ラモン・ディアスのシュートが、わかっていても止められなかった理由

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ラモン・ディアス(横浜マリノス/FW)

 1993年、Jリーグ開幕のシーズンに28ゴールを決めて初代得点王となったラモン・ディアス。


シュートのうまさが際立つストライカーだった、ラモン・ディアス

 翌々年には同じアルゼンチン出身のホルヘ・ソラーリ監督と対立してわずか6試合だけで退団し、そのまま引退してしまったので、ディアスがJリーグでプレーしたのはわずか2年ちょっとだった。だがこの間、リーグ戦だけで75試合に出場して52ゴールを決めている。1試合平均得点0.693というのはJリーグ歴代9位の記録である。

 母国アルゼンチンのリーベルプレートでプロデビューしたディアスは、その後、イタリアのナポリやフィオレンティーナ、インテル、フランスのモナコなどでプレーしたが、そのディアスがもっとも輝いたのは、34歳だった開幕直後のJリーグの時だったと言っていいだろう。

 アルゼンチン代表では、ディアスはその力を発揮しきれなかった。

 若くしてセサル・ルイス・メノッティ監督に見出されてアルゼンチン代表に招集され、1982年のスペインワールドカップに出場したものの、大会は失意の2次リーグ敗退。その後は代表から遠ざかってしまったのだ。当時のアルゼンチンで、絶対的存在だったディエゴ・マラドーナと反目したことが原因だとも言われているが、真相は謎のままだ。

 ディアスが代表レベルで最も輝いたのは1979年のワールドユーストーナメント(U-20ワールドカップの前身)日本大会での優勝と得点王だった。ディアスはマラドーナと組んで、この大会でアルゼンチンを優勝に導いた。

 日本とは縁のあるプレーヤーなのである。

「点取り屋」には、いくつかのタイプがある。

 強烈なシュートを叩き込む豪快なストライカー・タイプ。大昔の話で恐縮だが、1960年代から70年代にかけて活躍した釜本邦茂がその典型だし、世界的にはマルコ・ファンバステン(※80~90年代にミランやオランダ代表で活躍)などがこのタイプに分類できるだろう。現代で言えば、クリスティアーノ・ロナウド(現ユベントス/ポルトガル)か。

 そのほかに、相手のDFライン(およびアシスタント・レフェリー)と駆け引きしながら、一瞬の動きで相手の前に出て決めきるフィリッポ・インザーギ(※90年代後半~2000年代にユベントスやミラン、イタリア代表で活躍)や佐藤寿人(ジェフユナイテッド市原・千葉)のような点取り屋もいれば、相手DFラインの裏に抜け出して、どんな形であれボールをネットに押し込んでしまう岡崎慎司(ウエスカ)やゲルト・ミュラー(※70年代にバイエルンや西ドイツ代表で活躍)のようなタイプもいる。

 リオネル・メッシ(バルセロナ/アルゼンチン)は巧みなドリブルで相手DFのバランスを崩して決めるプレーが得意だし、最近の久保建英(マジョルカ)のゴールもドリブルを使ってシュートコースをつくる形が多い。

 ラモン・ディアスはシュートのうまさが際立つプレーヤーだった。

 100%フルパワーの強烈なシュートではないが、GKには届かない絶妙のコースを狙い、GKの反応のタイミングをズラした技巧的なシュートが彼の持ち味だ。

 ディアスは「左足の魔術師」とも言われていた。彼の得点のほとんどがその左足から生まれたからである。そのことは相手DFも知り尽くしているから、当然彼の左足を防ぎに来るし、GKもシュートが左足から放たれることを知っている。

 だが、それでもディアスの左足から繰り出されるシュートは止められなかった。

 たしかに、ディアスの左足は輝いていた。では、彼の右足はただの棒だったのかといえば、そうではない。彼の左足から正確無比なシュートが生まれたのは、右足のワンタッチで正確にボールをコントロールして、もっともシュートしやすいポイントにボールを置くことができたからなのだ。

 身長は170センチそこそこ。取り立ててスピードがあるわけでも、フィジカルの強さがあるわけでもない。日本人の中に入っても平均的なサイズのディアスは、「止めて、蹴る」の技術を究めることによってあれほどのゴールを量産してきたのだ。

 Jリーグで、もっと長く見たかったプレーヤーのひとりである。

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