野球・坪井俊樹さん|経験と理論を融合させた、元プロ野球選手指導者が生まれるまで<前編>


 元プロ野球選手が高校、大学の指導者として活躍する例が近年は増えている。ただしスポーツ科学、コーチングを大学と大学院で学び、理論の伴った指導で結果も出している「元プロ」はなかなかいない。坪井俊樹さんは経験と理論、実践と研究を併せ持つ“二刀流”で、稀有なネクストキャリアに進んでいる指導者だ。

 現役時代の「坪井投手」は186センチの長身左腕で、千葉ロッテマリーンズに3シーズン所属していた。速球派ではなかったが、優れた変化球と制球力を持つクレバーな投手だった。兵庫・社高校時代に2004年の第76回選抜高等学校野球大会でベスト4入りを経験。筑波大時代は大学日本代表に2年連続で選出され、ドラフト4巡目でマリーンズに進んだ経歴の持ち主だ。

 引退後は筑波の大学院(修士課程)を経て現在は仙台大の専任講師、野球部の投手コーチを務めている。
インタビュー前編は高校の教員を目指していた青年が、筑波大の恵まれた環境の中で成長してプロ入りを果たした過程と、大学院生が「大学野球」に目覚めて仙台大の教員となるまでの経緯を語ってもらっている。


――― 坪井さんはプロ野球選手を経て、今は仙台大の講師と野球部のコーチをされています。その原点はどこにありますか?

筑波大時代は本当に充実していた4年間でした。チャレンジに対する成果があって、それでプロ野球にも進みました。当時は教員、指導者になろうという志もあって、その先に今の自分があります。大学4年間の「助走」からプロになり、今の仕事をしていますね。

――― 坪井さんは兵庫県立社高校時代に、大前佑輔さん(早稲田大→JR東日本)との二枚看板で好投し、センバツの4強に入っています。

私は推薦で筑波大に入ったのですが、推薦の基準に「全国のベスト8以上」という条件がありました。センバツのベスト4が無ければ、筑波はそもそも選択肢に入らなかったので、人生が変わった大会だったと思います。大学野球の中では「中の下」くらいのレベルで、ベスト8以上のいい選手はプロ、東京六大学、社会人といった世界に進むのが一般的です。筑波は国立ですし、「2番・セカンド」のような中軸でない選手が来やすいチームでした。

――― 坪井さんにとって、筑波のどのようなところが良かったですか?

川村卓監督はスポーツ科学に精通している方です。当時はスマホもない時代ですし、自分を客観的に見る機会はどうしても限定されていました。だけどスポーツ科学の研究をすることで、自分がどういう動作で投げているのかがかなり明確になりました。自分の現状を知れて「プロ野球選手の動作はこうなんだ」という先の道筋もはっきりして、その上でトレーニングをできたのが非常に大きかったです。




――― 今では「ラプソード」「トラックマン」といった計測機材が発達・普及していますが、当時はどうやって分析用のデータを集めていたのですか?

モーションキャプチャーで動作解析を行う、コマ送りのような形で自分の練習中の動作を見ることは可能でした。当時はパソコンの前に座らないと情報をなかなか得られない時代です。それが割と身近にあったのが本当に大きかったです。今なら自分で撮影してすぐ見られますし、YouTubeで「今こういうものが流行っているのか」と確かめられますけど、当時はそういう環境が珍しかったですね。

――― 最近の野球界が「投高打低」になっていますけど、背景はそのような環境進化でしょうか?

そうです。「良い投げ方」が浸透して、無駄も削がれているように感じます。高校生の頃からみんなが綺麗なフォームで投げているのは、スマホでいつでも見られて、比較ができる時代だからだと思います。

――― 筑波大時代はその後の進路、キャリアについてどう考えていたのですか?

1年生の頃は競技力がそこまでなかったので、高校の教員を目指して授業も取っていました。2年生が終わったくらいのタイミングからトレーニングの成果が出てきて、社会人やプロで勝負できるのではないか?という自覚が生まれました。「野球でメシを食べてみたい」と思うようになった転換期です。

――― 千葉ロッテマリーンズでの現役生活は3年にとどまりました。

短いですね。1年目は首の怪我もあったりして、なかなか思うように投げられず、いい状態からは少し離れてしまったシーズンでした。2年目もそのまま引きずってしまい、試行錯誤しつつなかなか結果が出ない日々でした。3年目になってようやく自分の投げたい球を投げ始めて、夏頃までは2軍で結果も出ていたのですが、あと一歩「ここ」というチャンスをつかめなかったです。




――― 当時はどのような試行錯誤をしていたのですか?

当時のプロ野球は今より平均球速が7、8キロ遅かったのですが、それにしても「もう少し球威がほしいな」と考えていました。カットボール、ツーシーム(※いずれも速球とほぼ同じ速度で小さく変化する球種)が流行る前ですけど、そういうのも少し取り入れようと思って、新しい変化球にも目を向けていました。

――― 大学とプロで、何かギャップはありましたか?

筑波のような研究は、当時はプロでもほとんど無かったです。ただ、プロの世界では圧倒的なフィジカル、球質に打ちのめされた感じでした。あと少しの次元でなく、もう本当に届かなかった感覚が残っています。同期は西野勇士がいます。彼は高卒なので4つ下ですが、振り返っても力はありました。一軍は清水直行さんがエースで、成瀬善久さんもいました。

――― 成瀬さんは坪井さんの1つ上で同じ左腕で、お手本になったのではないですか?

成瀬さんは一般化されない、真似の難しい投球でした。

――― ネクストキャリアについては、どう考えてどう実行されたんですか。

3年目は「今年が勝負」「今年ダメだったら」という思いでやっていました。プロは一軍で投げないと一人前ではないと考えていたので、そこに届かなければ……と。実際に戦力外になりましたし。そこは大きな基準でしたね。トライアウトも受けましたし、社会人や独立リーグからも声はかけていただきました。それがNPBであれば「何とか評価してもらえている」と考えられたと思いますが、それ以外ならダメだと区切りをつけました。そこで元々描いていた指導者への道を意識して、大学院に進もうと決めました。

――― すぐに大学院に入ったのですか?

もう入試が終わっていたんです(苦笑)。なので1年浪人をして、地元の兵庫県にあるスポーツ施設で週3、4回のバイトをしながら勉強をして、普通に受験して入学しました。

――― 入試に向けてはどう準備をされたのですか?

スポーツ運動学に関しては本1冊、丸々暗記しました。動かすときの感覚で「どうやってそれを達成しているのか」「歩くときに、人間はどうやって歩いているのか」というような内容です。

――― 何も考えず無意識、無自覚に歩いていますが……。

その「無自覚」にするために、どういうプロセスを踏んでいくのかというところですね。

――― そもそも坪井さんは学部も筑波ですし、スポーツの指導者を目指すなら一般的な進路ですが、大学院も筑波に進みました。

やはり母校ですし、指導者になりたい思いもありました。あと大学院へ入学する直前に「元プロ野球選手もアマチュアで教えていい」という制度に変わったので、自分にもチャンスがあるのでは?と考えました。実際に修士の2年目からベンチに入れてもらって、野球部の指導ができました。(※2013年に「学生野球資格回復研修制度」が導入された)

――― 教員免許はお持ちだったのですか?

学部時代に教職課程の授業は取っていたのですが、教育実習に行っていなかったんです。実習に行ってしまうと、リーグ戦や大学選手権の期間と被りますから、免許の取得は断念していました。科目等履修の制度があって、院に行かなくても教職は取得できます。ただもっと勉強したいと思ったのは「怖さ」があったからです。自分の感覚で喋ってしまうと、関わる選手が置き去りになりがちです。修士を取れば、指導者への道が開きやすいという発想もありました。

――― 大学院は修士までですか?

今は博士課程に通っていて、実はまだ学生です。

――― 仙台大の講師には、どういう経緯で着任されたのですか?

筑波大野球部を指導する中で、「大学がいいな」と思うようになりました。高校は指導より教育がメインになりますが、大学は高い次元で選手とやり取りができて、会話が面白いんです。川村監督に相談したら、仙台大の森本吉謙監督が筑波の先輩というのもあって「仙台大はどうだ?」と話をいただきました。ちょうど投手コーチを探していて、タイミング的にも恵まれました。着任が2015年なので、もう10年目です。

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取材=大島和人
写真=須田康暉
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