元プロ野球選手・金石昭人さん|『大い成る心』――この言葉が僕のセカンドキャリアを作ってくれた


 広島、日本ハム、巨人で通算72勝、80セーブを挙げたピッチャーとして20年、オールスターや日本シリーズでも登板して年俸も1億円を超えた。引退後は都内に寿司屋と鉄板焼きのお店を開いて25年、今も客足が途絶えることはない。プロ野球選手としても実業家としても花を咲かせた金石昭人さんに、その歩みを語ってもらった。(前後編の前編)

――― 野球を始めたきっかけというのは、やはり金田正一さんの影響が大きかったのですか?

 叔父の金田正一が巨人で通算400勝を達成したのは僕が小学校3年生の時でした。何しろ400勝投手が叔父ですから、僕は野球があって当たり前の環境で育ちました。物心ついた時にはボールを投げてバットを振っていたと思います。叔父のお膳立てのおかげで岐阜の田舎からPL学園へ入学、甲子園出場を目指しましたし、将来はプロ野球選手になることも夢見ていました。




――― 全国でも有数の強豪校への進学で、周囲の期待もあったと思います。

 ただ、高校へ入った時の僕は身体ができていませんでした。身長は190㎝ありましたが体重は70㎏もなくて、ヒョロヒョロ。PLでもほとんど裏方で、ずっとグラウンド整備とバッティングピッチャーをやっていました。野球でメシを食おうなんて現実味もなく、必死で練習についていくだけの日々です。
 それでも高校3年の夏はチームが”逆転のPL”と呼ばれる快進撃を続けて、甲子園で優勝することができました。僕は2番手ピッチャーで、試合では投げていません。甲子園で1球も投げていないのにプロ入りしたという、珍しいピッチャーです(笑)。それも叔父が口を利いてくれたからでした。身体はデカいし、将来性を見込んで長い目で見てやってくれということで、ドラフト外で広島へ入団することができたんです。


◆ 1軍とクビは紙一重

――― プロ野球選手になる夢を実現した後も、苦しい時間を過ごされていますね。

 憧れのプロ野球選手にはなりましたが、プロへ入ってからも下積みの時代は長かったんです。当時、広島は”投手王国”と言われていて、2軍でいいピッチングをしたくらいでは1軍へ食い込めませんでした。毎日毎日、オレたちは陸上部かというくらい走らされて、たまに巡ってくるチャンスも2度活かせなければもう終わりです。10人程の2軍のピッチャーが一つ空くかどうかの1軍のイスを争うわけですから、狭き門ですよ。1軍に上がれた一人と、その年限りでクビになる一人は紙一重だったと思います。だから僕もいつクビを切られてもおかしくなかった……結局、1軍での初登板はプロ4年目で、初勝利は7年目だったかな。その1軍で勝てたシーズンに6勝することができて、やっと自信らしきものが芽生えました。広島から日本ハムへトレードで移籍しましたが、どちらのチームでも1軍で実績を残すことができたのは、野球で形を残さないと何をするにしても次のステップへは行けないという覚悟があったからなのかもしれません。




――― 現役当時、プロ野球選手を引退した後のことは考えていましたか?

 僕が(元バドミントン選手の陣内貴美子さんと)結婚したのは引退後、40歳になる直前でした。現役時代は独身ですから、毎日が外食です。僕はお寿司が大好きで「寿司、寿司、焼肉」「寿司、寿司、焼き鳥」「寿司、寿司、中華」のローテーションで食事をとっていました(笑)。あの頃は野球を辞めたあとのことは考えたこともなくて……クビになったチームメイトのその後も気にしたことはなかったし、年俸1億円をもらう立場になってからは怖いものなし、イケイケドンドンの贅沢な暮らしをしていました。だから先を見据えるなんて発想はゼロだったんです。日本ハムからクビだと言われたときに「コーチにならないか」というお話をいただきましたが、まだ現役に未練があったので、それを断って巨人へ入団。その1年後、現役で20年やったという区切りもあったので、引退することを決めました。

 僕は現役の頃からサインを頼まれると、色紙に『大い成る心』と書くんです。松山千春さんが大好きで『大空と大地の中で』のイメージがあるからなんですかね。頭の中に浮かんできた、僕が作った言葉です(笑)。大きく成長する心……つまりは小っちゃな人間になるな、ということになるのかな。思えばこの言葉が、僕のセカンドキャリアを作ってくれたような気がしています。(後編へ続く)

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取材=石田雄太
撮影=戸張亮平
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