阪神2位指名の報徳学園・今朝丸裕喜が背番号10から世代ナンバー1に成り上がるまで


◆ 「自分にとってのターニングポイント」と振り返る一戦

 今春選抜で2年連続準優勝に輝き、今年9月の「第13回BFA U18アジア選手権」で高校日本代表のエースを務めた報徳学園(兵庫)・今朝丸裕喜投手(3年)が10月24日のドラフト会議で阪神から2位指名を受けた。

 188センチの長身から投げ下ろす最速151キロの直球には球威と制球の両方が備わっており、その総合力の高さから世代No.1右腕とも評されてきた。

 高校生投手では日本ハム1位の福岡大大濠(福岡)・柴田獅子、ソフトバンク1位の神戸弘陵(兵庫)・村上泰斗、東海大相模(神奈川)・藤田琉生に次ぐ4人目での指名。1位指名候補に挙げていた球団もあるほどの高評価を得ていた。

 甲子園での活躍などを通して知名度も高く、一見、高校3年間は順調にも見える。

 しかし、3年春の選抜大会まで背番号は「10」。殻を破りきれずにいた期間が長く続いたのだ。

 その今朝丸が「自分にとってのターニングポイント」と振り返る一戦がある。昨秋の近畿大会準々決勝で先発した大阪桐蔭(大阪)との準々決勝だ。

 高校野球の絶対王者と言える相手打線には、のちに高校日本代表に選出される境亮陽や徳丸快晴ら強打者が並んでいた。

 マウンド上ではチラチラとベンチを見て助けを求めるような仕草を見せていた。結局、全力で腕を振り切れないまま6回2/3、4失点で敗戦投手に終わった。

 ブルペンで力強い投球を見せながら、大一番では本領を発揮できない。その象徴と言える敗戦に大角健二監督から叱責を受けた。

「強い相手に力を出し切れないようなら、プロ野球選手もエースナンバーも厳しい。プロで通用もしないし、俺はプロに行かせない」

 新チーム始動後も背番号1は同学年右腕の間木歩(3年)に譲り続けていた。報徳学園の強さの象徴として捉えられてきた「二枚看板」は、今朝丸にとっては頭一つ抜け出せない裏返しでもあった。

 投手指導を担当する磯野剛徳部長は、近畿大会後の変化を感じ取っていた。


「新チームが始動した頃は“エースになろう”とか“間木を超えて一本立ちしよう”という気持ちが全く見えなかった。何度か“いつまでも間木の控えで背番号10番のままでええんか!”という話もしました。練習をサボったりするわけではないけど、投手陣は仲が良く、群れて練習をしたりすることが多かった。こちらが求めているレベルには達していなかったので、その都度厳しく接してきました。それが秋の近畿大会を自分のせいで負けて、絶対に同じ経験をしたくないという気持ちになったのだと思います。その思いを持ちながら冬に練習を積み上げ、一気に才能が開花しました。(成長の要因には)悔しさがあったのではないかと思います」


◆ 大阪桐蔭との再戦で心身ともに生まれ変わったことを証明

 そして3年春の選抜大会準々決勝で宿敵と言える大阪桐蔭との再戦を迎えた。

 弱気だった過去と決別するかのように内角を突き続けた。さらに「秋から直球の質が変わった」と5奪三振中4つを直球で奪った。

 被安打5で1失点完投の完勝。心身ともに生まれ変わったことを証明した。

「秋のときは気持ちに余裕がなかった。甲子園でもピンチは絶対に来ると思って練習してきました」

 この力投には、これまで厳しく接してきた大角健二監督も「今までは良い球を投げるだけの投手だった。だけど今日、勝てる投手に成長したことを証明してくれました」と手放しでたたえた。

 その後の決勝で健大高崎(群馬)に敗れて悔し涙を流すと、大角監督から「この景色、覚えとけよ」と言われた。

 選抜後の個別練習は、いつも隣だった間木と最も離れた場所で黙々と励むようになった。

 そして最後の夏に背番号1を与えられた。兵庫大会決勝では明石商に5安打完封勝利を挙げて夏の甲子園に導くなどエースの役割を全うした。

 甲子園では大社(島根)との1回戦に先発し、6回2/3、3失点(自責2)で敗戦投手となり、初戦敗退となった。それでも「最後は笑って終わろうかな」と涙を流さなかったのは、冬場の猛練習などを通して完全燃焼できたからに違いない。

 阪神からの2位指名には「地元だし、入りたかった球団の一つだった」と喜んだ。

 真のエース襲名を目指し、もがいた高校3年間がプロ野球人生での支えとなる。

文=河合洋介(スポーツニッポン・アマチュア野球担当)

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