1984年オールスター 江川卓の8連続三振のあとマウンドに上がった鈴木孝政はしらけムードのなか1イニングを投げた

連載 怪物・江川卓伝〜"元祖・速球王" 鈴木孝政の矜持(後編)

"元祖・速球王"の鈴木孝政は、プロ3年目の1975年から77年まで最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、セ・リーグNo. 1ストッパーに君臨していた。しかし、78年のオールスター頃からヒジを痛め、150キロ以上あったストレートは140キロ台に落ち込んだ。

 江川のデビューと入れ替わるように、ヒジ痛に苦しむ鈴木はモデルチェンジを余儀なくされ、82年からは先発に回った。

「江川とは1回くらいしか投げ合ってないかな」

 鈴木はそう嘯(うそぶ)くが、じつは先発で7回投げ合っている。どうやら、鈴木のなかで江川と投げ合った記憶はほとんどないらしい。


1984年のオールスターで8連続三振の快投を演じた江川卓 photo by Kyodo News

【球史に残るオールスターでの快投】

 プロに入ってからの江川との思い出と言えば、1984年のオールスターだ。7月24日、ナゴヤ球場での第3戦、江川が8連続三振を奪った試合だ。鈴木は40年前のことを、昨日の出来事のように話す。

「あの試合は先発が郭源治(中日)で、二番手が江川、三番手がオレで、それぞれ2イニングずつだったの。江川が投げている間、ブルペンで用意していたら、三者三振でしょ。当時のナゴヤ球場のブルペンはファウルゾーンにあったから試合は丸見えで、『すっげぇー』と思いながら気になってしょうがない。そしたら2イニング目も三者三振。さすがに『次、オレでいいの?』ってなるよね。そしてピッチングコーチ担当の方が来て、『孝政、悪い。江川、もう1イニングいくから』って。『そりゃそうだよな、どうぞ、どうぞ』ですよ。オレも興味あったから、ブルペンでずっと見ていたもん。8連続三振とって、最後に大石(大二郎/近鉄)が出てきた時は、『わざと三振しろ』って思ったからね。フルスイングして三振できるでしょ」

 話を始めると記憶がどんどん蘇ってきたのか、より饒舌になっていく。

「三振をとるたびにすごい盛り上がりでね。江川が投げている間は、超満員のスタンドはシーンとなって、みんな前のめりになって見ている。江夏豊さん(1971年オールスター第1戦)以来の9連続三振を見たいからね。結局、連続三振は8で止まって、次にオレが1イニング投げるわけです。地元なのに歓声もないし、スタンドの観客はゾロゾロと立ち上がってトイレに行ったりして。オールスターはもう、そこで終わったみたいに、『あぁ、次は孝政が投げるんだ』みたいな感じで、観客は全然集中していない。もう完全にしらけムードですよ。ほかの球場ならまだ許せるけど、地元でだよ」

 鈴木は苦笑するしかなかった。オールスター出場7回のうち、二度目の地元開催だったのに、江川の8連続三振のあとにマウンドに上がったため、まったく盛り上がらないまま1イニングだけを投げた。

【江川卓は今で言うと大谷翔平】

 鈴木は、10年目に先発に転向してから、1986年に16勝を挙げてカムバック賞を受賞するなど、17年の現役生活で124勝94敗96セーブの成績を残した。ちなみに、中日の高卒投手で現役を15年以上続けて、100勝以上挙げたのは鈴木と小松辰雄のふたりしかいない。

「高卒ルーキーのピッチャーで、開幕一軍入りしたのは、あとにも先にもオレひとりだけ」

 鈴木はより目を細めて誇らしげに言い、さらに続けた。

「1年目のオープン戦、南海とのダブルヘッダーの1戦目に投げて6回をゼロに抑えたのよ。1戦目はフルメンバーで、野村克也さんも出ていた。まだ新人だったから、2戦目はバックネット裏でスコアをつけていると、野村さんがつかつかやって来て、『おまえ、どっから来たんや?』と。『千葉の成東高校からです』って、直立不動で答えましたよ。そしたら野村さんがボソッと『うちのスカウトは、何しとんじゃ』って言うのよ。そのひと言がどれだけ自信になったことか。今でも忘れられない」

 当時、南海のプレーイングマネージャーだった野村から、思ってもみないひと言がルーキーの心に突き刺さり、大きな自信となった。

 鈴木がルーキーから不動のストッパーで活躍している期間の監督は、ウォーリー与那嶺だった。そのウォーリーとのこんなエピソードを教えてくれた。

「75年だったかな。ナゴヤ球場でのヤクルト戦で、1対0とリードして迎えた8回からマウンドに上がった。当時は回またぎなんて普通だから、9回も投げたんだけど、外国人のロジャーに逆転2ランを打たれて......。そしたらその裏に1点を取って同点になった。延長10回も投げることになったんだけど、前の回に逆転ホームランを打たれているからベンチでうずくまっていると、ウォーリーがいきなりオレの頬を二発殴ったの。『おまえが行かなきゃ誰が行くんだ』と怒鳴られて、泣きべそかきながらマウンドに上がって抑えたよ。そしたらその裏、味方のサヨナラホームランで勝ち星が転がり込んできた。

 試合が終わると、監督室に呼ばれて『なんでオレが殴ったか、わかるか』って言うから、点を取られたからかなって思うじゃん。とりあえず『わかりません』って答えたの。すると、ウォーリーがゆっくり口を開いて、『おまえがやられても、みんな納得するんだ。スタンドのファンも納得するんだぞ。そういうピッチャーなのに、今日の様はなんだ! 下を向いて、マウンドに行けないなんてなんだ! オレが交代って言ったか!』と。それで目が覚めたよ。この言葉がどれだけ支えになったことか」

 自信というのは、成果だけで植えつけられるものではない。言葉によっても多大な影響を及ぼし、それが自負心となり、心の奥底に揺るがないものとして根づいていく。

 プロフェッショナルであればあるほど、自己評価の高さは無意味で、他人からの評価がすべてだ。そう考えると、鈴木にとって江川の評価は高校時代から変わらず、絶大なものがある。

「やっぱり天才もいいところだよね。あの存在感にプラスオーラもある。高校の時のイメージとまったく変わらない。もう江川だけは特別で、違う世界のピッチャーだったよね。歳はひとつ下だけど、今で言えば大谷翔平のような存在だよね。二刀流じゃないというだけで......」

"元祖・速球王"としての自負を持つ鈴木にとっても、江川の存在は眩しかった。自身と入れ替わるように速球王に君臨していく姿を、鈴木は納得しながら見ていた。ひとつ下の同世代である江川だからこそ、鈴木は心から認められたのかもしれない。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

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