【ドラ1の知られざる苦悩】巨人・元木大介(3)一軍に生き残るための「スタイル変換」

産経新聞社

プロ野球ドラフト会議

10月20日に控える今年のプロ野球ドラフト会議。巨人やソフトバンクらが、ドラフト1位指名選手を公言するなど、早くも有力選手の獲得競争は始まっている。抽選を伴う1巡目指名選手は、大きな脚光を浴びる一方で、“ドラ1”の肩書きを背負って、プロ生活を歩むこととなる。華やかな面だけではない、当人にしかわからない苦悩や厳しさを味わうこともあるだろう。田崎健太氏著『ドライチ』より、その舞台裏の一部を紹介する。(case. 元木大介)

 

 

【プロフィール】
元木大介(もとき・だいすけ)
1971年12月30日、大阪府出身。中学時代からすでに注目を集め、上宮高では春2回、夏1回甲子園に出場。89年の夏の甲子園では1試合2本塁打を放つなど、一躍人気者として、旋風を巻き起こす。高校通算24本塁打。同年のドラフト会議では読売ジャイアンツの指名を希望するも願いかなわず、福岡ダイエーホークスから野茂英雄の外れ1位で指名された。結局これを断り、1年間ハワイに野球留学する。
 
1990年のドラフト会議でジャイアンツより1位指名を受けて入団。2年目から1軍で出場。高校時代はスラッガーとして名をはせたが、プロではつなぎ役、内外野守れるユーティリティープレイヤーとして存在感を発揮、勝負強い打撃には定評があった。現役生活では度重なる故障に悩まされ、05年オフに引退。その後はプロ野球解説者や評論家、タレントとして活躍し、2019年からは巨人でコーチとして球界に復帰した。

ハワイでの厳しい生活

 福岡ダイエーホークスの1位指名を断った元木大介は、翌年のドラフト会議まで日本を離れることにした。
 
 元木の家の周りには報道陣が詰めかけ、身動きが取れなくなっていたのだ。
 
「家族に迷惑掛けちゃいけないって思ったんですよ。自分が動くと、何かしら週刊誌や新聞が追ってくる。良いことを一切書いてくれない。今も不思議でしょうがないんだけれど、(関係者から)ハワイ行くかって言われたとき、普通は、行ったこともないんだから、“どこ”って聞き返すよね。でも俺、二つ返事だった」
 
 そして、元木はワイキキから車で約1時間ほどの場所にあるカイルアという街でホームステイすることになった。教師である家主は元木のために庭に6畳ほどのプレハブ小屋を建てていた。しかし、1ヶ月約5万円の滞在費には食費は含まれていなかったという。
 
「昼間は弁当屋さんがあってそこで買っていた。白いプラスティックで蓋がついているような弁当。ロコモコって言うのかな。骨付きカルビみたいな薄っぺらい肉が入っている。英語は分からないから、ディスワン、ディスワンって指で指して。それを部屋で食べるのが幸せだった」
 

 
 問題は夜だった。
 
「(家主は)学校の先生だから子どものパーティとかで家に誰もいないことも多かった。辺りは街灯も何にもない。(治安が悪くて)怖いイメージがあったから、夜は歩けない。何か食べようと思って、冷蔵庫を開けても何が書いてあるのか分からない。昼間にカップヌードルを買いだめしておいて、それを食べてた」
 
 カップヌードルは冷蔵庫の上に置いていた。
 
「赤い蟻が冷蔵庫の上まで登って行って、カップヌードルの(包装の)ビニールを破って中に入っていくの。その赤い蟻っていうのはすごくて、(床で)ストレッチとかしていると、イテって。そうしたらプクって腫れてくる。もう怖くてね」
 
 3ヶ月に一度、ビザの書き換えのために日本に戻らなくてはならなかった。元木は日本に戻るとまっ先に薬局へ走り、蟻を退治する薬品を手に入れた。
 
「それを置いておくと蟻が来なくなった。効いた、効いたって。赤蟻を退治したぜって思った。なんでこんなんやっているんだろうって。泣いたことが沢山あった」

地元の野球チームに入ることに

 当初はハワイ大学の野球部の練習に参加する予定になっていた。しかし元木は大学に入学するつもりはなく、選手としての登録が出来ない。
 
「結局、関係ない奴を使う必要はないんですよ。だから練習だけ。試合は1回も出してくれなかったから、俺、それだったらやんなくていいよって」
 
 その後、地元の野球チームに入ることになった。
 
「20歳後半から30代の人が集まっていたチーム。英語は喋れないけど、みんな優しくしてくれた。草野球のおっさんたちだけれど一生懸命やっている人だった。最初はショートをやっていたんだけれど、レベルが低い。これじゃ駄目だなと思って、肩が弱くならないようにピッチャーをやるようになった」
 

 
 そんな環境で自分の能力が錆び付いていくことが怖くなかったかと、ぼくが言うと元木は首を振った。
 
「最初はそんなこと考える余裕なかったもん。人のいないところで野球が出来るだけで幸せだった」
 
 そして11月24日、元木は2度目のドラフト会議で読売ジャイアンツから1位指名された。
 
「まあ、嬉しかったね。あー入れるんだって思って。本当にほっとした。もうこの生活をしなくていいんだ、堂々と出来るんだって」
 
 しかし、試練は終わっていなかった――。

プロで生き残るために

 自分の感覚が衰えていると感じたのは、自主トレーニングのときだったという。
 
「キャッチボールからして何、このスピード、みたいな。球が伸びてくるから。急に野球をやり始めた感じ。(プロのボールは)ビール飲みながらやっているハワイのおっさんのボールとは違う。俺、騒がれて入ったけど、やべーなって」
 
 入団から1年間、元木は二軍で過ごしている。
 
「本当にクソアマチュアみたいなところから入って来たから、野球に馴れるのに必死だった。最初の1年間はホームランを打ちたいって頑張っていたよ。バッターとしてはホームラン打ちたいからね。でも、二軍でも4本ぐらいしか打てなかった。(高校時代の金属バットから)木のバットに替わったというのもある。プロの投手はスピードもあるし、変化球も切れる。そう簡単には打てないですよ。2年目から、このままやっていても俺は一軍に上がれない、プロではやっていけないなと」
 

 
 元木がひたすら考えていたのは、どうやれば一軍のベンチに入ることができるか、だった。
 
「好き勝手書いた人たちを見返してやろうと思っていた。偉そうなことを言って入って、あいつ駄目じゃんって言われたくなかった。それで取材拒否してやろうってね。あとは両親に惨めな思いをさせたくなかった。一軍のベンチにいたら、ちらっとでもテレビに映るし、(親に)あ、いたって分かる。いきなりレギュラーなんてそんな甘いものじゃないし、俺の力では無理だと思っていた。控え選手の一番になりたいと思ってやっていた。何かあったときに大介行ってこいって言われるような選手」
 
 元木は本塁打を早々と諦め、右打ちに徹した。また、スコアラーの元に通って配球を学んだ。プロに食らいついていこうと必死だった。
 
 そして狙い通り、元木は3年目から一軍に定着することが出来た。ただし、選手層の厚いジャイアンツでは確固たるレギュラーの座を掴むことができなかった。

人生を巻き戻しできるなら「高校3年のとき」

 2005年に引退するまで15年間通算、891安打、本塁打66本。打撃タイトルは一つも獲得していない。元木の才能を考えれば物足りない成績だ。しかし、本人は後悔はしていないという。
 
 人生を巻き戻しすることができればどこに戻りますか、と訊ねてみた。
 
「高校3年のときだね」
 
 元木は即答した。
 
「あと1本ぐらいホームラン打てるんじゃねぇかなと。2位タイって言われるのがね、ちょっと引っかかる。もう1本ぐらい、自分のこと考えてやっていたら打てたんじゃねぇかと思うから。チームのことを考えずに7本目を打っちゃおうって」
 

 
 元木の甲子園通算本塁打は6本。これは桑田真澄中村奨成と並ぶ歴代2位。もう1本打って単独2位にしておけば良かったというのだ。
 
「ホークスからの1位指名については、もう一度拒否しますか」
 
 ぼくが問うと「同じことをすると思う」と短く答えた。
 
「ただ、親は勘弁してくれって言うかもしれないね。大変なことになるから行けって言うかもわかんない」
 
 そう言って笑った。

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【収録選手】
CASE1 辻内崇伸(05年高校生ドラフト1巡目 読売ジャイアンツ)
CASE2 多田野数人(07年大学生・社会人ドラフト1巡目 北海道日本ハムファイターズ)
CASE3 的場寛一(99年ドラフト1位 阪神タイガース)
CASE4 古木克明 (98年ドラフト1位 横浜ベイスターズ)
CASE5 大越基(92年ドラフト1位 福岡ダイエーホークス)
CASE6 元木大介(90年ドラフト1位 読売ジャイアンツ)
CASE7 前田幸長(88年ドラフト1位 ロッテオリオンズ)
CASE8 荒木大輔 (82年ドラフト1位 ヤクルトスワローズ)

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