<映像作家・佐々木昭一郎さんがのこしたもの>はらだたけひで…奇跡のような一筋の光【寄稿】

 6月14日に死去した演出家・映画監督の佐々木昭一郎さんは、テレビドラマ「四季・ユートピアノ」や映画「ミンヨン 倍音の法則」など、既存の概念を超える映像作品で国内外の人々を魅了した。佐々木さんがのこしたものとは……。「ミンヨン 倍音の法則」を企画・プロデュースした、はらだたけひでさん(画家・絵本作家・ジョージア映画祭主宰、元岩波ホールスタッフ)に追悼の文章を寄せてもらった。

 「ミンヨン 倍音の法則」(2014年)が完成してから10年 () つが、撮影中と変わらず、佐々木昭一郎さんとは、ほとんど毎日のように電話やメールでたわいない話をしていた。わたしは家では「佐々木のおじさん」と呼んでいた。その人が突然逝ってしまった。彼がいなくなって、わたしはこれからどう生きていったらよいのだろうか。

 高校生の頃、「さすらい」(1971年)を見て衝撃を受け、確かな人生を求めて、わたしは放浪の旅に出た。後に岩波ホールに入社し、彼の「四季・ユートピアノ」(1980年)、「川の流れはバイオリンの音」(1981年)等を家で正座をして観たことを (おぼ) えている。2009年、エルマンノ・オルミ監督「ポー川のひかり」を公開し、思いつきで「川の流れ」のヒロイン、中尾幸世さんからポー川のスケッチを借りてロビーに展示した。そして偶然「川の流れ」のバイオリン職人、石井高氏から「ポー川」についての思いを (つづ) った手紙を受け取る。そのような偶然が重なり、佐々木さんと出会って「ミンヨン 倍音の法則」の製作へと (つな) がった。

 佐々木さんの作品を言葉で語ることはわたしには難しい。しかしその創造の源には彼の音楽と音の記憶がある。「夢の島少女」(1974年)のパッヘルベルのカノン ニ長調、「四季・ユートピアノ」のマーラーの交響曲第4番、「ミンヨン 倍音の法則」のモーツァルトのピアノ協奏曲第22番第3楽章、交響曲第41番「ジュピター」。これらの音楽との出会いは格別であり、魔法のようにわたしたちに忘れることの出来ない (よろこ) びをもたらしてくれた。

 佐々木さんの作品は音楽と音を核にして、彼がいつまでも生々しい傷として抱えていた少年期の記憶──太平洋戦争、父母との思い出、疎開の体験など、その怒り、悲しみ、 慟哭(どうこく) や歓喜、彼の心身に堆積した感情がいつしか 稀有(けう) な作品へと化していった。

 昔、佐々木さんが語っていたことだが、彼はたくさんの色のクレヨンを与えられると、思うがままに紙に色を塗り重ねてゆくうちに、真っ黒になって、 (しま) いには紙に穴をあけてしまうという。今、わたしたちが観ることの出来る彼の作品は、この真っ黒になった彼の記憶、渦巻く感情の 混沌(こんとん) 、抑圧された嵐から奇跡のように誕生した一筋の光にほかならない。その光は純粋で 無垢(むく) であり、この世ならぬ透明さ、美しさと哀しさを帯びている。

 亡くなる前に佐々木さんは、近頃、自分の何十年も前の作品が外国で評価されているようだが、なぜだろうといっていた。わたしは思わず「今の時代は詩が乏しいからではないか。佐々木さんはひとコマの映像に永遠、詩を求めている」といってしまった。そこで話は大谷のホームランの話へ移った。しかし彼は話を変えたわけではない。アマチュア野球の選手だった彼は、詩の有り様と大谷のホームランの映像が重なったのだ。

 撮影中は、撮影の吉田秀夫氏や葛城哲郎氏、音響の岩崎進氏、そして製作の遠藤利男氏、限られたスタッフ以外の者が現場に近づくと 火傷(やけど) を負う。製作に入れば、柔和だった彼は 豹変(ひょうへん) し、己を中心に宇宙嵐を巻き起こす。創造行為とはそういうものだ。

 作品について常日頃語っていたこと。「物語にはある抽象性が必要だ、観客が () ながら自分の頭で感じて考えなければ、物語は深まってはいかない」。今日の分かり易さを求める映像作品の 趨勢(すうせい) とは正反対の考えである。抽象性とは、おそらく詩を生む「曖昧さ」であり、「倍音」を生むさまざまな元素の集合体、表現や感動の苗床である。

 佐々木さんは指揮者の武藤英明氏から「倍音」を教えられた。「ミンヨン 倍音の法則」で提示した「倍音」は、佐々木さんが (のこ) したわたしたちへの贈り物だと思っている。倍音は広辞苑二版によると「振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数をもつ部分音(上音)」とあるが、佐々木さんは直感的に「倍音」と世界の関係を悟った。以来、「倍音」は佐々木さんの現代社会に対するアンチテーゼとなる。日常のなかの「倍音」に耳を傾け、「倍音」に身を委ねることによって、世界に元々あった 豊穣(ほうじょう) さを知る。佐々木さんは「倍音」を大切にする社会、現代人の眼には見えなくなったもの、耳には聴こえなくなった音を優先する社会を願っていたとわたしは考えている。

 物質文明は「進歩」という名のもとに、デジタル化、合理化、経済優先で突き進んできた。その結果、人間性を疎外し、自らの未来さえも閉ざそうとしているのではないか。戦争や暴力が世界を覆い尽くし、社会は 閉塞(へいそく) し、自由が日々失われていると、佐々木さんは今日の時代を危惧し、自らの厳しい少年期の記憶を繰り返し語っていた。

 そして数年前から佐々木さんはにわかにコラージュ作りに夢中になった。光のスペクトルのような色彩を貼り合わせて虹色の世界を作っては、知人、友人に贈っていた。彼のメールアドレスもイタリア語の虹だった。彼は自身の虹を世界に () いていたのだ。

 佐々木昭一郎、彼のような映像作家は二度と現れることはないだろう。葬儀の前夜、わたしは夢で、高く険しい峰の白い頂に向かって、佐々木さんとともに、少しでも高みに近づこうと歩み続けていた。今はその旅に加わらせていただいたことへの感謝しかない。佐々木さんが逝ってしまった今、わたしにとって世界はただ (ひど) いばかりのものになってしまった。葬儀が終わり、50年以上にわたって佐々木作品の編集に携わった松本哲夫氏が「ぼくの青春は今日で終わった」と (つぶや) いていたことが忘れられない。

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