井手口陽介が2度目の海外移籍から1年でJ復帰を決めたわけ「要は嫉妬です」「頭をガツンと殴られたような気がした」

アビスパ福岡
井手口陽介インタビュー(後編)


この2月、アビスパ福岡への移籍を決めた井手口陽介

 2021年末に2度目の海外となるセルティックへの移籍を決断した井手口陽介だったが、出場機会を得られない状況が続くなかで、次第にチームを離れることを考えるようになっていく。そのなかでは、日本への復帰を逡巡するところもあり、再び"海外"でのプレーを追い求めるつもりだったが、その考えは、ある出来事をきっかけにして払拭される。

 ワールドカップ・カタール大会だ。日本代表が躍動する姿を見て初めて自分のなかに芽生えた嫉妬心は、サッカーへの欲を募らせた。

「正直、僕はこれまで日本代表の戦いを見て刺激を受けるようなことはなかったんです。でも、去年の末にカタールW杯で戦う日本代表の姿を見て、初めてめちゃめちゃ気持ちが熱くなったというか。強豪相手に日本の選手が躍動している姿を見て、刺激を受けたし、なんなら自分より年下の選手が活躍しているのを見て、『自分は何をしているんや?』『こんなにみんなが頑張っているのに、なんで自分はここでくすぶっているんや?』と。

 要は嫉妬です。あの舞台でイキイキとサッカーをしている日本代表の選手がめちゃめちゃ羨ましかったし、早くサッカーをしたい、試合を戦いたいという気持ちにもさせられて......頭をガツンと殴られたような気がしました」

 そしてそのことは、何も結果を残せなかったという現実に目を背けて"海外"にすがろうとしている自分を断ちきるきっかけにもなった。

「今回のセルティックへの移籍は、『もう一回、海外にチャレンジしたい』という僕の思いだけで決めた移籍で、妻と3人の子どもたちには『とにかく、ついてきてほしい』とお願いして、一緒に来てもらったんです。なのに、まったく何の結果も残せず、つらい思いしかさせていなくて......。

 むしろ、妻は僕以上に悔しい思いをしているのもそばで見ていたのに、自分は『またアカンかった』という現実に目を背けて"海外"にすがるのか? と。結果を残して、他の海外チームに求められての移籍なら話は別ですけど、結果を残せず、プレーする場所を自ら探しているような状態で"海外"を求めるのは『違うやろ』と思い、日本に戻ってやり直すことも考えるようになりました」

 そうして、選択肢を広げながら移籍先を探すなかで、井手口は今年の2月上旬、Jクラブで唯一、正式なオファーをくれたアビスパ福岡への移籍を決める。

"福岡"への移籍の決め手となったのは、小学生時代までを過ごした生まれ故郷で「縁を感じた」こと。移籍先を探り始めてから、自分には選択肢は多くないと実感していたこと。何より「一年間ほぼ試合に出ていなかった僕を必要としてくれた」ことへの感謝も大きかった。

「その時々の自分の気持ちに正直に決断してきたことやから、海外にチャレンジしたことにはまったく後悔はないです。もちろん、いろんな経緯があったにせよ、2回ともほぼ試合に出ていないわけで、周りは失敗と見るでしょうし、実際、そのつど描いた目標は実現できなかったと考えても、そう思われても当然だと思います。

 ただ自分としては強がりでもなんでもなく、そんな状況でも日本でずっとプレーしていたら気づかなかったなって思うことも、チャレンジをしたから見えたこともたくさんあった。だから、また次のチャレンジに向かえたんだとも思います。

 とはいえ、今の僕がサッカー人生のどん底にいるのは間違いないので。ここから自分を這い上がらせるためにも、とにかくシンプルに、ピッチに立ってプレーすることだけを考えようと思ったし、こんな状況の僕を求めてくれた福岡の思いに応えたかった」

 そうは言っても、期限付き移籍を決断するまでも、決断してからも「ずっと怖かった」と本音を漏らす。わずか1年でJリーグに戻ってきた自分を受け入れてもらえるのか。公式戦から遠ざかっているなかで、本当に福岡の期待に応えられるのか。不安は大きかった。

「中学生の時にガンバ大阪に所属して以来、日本のJクラブはガンバしか知らなかったですから。生まれ故郷とはいえ、福岡を離れて長かったし、知らない土地と言っても過言ではない場所でサッカーをするのも......海外のチームに行く時よりも断然、怖かった。

 うん、そうですね。僕のことを知らない人ばかりの海外に飛び込んでいくより、少なからず、知ってもらえている日本に戻るほうが怖かったです。だから、仮に僕が独り身ならたぶん......っていうか、絶対だと思いますけど、セルティックとの契約はまだ数年残っていることを考えても、自分の現実を受け入れずに向こうで粘っていた気もします。

 でも家族がいたから。僕に寄り添って、一緒に戦ってくれる家族がいたから、とにかくピッチに立ってプレーすることだけを考えて、新しい一歩を踏み出せた。新しい一歩と言っても、どん底から、ですけど(苦笑)」

 実は、福岡で背負う背番号『99』も、その家族に縁のある数字だ。もともと背番号にはこだわりはないと話す井手口だが、ガンバ時代から車のナンバープレートは、妻・夏海さんの亡き父が愛車につけていたナンバー『9』に寄り添って『99』を選んできた経緯がある。家族思いの井手口らしく、今回はそれと同じ番号を選んだ。

「サッカー選手は背番号よりプレーのほうが大事やから、背番号にこだわったということではないけど、一緒に戦ってくれる家族をしっかり背負って戦いたいと思っています」

 復帰に際して抱いていた「怖さ」を、アビスパで結果を残すことへの覚悟とピッチでの輝きに変えて。

「長谷部さん(茂利/監督)とは向こうにいる時にも、オンラインで話をして『このチームの一員になってくれてありがとう。一緒にサッカーができるのをすごく楽しみにしています』って言ってもらって、すごくうれしかったし、実際に加入してからも、すごく新鮮な気持ちでサッカーと向き合えています。

 もちろんここから競争があるとはいえ、1年ぶりに練習でしっかりアピールして、チームメイトと競争して、試合に出ることを目指すというモチベーションでサッカーができているのもすごく楽しい。

 ただ、楽しむためにここにきたわけじゃないので。シーズンが始まってからの加入で、できるだけ早く自分の特徴もみんなに知ってもらわないといけないし、みんなの特徴も覚えていかなきゃいけない。何よりチームの結果に直結するようなパフォーマンスも示さなきゃいけないとも思います。

 26歳という年齢を考えても、ゆっくりしている時間はなく、ましてや、どん底にいる状況を考えても、サッカー人生の折れ線グラフを少しずつ右肩上がりにというより、一気に跳ね上がらせるくらいのパフォーマンスを見せなアカンという覚悟もある。じゃないと、日本代表には戻れないし、3年後のワールドカップへの出場もないと思うから」

 そんな決意のもと、J1リーグ第3節の柏レイソル戦で加入後初先発を飾った井手口だったが、前半終了間際に負傷。右足関節外果骨折、全治3カ月と診断され、またしても試練のスタートを強いられることになった。インタビューで語っていた決意と照らし合わせても、その事実が彼にとってどれほど残酷で悔しさ募るものだったのかは察するに余りある。

 だが一方で、今回の期限付き移籍に際し、彼がその胸にたぎらせていた覚悟も、サッカーへの欲も、その悔しさに飲み込まれてしまうほど柔なものではないと信じられる。

「絶対に強くなってピッチに戻ります」

 事実、彼はすでにもう前を向いている。ピッチで思う存分にプレーするために。日の丸を背負って戦う自分をもう一度、取り戻すために。

(おわり)

井手口陽介(いでぐち・ようすけ)
1996年8月23日生まれ。福岡県出身。ガンバ大阪のアカデミー育ちで、高校3年生の時にトップチーム昇格を果たす。昇格3年目の2016年にはレギュラーを獲得。同年、五輪代表としてリオデジャネイロ五輪にも出場する。その後、日本代表にも初招集された。そして2018年、プレミアリーグのリーズへ移籍。レンタル先のスペインやドイツのクラブでプレーしたあと、2019年にガンバへ復帰した。2021年末、再び海外移籍を実現してセルティック入り。負傷などもあって出場機会をなかなか得られず、2023年2月、アビスパ福岡へ移籍を決めた。

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