“ハマのドン”藤木幸夫さん「野球のおかげで自分の人生がある」「日本に野球があって良かった」球縁に導かれた半生…インタビュー

インタビューで野球への思いを語った藤木幸夫さん(カメラ・堺 恒志)

 政財界に顔が利き、「ハマのドン」と呼ばれる藤木幸夫さん(94)=藤木企業取締役相談役=は長年にわたり神奈川県野球協議会の会長を務めている。プロ・アマの野球振興に尽力してきた藤木さんは今も子どもたちの競技人口増を目指し、野球王国・神奈川の隆盛を願う。幼少期からの“球縁”とともに、野球への熱き思いを聞いた。(編集委員・加藤 弘士)

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 日本にプロ野球が誕生する4年前の1930年、横浜に生を受けた藤木さん。その頃から神奈川の野球熱は高かったと回想する。

 「小学生の頃は横浜高工と横浜高商(ともに現在の横浜国大)の定期戦が楽しみでね。今の横浜スタジアムがある横浜公園で行われたんだ。『ハマの早慶戦』って呼ばれて、応援合戦がすごくてね。小3の頃からゴムボールで野球を始めました。そうこうしていたら小5の時、アメリカとの戦争が始まるんだ」

 神奈川工の機械科に進学後、野球部の門を叩いたが、当時は太平洋戦争のまっただ中。工場では軍用機の部品作りに従事した。45年5月29日、横浜大空襲で街は焦土と化した。

 「一緒に遊んでいた友達や、前日に『焼き芋食べなさい』って親切にしてくれたおばさんが、みんな死んじゃったんだよ。焼け跡になっちゃって、友達のお父さん、お母さんの死体をずいぶん焼きました。『藤木頼むよ』って泣いて言ってくるから『いいよ』ってね…。校庭に生えている松葉を切って、燃やしてね。その頃は野球どころじゃなかったな。空襲で道具は全部燃えてしまったから」

 だが、藤木さんの野球への情熱は強かった。終戦から2か月後の10月、横浜市内の浅野中(現浅野高)と試合を行った。

 「浅野は空襲を逃れたんで、道具が全部あった。俺は捕手だったけど、敵から借りるのは嫌だから、レガーズは着けなかったよ。だから試合後は傷だらけ。道具が欲しいので、アメリカの進駐軍に試合を申し込むと、『OK』って受けてくれた。試合後、道具をくれるんだ」

 捕手で頭角を現した藤木さんには、慶大から声が掛かった。入学前だが、日吉の合宿所で寝泊まりした。

 「浪華商(現大体大浪商)で甲子園の優勝投手になった平古場昭二が入学するんで、当時の上野精三監督がワンバウンドを捕れる捕手を探していたというんだ。そこで俺に白羽の矢が立った。慶大に進学すると思っていたんだけど…」

 47年秋の東京六大学リーグ戦、早大は史上初の最下位に沈み、再建は急務だった。後に野球殿堂入りする早大野球部の重鎮・外岡茂十郎氏の家を訪ねると、慶大を断念し、早大を受験するよう指示された。48年春、早大政経学部に進学した。

 「当時は学徒出陣した人たちが復員してきたから、急に先輩が増えたりしていました。ある日、『新人、集まれ』って号令がかかって『大先輩が来ているからごあいさつしろ』と。その方が飛田穂洲さんだったんです」

 「学生野球の父」と呼ばれ「一球入魂」の言葉で知られる早大初代監督・飛田穂洲氏。60歳を超えていたが、迫力は健在だった。

 「バットで地面に線を引いて、こう言うんです。『柵を作って、ヘナヘナな当たりで塀を越したら本塁打。そんな野球、わしゃ、認めん! 三振でもいい。投手ゴロでもいい。しっかりと魂を込めて打つんだ。それが野球なんだ』ってね。すごい訓話だと思いましたよ。飛田さん、さすが水戸っぽだ。水戸魂だってね」

 その頃、愛する母の胃がんが進行し、「幸夫のでなければ嫌」と語る母の求めに応じ、藤木さんは連日400ccの輸血に協力した。看病に専念し、部から離れた。ユニホームは脱いだが、その後も野球との縁は続いた。横浜スタジアムの建設に深く関わり、神奈川県野球協議会の会長を今でも務めるなど、球縁は続いている。

 「野球のおかげで自分の人生があるんだ。汗をかくのは当たり前だよ」

 13年からは日本球界初の取り組みとして、プロ、社会人、大学の連盟の垣根を越えた大会「神奈川県野球交流戦」がスタート。今年も8月15日に横須賀スタジアムで開催されると、野球教室には県内の中学・高校部員も運営に協力。カテゴリーを超え、競技人口増へと奮闘する姿は、神奈川ならではの光景だった。

 「港町にある友情でしょう。丹念な友情だな。野球がそういうゲームだからね。みんなで仲良く力を合わせて、頑張っていこうというスポーツだよ。野球は一人じゃできない。一緒に喜んだり、ケンカしたり、いろいろあって人間は成長できる。日本に野球があって、本当に良かったと思うね。野球には人が育つためのヒントが、全部詰まっていると思うよ」

 ◆藤木 幸夫(ふじき・ゆきお)1930年8月18日、横浜市生まれ。94歳。神奈川工、早大政経学部を経て、父・幸太郎氏が創設した「藤木企業」を経営。横浜エフエム社長、横浜港メガターミナル会長、横浜港運協会会長、横浜港振興協会会長、横浜港ハーバーリゾート協会会長などの要職を歴任し、98年には横浜文化賞受賞。横浜スタジアム会長、神奈川県野球協議会会長、横浜ベイスターズ取締役を務めるなど野球振興にも尽力。長嶋茂雄氏、王貞治氏、原辰徳氏ら野球人との親交も深い。

 ◆神奈川県野球交流戦 社会人野球(JABA神奈川県野球協会)、大学野球(神奈川大学野球連盟)のそれぞれの選抜チームと、DeNAのファーム、神奈川フューチャードリームスが、プロ・アマの垣根を越えて試合を行うもので、日本球界初の試みとして13年にスタート。振興活動として各チームの選手が講師を務める「野球ふれあい教室」には神奈川県内の中学・高校野球部員も運営に協力している。

 〇…藤木さんを慕う野球人は数多い。横浜商大の監督を34年にわたって務めた神奈川大学野球連盟の佐々木正雄理事長(76)もその一人だ。「会長から教えていただいた野球に対する思いを胸に、今後も野球界の底辺拡大運動へと取り組んでいきたい」と語った。横浜高の監督として98年に春夏連覇を達成するなど、甲子園で春3度、夏2度の優勝に導いた渡辺元智さん(79)も「私の人生の師」と話している。

 〇…11月には明治神宮大会への出場権を懸け、「横浜市長杯争奪関東地区大学野球選手権大会」が第20回のメモリアルを迎える。05年の大会立ち上げの際、横浜スタジアムを舞台に横浜市長杯として開催できるよう、尽力したのが藤木さんだ。「仲間と一緒にたくさんの思い出をつくってほしいね」とエールを送った。

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