星野仙一から「おまえ、抑えをやれ」 与田剛はプロ1年目に突然のクローザー転向を言い渡された

セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
与田剛が語るプロ1年目でセーブ王獲得の真実(前編)

 巨人から西武に移籍した鹿取義隆が、パ・リーグの最優秀救援投手賞に輝いた1990年。セ・リーグで同タイトルを獲得したのは、中日の与田剛だった。この時、与田はプロ1年目であり、新人が"抑えの勲章"を受けるのは球界初。ドラフト1位入団で即戦力を見込まれていたとはいえ、難しいポジションだけに偉業と言っていい。当然のように、新人王にも選出されている。

 もっとも与田は、当初、先発で期待されていた。それがチーム事情で転向となったが、当然、実績はなく、前例もない。にもかかわらず成功したのは、150キロ超の剛速球があったからなのか。アマ時代のたしかな実績も社会人2年目のみと乏しいが、それでも結果を出せた背景には何があったのか──。11年間の現役生活を終えたあと、楽天コーチ、中日監督を歴任した与田に聞く。


試合に勝利し、星野仙一監督(写真左)と握手をかわす与田剛 photo by Sankei Visual

【球速だけを求めた高校、大学時代】

「まず僕自身、ずっと速い球を追い続けていたのはたしかです。絶対、コントロールが最優先なことは100パーセントわかっているんですけど、それでも速い球を......という自分のなかに二面性があって。高校の時はとくにそうでしたし、その高校に入る時から、僕は行きたかった学校の受験で失敗しているので。当時から、いろんな大人の方に助けていただいているんです」

 千葉の木更津中央高(現・木更津総合高)出身の与田だが、県内の公立強豪校を断念して入学した形だった。2年秋からエースになったが、目立った成績は残せず、3年夏の千葉大会も4回戦で敗退。目標としていた甲子園は遠かった。卒業後は野球部監督の紹介を受け、東都大学野球の亜細亜大に進学。1年上に左腕の阿波野秀幸(元近鉄ほか)がいた。

「リーグ戦で投げられるのは、フォアボールを出さないピッチャーです。まさに阿波野さんがコントロールで勝負していたとおり。それをわかっていて練習を始めるんですけど、野球を分析する能力とか勉強する能力、つまり"野球脳"が足りなくて。どうしても自分のモチベーションを上げるため、速い球を求めてしまう。だからいつまで経っても成長できなかったんですよね」

 制球力を高め、投球術でバッターを打ち取る──。本当に追い求めるべきはそっちだ、と気がつき始めたのは大学3年生になる頃だったが、右手人差し指と中指の血行障害で手術。長期入院を余儀なくされた。それでも入院によって、さまざまな本を読む時間ができて"野球脳"が回転し始める。皮肉にも、書物から知識を得た結果、ケガの原因に自ら思い当たることもあった。

「あの当時、速い球を投げようとして、1日に800球から1000球の球数を投げていました。半ば強制的ではありましたけど、同じ球数を投げるのでも、もっとコントロールを目指す練習をしておけば、たぶんこんなケガはしなかったんじゃないかと。やっとそんなふうに考えられたんです。ただ、そこに至るまで時間がかかり過ぎましたね」

【社会人に進み才能が開花】

 リーグ戦での登板機会はほとんどなく、1勝を挙げただけで大学野球が終わった。千葉の大手企業から誘いを受けたが、同社の野球チームは軟式だった。大学1年時に父親が他界しており、母親の面倒を見るべく一時は入社を決意する。だが、「何のために手術したんだ」という思いが残っていて断りを入れた。そのうえで大学に戻り、野球部総監督と監督との"就活面接"に臨んだ。

「お断りしたことを話して、『どうするんだ』と言われて、『何とか、します』って答えたんです。具体策ゼロで社会人もない、プロも当然ないのに、強がって。若さゆえの、怖いもの知らずなんでしょうね。そのあと、NTT東京(現・NTT東日本)のほうからお話をいただいたんですけど、100パーセントあり得ない流れなんです。周りの皆さんが助けてくれたんだと思います」

 社会人の企業から誘われる選手は、早ければ大学2年時から目をつけられている。ゆえに「あり得ない流れ」なのだが、与田が2年生の時、社会人相手に完封した試合を、当時NTT東京監督の森二郎が見ていた。入社後に与田は森から明かされたが、そこから下降線となった選手を普通は採用しない。与田のポテンシャルを見込んだ大学と企業、双方の関係者に助けられた形だった。

 ときに、88年。バブル景気で企業に余裕があった時代、野球部への追加採用も認められたのかも──。そう振り返る与田だが、入社後、徐々に試合で結果を出していくと、2年目の89年5月にしっかりと開花する。前年のソウル五輪に出場した新日鐵堺の野茂英雄(元近鉄ほか)、松下電器(現・パナソニック)の潮崎哲也(元西武)らとともに、全日本メンバーに選ばれたのだ。

「社会人ではとにかく"野球脳"を鍛えなきゃという思いがあって、とくに映像を使って研究しました。それまで感覚だけでやろうとしていたのを、二画面を見比べる動作解析で自分のフォームを確認したり、チームのエースのピッチングを撮ってもらって見たり。自分と何が違うんだろうとか、そんなふうに考え始めたことが実を結んで、全日本に選ばれたのかなと。

 ブルペンでは何といっても野茂、潮崎がすごかった。横で投げていて、シューッとか、ザクッとか、ブオッとか、音で驚かされるなんてまずないんですよ。あとは古田(敦也/トヨタ自動車/元ヤクルト)と組んで、キャッチングひとつで野球観はこんなに変わるんだなと。今まで経験したこともない野球の楽しみ方みたいなものを知って、ますます勉強する気持ちにもなりましたね」

 日本・キューバ選手権大会、インターコンチネンタルカップ大会で活躍した与田は、次第に<野茂、潮崎に負けない逸材>と評されるようになる。初めて出場した都市対抗では初戦の三菱重工広島戦、佐々岡真司(NTT中国から補強/元広島)と投げ合って惜敗するも、4安打2失点で完投。150キロ近い速球とスライダーが光る与田自身の評価は高まった。

【単独1位指名で中日に入団】

 そうして迎えた89年のドラフト。野茂が史上最多の8球団に1位指名されたなか、与田は単独で中日に1位指名された。与田自身、球団が野茂に行かずに1位で指名したことを光栄に感じつつ入団。星野仙一が監督を務めるチームの雰囲気はどうだったのか。

「闘将の星野さんが醸し出す雰囲気に厳しさはありましたけど、すべてのプロ野球選手が僕にとっては憧れですから、一つひとつがすごく新鮮でした。ただ、憧れの世界で今度は生き抜いていかなきゃいけない。長年の夢が現実になると怖さもあって、キャンプでは怖気づくような毎日で。しかも途中で肉離れのケガをして、これでもう終わったのかなと落ち込みました」

 足を痛めたものの、下半身を含むトレーニングを続けて3月半ばに復帰し、同18日、東京ドームでの日本ハムとのオープン戦で初登板。故障明けながら151キロをマークし、球界全体を揺るがすほど大きな話題となった。プロでの評価も一気に高まり、あきらめかけていた開幕ローテーション入りも見えてきた。そんな時に与田は監督室に呼ばれ、星野から直々に告げられた。

「おまえ、抑えをやれ」

「えっ??」と声を上げるしかなかった。抑えにも驚いた与田だったが、キャンプ中から「先発で開幕一軍」と言われてきて、ずっと先発として調整してきたから二重の驚きだった。前年まで抑えを務めてきた郭源治が左脇腹を痛め、急遽、新人の与田に白羽の矢が立った。チーム事情を説明すると、星野はさらに言った。

「セ・リーグの初代セーブ王、誰か知っとるか?」

「えっ?」

「ワシや」

(文中敬称略)

つづく>>


与田剛(よだ・つよし)/1965年12月4日、千葉県君津市出身。木更津総合高から亜細亜大、NTT東京を経て、89年のドラフトで中日から1位指名を受け入団。1年目から150キロを超える剛速球を武器に31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年6月にトレードでロッテに移籍し、直後にメジャーリーグ2Aのメンフィスチックスに野球留学。97年オフにロッテを自由契約となり、日本ハムにテスト入団。99年10月、1620日ぶりに一軍のマウンドに立ったが、オフに自由契約。2000年、野村克也監督のもと阪神にテスト入団するも、同年秋に現役を引退。引退後は解説者として活躍する傍ら、09年、13年はWBC日本代表コーチを務めた。16年に楽天の一軍投手コーチに就任し、19年から3年間、中日の監督を務めた

ジャンルで探す