〈名曲『深夜高速』誕生秘話〉「いちばん恥ずかしいことを歌にしろ」マネジメント契約終了に離婚…社会に必要とされない35歳が自らを赤裸々に歌うと…
大ヒットしたわけではないのに、時代を超えて、長きにわたって愛され続ける曲が生まれることが稀にある。その代表格が、フラワーカンパニーズの『深夜高速」だ。メジャー、そしてマネジメントの契約が終了し厳しい時期の末に、名曲が生まれた35歳のときの話を、ボーカルの鈴木圭介に聞いた。〈前後編の前編〉
【画像】「ライブ禁止」「ひとりで曲を作る」極限状態だった35歳当時を振り返る鈴木圭介
32歳でレコード会社をクビに
フラワーカンパニーズ(以下フラカン)が、「深夜高速」を作ったのは2004年。メンバー4人が35歳のときである。
最初のメジャー、そしてマネジメントの契約が終了したのが、その3年前。現在、ほとんどの曲の作詞作曲を担っている、ボーカルの鈴木圭介は、その前後が、バンドマンとしても、一個人としても、人生が底を打った時期だったと言う。
「その頃はもう、ライブの動員も減っていく、メンバー同士の関係もスタッフとの関係も、うまくいってなくて。レコード会社のボスの坂西伊作さんが、『おまえらはライブでウケるような曲ばっかり作ってる。それだとCDが売れなくてダメだから、ちゃんといい曲を作ってくれ』と。
それまでは、僕がひとりで作る曲は全体の1割ぐらいで、あとの9割は、メンバーが構成を作ってきた曲に、僕がメロディを付けていました。でも、伊作さん曰く、それだとどうしてもライブで盛り上がる曲になるから、おまえがひとりで全部書いてみろ、と。ライブも1回全部止めて、曲作りに集中しろ、という指令が出て」(鈴木圭介、以下同)
坂西伊作とは、アンティノスレコードの代表取締役。1980年代はエピック・ソニーの映像ディレクターで、日本のミュージック・ビデオの礎を作った人物である。音楽ディレクターとしても、渡辺美里やエレファントカシマシ、T.M.Revolution等々、数々のアーティストを育てている。
坂西が圭介に下した「ライブ禁止」「ひとりで曲を作る」という指令は、このアルバムが売れなければ契約終了が待っていたフラカンをなんとかしようとしての、彼なりの策だったのだろう。
「それで、5ヵ月くらいライブをストップして。今まででライブをやらなかった最長期間ですね。家で曲を作っては、週に2回ぐらいレコード会社に持って行って。伊作さんに聴いてもらって『これはいいね』とか『これはよくない』って言われる。けっこうきつかったですね、あれは。ボツを出されることのほうが多かった。
ただ、そのときに言われて印象に残ってるのが、歌手というのはキャリアを積めば積むほどかっこつける、かっこいいことしか歌わなくなる、それじゃダメだ、いちばん恥ずかしいことを歌にしてくれよ、と。いまだに、曲を書いていて、『できないな』と思ったとき、その言葉に立ち返ります」
ある日突然、「実家に帰ります」と…
さらに、圭介の「ライブを止めてひとりで曲を書き続ける日々」は、ちょうど「結婚して子供が生まれた時期」と重なっていた。
「子育てが大変な時期だったのに、僕が全然うまくできなくて、そのことに僕自身もめげて、結局犬と部屋に閉じこもって曲を作っていて、家庭内別居みたいな状態になって。
で、ある日、突然いなくなっちゃった、『実家に帰ります』と。犬も連れて行っちゃって。かなりきつかったですね。自分のせいだけど」
しかも、アンティノスからの最後の1枚になるはずだったそのアルバムは、デモ音源まで作ったが、レコード会社の都合で、リリースできないまま契約が終わる。
「この音源、おまえらにやるから」と言われたそのアルバムは、『吐きたくなるほど愛されたい』というタイトルで、フラカンと一緒に同社を去ったディレクターが立ち上げたインディー・レーベルから、2002年7月にリリースされた。
「ちょっと前までチヤホヤされてたのが、バンドの人気が下がり、お客さんが離れていき、家族、犬もいなくなり、レコード会社とマネジメントの契約もなくなって。もう完全に、社会に必要とされてない、みたいな感じになりました。
でも、バンドをやめようとは思わなかった。僕の生きる価値は、もうバンドにしかなかった。メンバー以外に友達もいないし、バンドがなくなったら本当にひとりになってしまうなと。
それに、契約が終わって最初は、5ヵ月ライブができなかったことで、僕よりも他のメンバーがストレス溜まっていましたから。とにかく早くライブを再開したい、という気持ちで。
それでグレート(グレートマエカワ。ベーシストでありリーダーでありマネージャーであり社長)が、地方のライブハウスとかイベンターに連絡して、すぐブッキングを始めました。あのとき以降、今でもずっとグレートがライブ、ツアーを組んでくれています」
最底辺から這い上がる日々が始まった
そんなわけで2001年から、ハイエース1台にメンバー4人で乗って、全国のライブハウスを回る日々が始まる。どの地方に行っても動員は激減していたが、そこから一歩一歩這い上がって行く日々は、意外と充実したものだったそうだ。
「移動から機材のセッティングからバラシから、物販まで、全部自分たちでやる。ちょっと前までは全部スタッフがやってくれてたことだから、最初は『こんなことまで自分でやるのか』って凹んだりもしましたね。
自分たちだけになって最初のツアーを回ったときは、びっくりするぐらいお客さんが減ってました。でも、それにも慣れてきて、次に行くときはちょっとでも増やせるように頑張ろう、とかそういう考え方になっていきました。
実際、いいライブをやれたなと思った場所は、次に行ったときに動員が増えていたりするし、いいライブをやった日は、物販の動きもよかったりする。メジャーにいた後半は、全部スタッフまかせだったので、そういう実感がわからなくなってたんですよね」
そんな生活の中、35歳のときに「深夜高速」は生まれた。「ヘッドライトの光は手前しか照らさない」「生きててよかった そんな夜を探してる」という歌詞のとおり、ハイエースで全国各地を回り続ける現在の自分自身を、赤裸々に描いた曲である。
「あれ? もしかしてこの曲、いい曲なんじゃないの?」
ただ、当時は、圭介も、メンバーも、この曲がバンドにとって極めて重要な存在になるとは、まったく思わなかったと言う。
「この頃の活動のルーティンとして、ツアーに出ますっていうときに、物販としてシングルCDを作って販売する、ということになっていました。
Tシャツとかのグッズが、今ほど売れる時代でもなかったので。だからツアーの度に、アルバムは無理でもシングルを作りましょうっていうことで、候補曲を何曲か作るんですけど、このときは『まぁ、この中ではこれがいちばんいいんじゃない?』って、わりと淡々と決まって。
近い時期に作った『東京タワー』のときは、メンバーみんなが『これはいいね!』って言ってくれたけど、『深夜高速』は、そういう感じでは一切なかったですね。
グレートに至っては……そのときは言われなかったけど、あとで聞いた話だと、この曲をシングルにするのはやめた方がいいんじゃないか、とも思ってたらしい。『生きててよかった』っていうフレーズが、僕の状況も知っていたので、ちょっと痛すぎるな、と思ったんじゃないかな。
それは自分も思ってました。あと『生きててよかった』って、ちょっとクサすぎるんじゃないかな? 恥ずかしいかも、と。でもそこで、伊作さんに言われた『いちばん恥ずかしいことを歌にしろ』っていうことに立ち返って」
そうしてレコーディングをした「深夜高速」をライブで演奏し始めてすぐ、この曲がフラカン史上かつてないほどの、言わば「その場で聴き手に刺さる曲」であることを、4人は実感していく。
CDができあがってライブ会場での販売が始まると、どこでもそれまでにない売れ方をしていく。新宿ロフトでのイベントでは、100枚近い数が売れたという。キャパ500人のロフトでそんな数のCDが売れるのは、異常な事態である。
「当時の手帳があったから、今日持って来たんですけど。これによると、2004年の3月27日、渋谷ラ・ママのイベントに出たとき、『深夜高速』をやってますね。出番後の物販で、お客さんに『あの曲なんですか?』って訊かれました。
そのあともライブで演奏する度に「あの曲は……」と訊かれるて、シングルを売り始めたら、今までにない数が売れていく。それで『あれ? もしかしてこの曲、いい曲なんじゃないの?』って、メンバーで話したことは憶えてます」
取材・文/兵庫慎司 撮影/マスダレンゾ
〈「50歳をすぎて歌う『深夜高速』はヤバい。死ぬってことがよりリアリティを持って…」 フラワーカンパニーズの名曲はなぜここまで愛され続けているのか〉へ続く
11/23 17:00
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