軽度の知的障害ある「支援学校」球児の物語…3年夏は1打席で終了、大敗で涙も「手加減なしの競争で自信がつきました」
[スポーツのかたち]…編集委員 田中富士雄
初めてキッチンに立った日の記憶は、いつの間にか輪郭を失っていた。「忘れちゃいました。前から料理は好きでしたし」。東京都立
憧れの高校球児として白球を握り、駆け回る日々に身を置くまでは――。
「過剰に守られ嫌でした」
軽度の知的障害があり、足や手の筋肉が徐々に
2022年に青鳥校へ進むと、所属した「球技部」が23年から「ベースボール部」になり、久保田
主将なのに「ねえじゃん。俺の名前……」
先発メンバー表を監督から渡され、相手校との交換に向かった主将が紙に視線を移して立ち止まる。「ねえじゃん。俺の名前……」。それは小さなつぶやきだった。練習試合で右翼手を任され「楽しみで眠れない」夜を過ごしてきたのに、本番は交代要員。明らかに落胆した歩みで集合場所にたどり着き、先攻と後攻を選ぶジャンケンに負けた。
久保田監督にとっては断腸の思いで下した決断だった。実を言うと、都高野連への加盟申請に踏み切らせてくれたのは白子君。「迷っていたとき、彼が新しいグラブを持っていたんです。とても高価なグラブ。小遣いをはたいて買ったそうで『だって、野球やりたいっす』と言う。『何を迷っているんだ。それでも指導者か』と頭を殴られた感じでした」。先発の入れ替えは「(難病で)うまく走れず、打球が素早く追えない。右翼に飛んだボールが全てフェンスまで行ってしまう。『試合に勝とう』と呼び掛けてスタートしたチームです。こちらも最善を尽くさなければ、かえって申し訳ないと思いました」。
「だって俺、キャプテンですから」
メンバー表交換からの帰路、白子君は一歩一歩を踏みしめながら考えた。「やっぱ悔しい」「でも、監督が決めたことだし」。「いや、俺以外に(先発で)出られないヤツもいる。愚痴はダメだ」――。やがて意を決したように歩幅を広げ、観客席に腰掛けていた久保田監督の元へ戻ると、屈託のない笑顔で告げた。「ジャンケン、負けちゃいました。だから『弱いです』って言ったじゃないっすか」。堂々とした振る舞いの理由は何か。こっそり尋ねた筆者に、十数分前よりちょっぴり大人びた顔で「だって俺、キャプテンですから」と心中を明かした。
いざ、プレーボール。背番号「9」はベンチやコーチスボックスで間断なく声を張り上げ、五回の代打起用で三振に倒れ、試合は0―66(五回コールド)で大敗を喫した。タオルで汗を拭っていると、突然、視界がぼやけた。白子君は「後で考えても、わけが分かんないんです。何で泣けてきたのか」と振り返る。「スタメン外れて悔しかったし、試合で勝てなかったのは、もっと悔しかった。それ以上に、全員で野球がやれてホントに楽しかったし」
涙は止まらない。
「ボコボコにされて『勝負は厳しい』と思ったけど、手加減なしの競争は気持ちよくて……。俺、すごくうれしかったんです。自分のやりたいことが、やれた。うまくいかない日もあったけど、最後までやり切れた。自信がつきました」
使い古された表現が許されるなら、白子君、その複雑に入り混じった涙の味が「青春」というヤツだ。
有上真理副校長が証言する。「白子さんが試合の翌日、下校時の見送りをしていた私の前に直立して『あんなに暑い中、応援に来てくれてありがとうございました』と頭を下げたんです。人前に出るのが苦手な生徒でしたから、彼の成長には本当に驚きました」。やはり、青鳥校ベースボール部の挑戦は間違っていなかったと言っていい。
もう初対面でも平気
3年生が抜け、新チームは7月10日に10人で始動。部活動引退後も練習に参加してきた白子君は、9月7日の秋季都大会1次予選にも同行した。裏方として道具運搬などを担い、バックネット裏で声援を送り、またしても0―66(五回コールド)だった試合を見届けて「いやあ、(後輩も)まだまだっすね」と苦笑い。卒業後も野球は続けると決めており、入団するチームを物色しているという。
進路は飲食業界への就職を希望しており、現在は接客などの修業中。「昔は初対面の人が怖く、お父さんの後ろに隠れていました。今は平気です」。生きていくのは甘くないけれど、求める味わいは苦みやしょっぱさも足すことで成り立つと心得ている。大好きな野球が、そう教えてくれた。
09/18 05:00
読売新聞