球団譲渡、イチローフィーバー、近鉄との吸収合併...阪急・オリックスで46年、松本正志が振り返る激動の球団史

 今年3月末、定年によりオリックスを退職した松本正志氏。松本氏は1977年のドラフトで阪急(現・オリックス)から1位指名を受け、1年目から日本シリーズに登板するなど大きな期待を背負ったが、10年間の現役生活で挙げた勝利はわずか1勝。引退後は用具係の裏方としてチームを支え、阪急からオリックスへの球団譲渡、イチローフィーバー、近鉄との吸収合併、そして昨年までの3連覇など間近で見てきた歴史の証人である。松本氏に阪急、オリックスでの激動の時代を振り返ってもらった。


77年のドラフトで阪急から1位指名された松本正志氏(写真左)。右は同2位の三浦広之 photo by Sankei Visual

【阪急黄金期に1位指名で入団】

── 東洋大姫路高3年夏(1977年)の甲子園決勝で、「バンビ」こと坂本佳一投手を擁した東邦高(愛知)と対戦。延長10回、味方のサヨナラ3ランで全国制覇を遂げました。

松本 高校2年春のセンバツには出られたのですが、高校2年夏、高校3年春は甲子園の土を踏めませんでした。ただ、高校3年夏は前評判がよく「甲子園に出場できれば全国制覇できるだろう」と言われていました。実際、出場することができ、順当に最後まで勝ち進めてホッとしました。

── 同年秋のドラフトで阪急から1位指名されたときはどんな心境でしたか? 当時のドラフトは予備抽選があり、各球団の指名順を最初に決める方式でした。予備抽選の1番はクラウンライター(現・西武)でした。

松本 ドラフト前、12球団の方が実際にあいさつに来られて、1位で指名されるだろうとの思いはありました。ただ、あの年は江川卓さんが法政大を卒業する年でした。前日、クラウンから電話があって、「1番クジを引いたら、江川くんではなく松本くんを指名する」と言われたのですが......。フタを開けてみたら、江川さんが1位指名でした。

── 約束と違いますね。

松本 2番クジが巨人だったので、クラウンは「江川くんを巨人に持っていかれたくなくて指名した」とのことでした。それで2番クジの巨人は、森昌彦(のちに祇晶)さんが74年限りで引退していたこともあり捕手獲得が急務で、早稲田大の山倉(和博)さんを指名。私は3番クジの阪急に1位指名されました。

── 当時の阪急は3年連続日本一と、まさに黄金期でした。

松本 東洋大姫路の梅谷馨監督には、1年の頃から「卒業したらいい監督のいる神戸製鋼に行きなさい」と口酸っぱく言われていました。そこで私の従兄弟である小谷正勝さん(1967年大洋ドラフト1位)に、ドラフト前に相談しました。「地元の阪急か阪神、在京なら自分がいる大洋(現・DeNA)か巨人ならプロ行きでいいんじゃないか」とアドバイスされていたのです。

【1時間19分の中断直後に登板】

── プロ1年目は6試合に登板して勝敗はなしでしたが、ヤクルトとの日本シリーズ第7戦のあの1時間19分の中断直後、足立光宏投手に代わりリリーフしました。

松本 日本シリーズ前、審判の方が「セ・リーグにいない速さだ」と言っていたのと、私自身が好調だったこともあり、上田利治監督に「どこかで投げさせるからな」と言われていました。ただ、あの7戦まで出番はありませんでした。

 足立さんが大杉(勝男)さんに打たれた打球をめぐって中断し、結果的に1時間19分まで長引きましたが、中断して10分の時点で「次、リリーフでいくからな」と通達されていました。5番のチャーリー・マニエル、6番の杉浦亨さんと左打者が続いたからです。

── 通達後、かなり待たされましたね。

松本 後楽園球場のレフト側のブルペンで投げていたのですが、緊張でずっと心臓がバクバクしていました。当時『プロ野球ニュース』のキャスターを務めていた佐々木信也さんが取材でレフトポール際に来て、「松本くん、今の打球はどうだった?」と聞いてきたのですが、上の空で「ファウルだった気がします」と答えたような気がします(苦笑)。

── 登板後はマニエル選手にソロ本塁打を浴びました。

松本 マウンドに上がり、投球練習のときは足が震えていました。それでも2ストライクと追い込んだのですが、レフト中段に本塁打を打たれて......ガックリきました。そのあとの杉浦さんは三振、大矢(明彦)さんはショートゴロに抑えたんですけどね。

 日本シリーズ終了後、出場選手への分配金があります。当時は「君はこれくらい、あなたはこれくらい」と手渡しの時代です。怖い先輩たちに「おまえ打たれたんだから、みんなに配ってこい!」と言われて、ひとりずつ配ってました(笑)。

【阪急からオリックスへの球団譲渡】

── 現役10年間の一番の思い出は何でしょうか?

松本 日本シリーズのあと日米野球があり、「安打製造機」と呼ばれたピート・ローズと対戦したことです。ストレートをライト前に持っていかれました。マニエルといい、ローズといい、外国人打者に弱いですね(笑)。

── 阪急の小林一三オーナーは「球団と宝塚は手放さない」が遺言だったそうですが、1988年のオフにオリックスに球団譲渡されました。

松本 投手では山田久志さん、野手では福本豊さんがリーダー格だったのですが、ともに球団譲渡を機に引退。みんな「この先どうなるんだろう」と、不安を隠せませんでした。完全に引き継ぎが終わるまで、2年ほどかかりましたね。95年、96年にリーグ連覇を達成し、96年は日本一にも輝きました。ただそのあとは、FAで主力選手が移籍し、長谷川滋利やイチローがメジャーに挑戦したこともあって、戦力はダウンしました。

── 2005年の「球界再編」において、オリックスは近鉄を吸収合併しました。

松本 ライバル球団である近鉄との合併で、チーム内に違和感があった気がします。なかなか勝てないシーズンが続き、1996年の優勝から2021年の優勝まで、じつに四半世紀もかかりましたからね。

── 上田利治監督、梶本隆夫監督、仰木彬監督、岡田彰布監督、中嶋聡監督ら多くの監督を見られてきたと思いますが、印象に残る監督は?

松本 みなさんいい監督でした。とくに印象深いのは、プロ入団時の上田監督と日本一時の仰木監督ですね。共通するのは、ふたりとも厳しさのなかに愛情がありました。上田監督は捕手出身なので、投手の私には「思い切って腕を振れ」とアドバイスしてくれました。そして、「ええで、ええで」と選手を乗せてくれました。

── 仰木監督はいかがでしたか。

松本 私は現役引退の翌年(1988年)から用具係に転身し、92年までは打撃投手を兼務しました。仰木監督で印象的だったのは、その日の天気を質問されたときなどは、曖昧ではなくしっかりとした答えを求められました。各コーチに対する選手への質問も同じでした。「自分の担当する仕事に対して目を配り、準備をしっかりしておきなさい」ということを教えてくれていたのだと思います。

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松本正志(まつもと・しょうじ)/1959年4月2日、兵庫県生まれ。77年、東洋大姫路高3年夏の甲子園で全国制覇。同年秋のドラフトで阪急(現・オリックス)から1位指名を受け入団。1年目から一軍のマウンドを経験し、ジュニアオールスター、日本シリーズにも起用された。80年にプロ初勝利を挙げるも、その後は故障もあって登板機会に恵まれず、87年に現役を引退。 引退後は用具係としてチームを陰で支えた。今年3月末、定年により退職した

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