンゼルスに対応するため、わざわざ暑い場所を選んで合宿したのだ。

「スポーツ医学が発達した今ではありえない練習法ですが、当時はそんな状態でした。みんな疲れちゃって、別の暑いところで合宿していた瀬古さんは、血尿が止まらなかったみたい。私も顔に悲愴感が出てしまって」

 五輪本番に向けた練習の後半、増田は宮古島の市営グラウンドで5000mを走った。するとラスト100mで地元の高校生に抜かれてしまったのだ。

 あってはならない結果にプライドを打ち砕かれ、不安に押しつぶされそうになる。

 そのころ、壮行会が何度も行われた。そのたびに「日の丸に恥じないように頑張って」と言われた。

「だいたい年配の人なんですよ、そういう激励の仕方するのは。“日の丸に恥じない走りなんて無理だ”と思って。戦争に行くような気持ちでしたね。もう応援なんてされたくないという気持ちでした」

 地元の千葉で、一番大きな壮行会が予定されている日だった。増田はしかし、会場とは逆に向かうJR横須賀線に乗っていた。壮行会はすっぽかそうと思った。鎌倉で降り、顔を見られないように大きな麦わら帽子を買って、カツ丼と親子丼を平らげた。

自暴自棄になり孤独に

「どうせ私はこの世から消えるのだから」

 自暴自棄の心境だった。

 孤独だったのだろう。そのころ、合宿中もほとんど話さなかった瀬古に電話をしている。五輪本番の2週間前のことだ。増田は尋ねた。

「調子が悪いんです。どうしたらいいですか」

 瀬古は、所属チームが違う自分に、関係者から電話番号を聞き出し連絡してきたことで、増田が抱える切迫感に衝撃を受けた。

「やばい感じ、大丈夫かなって感じだったですよ。でも自分も血尿出しているし、前向きな話をひとつもできなかったですね」(瀬古)

 瀬古は増田のことを、「10代後半で一気に伸びた早熟ランナーだ」と言う。たかだか20歳のランナーに日の丸を背負わせるのは酷だった。体調も心の調子も回復することはなかった。

 ロサンゼルス五輪では、序盤こそ先頭に立つが、徐々に失速。足が動かなくなり、16km地点で途中棄権した。

 帰国した日、成田空港に両親と迎えに行ったのを弟の光利さんは覚えている。出発の日は歓声に包まれていたのに、帰国の日はひっそりとしていた。一緒に行った叔母が見つからないように、増田に帽子をそっとかぶせた。それでも見つけた人がいた。

「非国民!」

 嫌な言葉をかけてくるのはまたしても年配の人だった。

 以降3か月、増田は陸上部の寮にこもる。人の目が気になり外出できなかったのだ。ひたすら腹筋をした。

「私のマラソンの自己ベストは2時間30分30秒なので、その時間で何回腹筋ができるかを自分に課していました。ノンストップで5660回ぐらいできたかな。それをやることで自分を支えてました」

 訪れる人は母親だけ。時折、心配して料理を持ってきていた。荷物の中に入っていたファンレターを読むと、誰も責める人はいなかった。心に届いた言葉を見つけた。

「明るさ求めて暗さ見ず」

 陸上部をやめ、自宅に戻った。いったんは弟のすすめもあって、夢だった教師を目指して受験勉強に励み、法政大学社会学部(通年スクーリング)に入学するが、授業の合間にランニングすると、また本格的に走りたくなった。

留学先で知った、走る力の源

 知り合いに相談すると、NECアメリカに所属し、オレゴン大学で学びながら、プロのコーチに走りを指導してもらえる道があるという。素晴らしい条件で、迷わず渡米した。ここで増田は、なぜ走るのかについて、価値観を揺さぶられることになる。所属したランニングクラブには、ロス五輪の金メダリストがいるなど多士済々。コーチはブラジル人のルイーズ・デ・オリベイラ。彼はわずか1週間で、増田の課題を言い当てた。

「アケミを見ると悲しくなるんだよ。だってアケミは24時間よい結果を出したいと思っているだろ。でもね、よい結果というのは、生きていてハッピーだと思えるときに生まれるものさ」

〈勝ちに価値あり〉〈成功したければ口にフタをしろ〉と叩き込まれた増田は、その言葉が最初、理解できなかった。アメリカでの増田は、大学の授業や練習が終わるとカーテンを閉めて休んでしまっていた。でもチームメートを見ると、恋人がいたし、軽い練習の日には地元の小学校に五輪のメダルを見せに行ってスポーツの楽しさを伝えたり、パーティーを楽しんだりしていた。

「チームメートはハッピーな気持ちを走る力にかえていたんです。それまで私は人から評価されたいと思って走っていましたからね」

 ルイーズのひと言に雷に打たれたような衝撃を受けた増田は、チームメートをパーティーに誘った。天ぷらを揚げたり、千葉の郷土料理「花ずし」という巻き寿司を作ったりして楽しんだ。みんなで料理を持ち寄って、アメリカンフットボール観戦を楽しむこともあった。

 2年間のアメリカ滞在を終えて帰国した増田は、再び競技に戻った。駅伝に出てNECチームの一員として参加、8人抜きをするなど調子がよかったのだが、大阪国際女子マラソンに出ると、27km地点で立ち止まってしまう出来事があった。沿道から、

「おまえの時代は終わったんや」

 と言われ、ショックを受けたのだ。しかしその直後、思わぬ出来事に遭遇した。

「市民ランナーの方が6人ほど、私を励ましてくれたんですね。私の肩をポンと叩いたり、スポンジを持ってきてくれたり、手拍子して一緒に走ってくれたり。みんな自己ベストを更新しようとして大会に出ているのに、なかなかできないことです。人って素敵だなって。そういう人になりたいと思いました」

 30位でゴール。そのときの体験がプラスに働いたのか、翌年の東京国際女子マラソンでは日本人トップの総合8位でゴール。新聞には「増田、復活」の文字が躍った。

 だがそれ以降、走る意欲が落ちている自分に気づく。

「足が痛くて走れないことも理由だったと思うんですが、駅伝でタスキをもらっても、それまでのような“追い抜こう”というファイトが湧いてこなかったんです。これはもう潮時だろうと引退を決めました」

 アスリートとしての“死に場所”、つまり引退の場として選んだのは、五輪出場を決めた大阪国際女子マラソン。1年かけて準備をしたが、肝心のレースで足に痛みが出てしまう。15km地点で制限時間を超えて途中棄権に─。

 検査の結果、疲労骨折と判明。さらにMRIで調べたところ、7か所に骨折所見が認められた。10代の減量がたたって骨をもろくしたのだ。

 4か月後、その情報がどこから漏れたのか、朝日新聞に骨折の記事が載った。

「粉骨練習 増田明美さん 骨のもろさ、65歳並み」

 掲載されたのはスポーツ面ではなく社会面。アスリートの練習方法、栄養面が社会問題になり始めた時期だった。増田は図らずも身をもって問題提起する形になった。

永さんとの出会いが増田流解説の原点

 '92年に引退した増田は、スポーツライターの道に進む。

「オリンピックで途中リタイアし、最後のレースでも棄権しているでしょ。自分がマラソンランナーであったことに誇りを持てないわけです。だから、元マラソンランナーという肩書に頼らなくても生きていける土台を身につけたいという気持ちがありましたね」

 多くの元アスリートは指導者を目指すが、増田は自分の性格には向かないと思った。ではランナーの経験を生かす仕事は─と考えたとき、スポーツライターが思い浮かんだのだ。

「文章を書くのは子どものころから得意だったので、不安はなかったです」

 メディアの知り合いをたどって書く場所を探した。すると引退2か月後に共同通信社の『スポーツ随想』という連載が始まり、同じ年の10月にはラジオのパーソナリティーの仕事が舞い込む。

 そのころ、勉強のためにラジオを浴びるように聴く中で、すごいと思ったのが、『土曜ワイドラジオTOKYO』(TBSラジオ)で話す永六輔さんだった。

「ラジオなのに匂いが感じられるんです。それに感動してお会いしたのが最初でした」

 永さんはこう言った。

「僕はね、会いたいと思う人がいたらすぐに会いに行っちゃうんです。お会いして五感で得たことを、マイクの前で話してるだけ。取材って、“材を取る”って書くでしょ」

 以来、永さんの言葉は増田の“憲法”のようになっていく。もっといえば、増田流解説の原点である。

 ラジオ放送を聴いたテレビ局の人からドイツで開幕する世界陸上のマラソン解説を依頼される。増田は会いたい人に取材する手間を惜しまなかった。

 期待された浅利純子選手を取材するため大阪のダイハツに通った。彼女は走って血液検査をし、乳酸値を測り、走り方を科学的に分析し、メンタルトレーニングも行っていた。出場する松野明美選手や安部友恵選手にも話を聞いた。

「当時の解説はレースの展開を予測したり走り方を解説したりするのが主流でした。でも私はレース前にどんな練習をし、どんな思いで走っているのかを選手自身に聞いて話したいと思いました」

 レースでは重点取材した浅利選手が優勝したため、取材した情報を十分に生かすことができた。

映画監督の大島渚さんが、テレビで褒めてくださり、永さんも、“増田さんの解説に金メダル”と言ってくださって、うれしかったですね」

 さらに2013年の『マツコ&有吉の怒り新党』(テレビ朝日系)の人気コーナー『新・3大○○調査会』で増田の解説が取り上げられた。

「長く解説をやらせていただいたので、そろそろ引退して、次のフィールドに行かなきゃと思っていたのですが、マツコさんが面白いと言ってくださって、引き続きやらせていただきたいと思いました」

 増田はどこにでもノートを持ち歩く。パーティーなどのレセプション会場でも片手にノートを持っている。

 毎年暮れに行われる『富士山女子駅伝』で、長らく増田とタッグを組んだフジテレビの森昭一郎アナウンサー(53)によると、大会が始まった2004年ごろは筆ペンで大きな文字でメモされたノートを見ながら解説していたという。ところがあるときからワープロで清書されたデータを持ち込むようになった。

 秘書であり夫でもある木脇祐二さん(59)が協力していたのだ。瀬古も、解説席に座る増田に木脇さんが新しい情報を書いたメモを渡しているのを見たことがあるという。実はあの細かすぎる解説は夫婦二人三脚の成果でもあったのだ。今年のパリ五輪でも、木脇さんの協力があった。特に海外選手は、木脇さんが海外メディアをネットなどで調べて、裏づけを取りつつ蓄積していった。

スポーツへの恩返しと子どもへの応援

 森アナは、増田の解説からは選手を輝かせたい熱が伝わってくるというが、一方で、周りの人へのホスピタリティー精神が抜群だとも話す。

「現役ランナーをゲスト解説者としてお呼びすることがあるんですが、話すことに慣れていない方もいるんですね。そういうとき増田さんは率先して、“この選手だけど、○○さん、どう思う?”と言いながら場を回してくださるんです。それによってゲスト解説者も輝くんですね」

 その舞台回しは、レースが終わっても続く。

 地方の大会が終わって、森アナが増田たちと飲食店で食事をしていると、大会関係者やスポンサーらしき人たちも集まってくる。

「すると、増田さんが全員に話しかけて場を回し始めるんですね。盛り上がって、気がつくと、渦の中心にいるのはいつも増田さん。人に話させて、その人のいいところを引き出したいという思いが強いんでしょうね」(森アナ)

 人を輝かせる活動といえば、ほかに、大阪芸術大学教養課程教授や日本パラ陸上競技連盟会長、日本パラスポーツ協会理事も務めている。

 スポーツ以外でも、例えばプラン・インターナショナル(以下プラン、本部ロンドン)というNGO団体と活動を展開している。この団体は、発展途上国の女子を元気にする活動を行っている。

「発展途上国の中には男子が優遇されるケースが多くあるので、女子を支援しています」

 例えばラオスでは、女子には教育の機会がないので、プランでは幼稚園をつくった。しかし公用語のラオ語を話せないと小学校にも行けず教育が途切れるので、幼稚園で女子もラオ語を学べる環境を整えていく。増田はラオスに行き、そうした実情を記事にして冊子を作り、支援者を募る活動をしているのだ。

 これまでベトナムや西アフリカのトーゴなどに行った。

 弟の光利さんによれば、「50歳を超えたら世の中のためになる、いろんな人の役に立つことをしたい」と増田は言っていたという。

 増田はこう話す。

「私がやっているのは、一つはスポーツへの恩返し、もう一つは晩婚で子どもに恵まれなかったので、子どもを応援するということですね」

 増田は、今もランニングを楽しんでいる。地方で解説や講演があるときにも、木脇さんがつくった単純なルートでランニングをする。

「なぜルートを決めるかというと、増田が方向音痴だからです。放っておくと迷子になる。アメリカでも走るうちにフリーウェイに入ってしまって警察に保護されて、白バイに乗せられて帰ってきたことがあります」(木脇さん)

 今、増田は、これまで活動してきた経験を何らかの形で書きとめ本にしたいと思っている。

 2007年に『カゼヲキル』という、ランナーとしての自伝的小説を書いたが、話題にならず悔しい思いをした。社会活動も含め、厚みを増した人生をどう描くのかが楽しみだ。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち
奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書には東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』(中公文庫)や、中島潔氏の地獄絵への道のりを追った『絵描き─中島潔 地獄絵一〇〇〇日』(エイチアンドアイ)など、多数ある。

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