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【名将秘話】名古屋をプロ集団にさせたピクシーの“操縦法”  不満ならハーフタイムに怒号…カリスマ監督が喜怒哀楽を表現したワケ

名古屋時代のストイコビッチ監督【写真:Getty Images】

名古屋時代のストイコビッチ監督【写真:Getty Images】

【J番記者コラム】アメとムチで個性派集団をまとめ上げたストイコビッチ

 Jリーグにはこれまで、辣腕を振るった指揮官が度々現れた。2010年シーズンに、名古屋グランパスをリーグ初制覇へ導いたドラガン・ストイコビッチもその1人。個性派集団と言われたチームを、いかに操っていたのか。当時のエピソードを交えながら、“ピクシー”の手腕を振り返る。

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 2008年から13年の名古屋グランパスを指揮したストイコビッチ(現セルビア代表)監督。彼はその絶大なるカリスマ性をもって超がつく個性派集団をまとめ上げていたが、その“操縦法”にはアメとムチの側面もあった。

 FW玉田圭司に「お前がJリーグでナンバーワンだ」と絶大なる信頼を寄せ、その才能を余すことなく引き出す一方で、例えば選手選考の基準や若手の起用などについてはかなりシビアな部分も持ち合わせている。

 シーズンのマネジメント法には様々な考え方が存在するが、リーグとカップ戦でメンバーを入れ替え、若手や控えの出場機会を確保するのも1つのやり方。この点でストイコビッチ監督はターンオーバーに積極的なところがあり、若手にも一定の出場機会を与える指揮官でもあった。

 だが、試合を見る目は非常に厳しく、ピッチで見るべきものを見せなかった選手に対しては容赦のない判断を下すところもあった。

 また、コンディションを含めた自己管理にも目を光らせるタイプで、シーズン中の居残り練習は基本NG。それは後々になって若手の練習不足という弊害にもなっていくのだが、やるべきことがあれば自分でやる、練習時間は試合と同じ90分間が基本で、リーグ戦が始まれば練習の主眼はコンディショニングに置かれる傾向も強かった。

 プロとは何か、を問うようなマネジメントは時に不満を呼ぶこともあったが、そこで生き残った選手は大きく逞しくもなった。代表格はMF田口泰士ジェフユナイテッド千葉)で、負傷者によって本来のポジションではないアンカー起用をされながら、期待に応えるだけのパフォーマンスを試合で披露すると、信頼を勝ち得て出場機会を伸ばしていく。

 競争を勝ち抜いた田口はストイコビッチ監督退任後の2014年には日本代表にも選ばれ、チームのレジェンド中村直志から背番号7を受け継ぐまでの選手に成長した。

口癖は「Never give up」 無類の負けず嫌いだったセルビア人指揮官

“ムチ”の部分においては、無類の負けず嫌いである部分もよく思い出される。チームスローガンにも採用されたことがある彼の口癖は「Never give up」。とにかく負けることが大嫌いで、不満の出来のまま前半を経たハーフタイムのロッカーで容赦ない怒号が飛び交うことは日常だった。

 着ていたジャケットを脱ぐでも、着るでもなく、ストレスを露わにするボスを見て、選手たちは後半に気合いを込めること人一倍。ピッチサイドで喜怒哀楽を表現する姿は我々も度々目にしてきたが、そうした気持ちを抑えず、そしてただ勝利への執念として表現することでも、稀代のモチベーターは勝利の道をチームに示してきたところがある。

 ただし、これも彼一流のカリスマがあったからこそ、という側面は否めず、生きるか死ぬかのプロの世界だからこそ効果的であり、一般社会でやたらめったら怒りを表現するのは危険かもしれない。

 幸運だったのは当時の名古屋は、そういった意味でのプロフェッショナリズムを理解する選手が多かったことだ。DF田中マルクス闘莉王やFW金崎夢生、DF田中隼磨も自己主張が強く、喧嘩まがいのぶつかり合いをピッチ内外で見せてきた。

 それは仲たがいをしているわけではなく、プロとして試合に勝つための執念のぶつけ合いだった。その頂点に立っていたのがストイコビッチ監督で、強いチームというのはひるむことなく意見を交換し合える良い空気感が漂っているもの。サッカーを離れれば彼らはとても仲の良いグループであり、ストイコビッチ監督も大の親日家という温和なキャラクターを見せてくれた。

 2013年の退任後、帰国を前に「名古屋から出かけていく気分です」と名残惜しそうにしていた顔は、今でも忘れられない。大好物の鮎の塩焼きエピソードや納豆の話、実はかなりのレベルで日本語を理解していること。そういった“ギャップ萌え”も人間的な魅力として、名将としてのストイコビッチ像を確固たるものにしていたのだと思う。(今井雄一朗 / Yuichiro Imai)

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