オアシスとブラーによる名盤リリースと論争、カート・コバーンの死…ブリットポップとオルタナが交差した1994年が、ロックの“最後の盛り上がり”だった?
ここ2年だけを見ても、ブラー、元オアシスのリアム・ギャラガーとノエル・ギャラガー、ベック、レッチリがフェスや単独で来日公演をするなど、いまだに1990年代の洋楽ロックが根強い人気を誇っている。ちょうど30年前、彼らが登場した1994年前後はどんな年で、どんな意味合いがあったのか。元宝島社の編集者で、1990年代の音楽シーンを間近に見ていた高田秀之氏が解説する。
【画像】オアシスとブラーが巻き起こした「ブリットポップ論争」って?
「1994年」という奇跡
コロナ禍が一旦は収束し、昨年あたりから日本でも音楽フェスが通常モードに戻った。
邦楽フェスではいまだにロック勢が健在だが、いま海外フェスのヘッドライナーやチャートを賑わせているのは、R&Bとヒップホップのアーティストで(もう10年以上前からそうだが)、スタジアム規模で集客のできるロックバンドは本当に少なくなっている。
その傾向は2000年代から強まってはいたが、じゃあロックが盛り上がっていたのはいつなんだろうと考えるに、だいたい30年前がピークだったのではないだろうか。
いまから30年前の1994年にオアシスのファーストアルバム『Definitely Maybe』とブラーの『Parklife』が発売された。
当時のイギリスはザ・ストーン・ローゼスやニュー・オーダーなどが巻き起こしたセカンド・サマー・オブ・ラブ、いわゆる「マッドチェスター」の熱がまだ残っていた。そんななか1991年にデビューしたブラーだったが、すぐに成功を収めたわけではなかった。
しゃれた音楽性や、メンバーのルックスもよかったことから一部で注目を集めてはいたが、彼らが本当にブレイクしたのは1994年にリリースした先述の3rdアルバムからである。
英国の伝統的なスポーツ、ドッグレースの写真をジャケットにしたこのアルバムはバンド初の全英1位に輝き、その後もチャートにランクインし続け、これまでにイギリスだけで100万枚以上の売上を記録している。
リリカルなメロディとポップな曲調、そして第三者的視点からつづるウィットに富んだ歌詞、かつてのキンクス(ビートルズ、ストーンズと並ぶ60年代ロックの雄)にも通じる英国的なポップロックが並んだこのアルバムは、その後に生まれた「ブリットポップ・ムーブメント」の代名詞とも言われている。
個人的にもブリットポップと聞いて思い浮かぶバンドの筆頭がブラーであり、オアシスにはもっとクラシカルなロックのルーツを感じる。
「ブリットポップ」は古きよきイギリスの伝統を肯定し継承することで、それを復古的、保守的と揶揄する人もいたが、そんな批判はものともせずにイギリス中でブームになった。
モッズの伝統であるフレッドペリーのポロシャツやスポーツブランドのジャージを愛用していたボーカルのデーモンは、フォトジェニックなロックスターとして数々の雑誌の表紙に登場した。
そして同年にデビューしたのがオアシスである。
ブラーとオアシスはなぜ対立したのか
ノエルとリアムのギャラガー兄弟がソングライティングの中心だったオアシスは、1994年にデビューシングル「Supersonic」を発表すると、すぐに注目を集め、アルバム『Definitely Maybe』は全英初登場1位を獲得。
現在までにイギリスだけで200万枚、全世界で500万枚の売り上げを示し、「ビートルズの再来」と評されるほどだった。
音楽性は違えど、彼らもジャージやモッズコートを好んで着込み、オアシスとブラー、そしてスウェードやパルプなどのバンドが「ブリットポップ・ムーブメント」の中心になっていった。
するとロック界で語り継がれる「ブリットポップ論争」と呼ばれる騒ぎが起きる。マスコミが、2大人気だったブラーとオアシスをライバルに見立て、それぞれのファン心理を煽っていったのだ。
翌1995年にはブラーとオアシスのシングルが同日に発売されることがアナウンスされると、どちらがチャートの上位になるかがファンだけでなく国民的な関心を集め、BBCニュースでも報じられたほどだった(結果はブラーのシングルの売り上げのほうが6万枚多かった)。
この対立の原因は、オアシス=ワーキングクラス、ブラー=ミドルクラスという出自の違いが生んだと言われている。しかし実際には当時のイギリス経済は1970年代にパンクが生まれたときのようなどん底状態ではなく、ファン同士もお互いをそれほど敵対視していたわけではない。
ひとえにバンドサイドの、どちらかというとブラー側が仕掛けた戦略で、それに口の悪いノエルがブラーのことを「スノッブなロンドンの奴ら」と言ったり、「エイズにかかればいい」(この発言はのちに謝罪&和解)と暴言を吐いたりしたことで、火に油を注いでいった。
ガチの喧嘩ではなく、言ってみれば業界を盛り上げるための「プロレス」的演出だったのである。
どちらのシングルが多く売れるかについても、いまから思えばそれがどうしたという感じだが、若干微笑ましくもあるこのエピソードが国民を巻き込んだ話題になったことをもってしても、当時のイギリスでブリットポップがいかに盛り上がっていたかがわかる。
英国的な伝統を継承したブリットポップは、英国的ゆえに世界的なトレンドにはならず、結局ブラーがアメリカでブレイクすることはなく、イギリスでは『Parklife』以降、昨年発売された最新作まで全て全英チャート1位を獲得しているが、アメリカではトップ10にすら入らなかった。
デーモンがトップ10入りを果たしたのは、その後に組んだゴリラズのアルバムである(オアシスは2ndと3rdがアメリカでトップ5に入っている)。
カート・コバーンの死
他方、アメリカでその頃盛り上がっていたのはヒップホップとグランジだ。
ニルヴァーナのアルバム『Nevermind』とシングル「Smells Like Teen Spirit」、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『Blood Sugar Sex Magik』などがリリースされたのが1991年。
同年にはオルタナバンドをメインにしたフェス「ロラパルーザ」が開催され、1992年にはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのデビューアルバム『Rage Against The Machine』も発売された。
そもそも「オルタナ」とは音楽性を指すのではなく、メジャーシーンとは別の活動をしているバンドの総称だ。
80年代のカレッジラジオで人気のあったR.E.MやNYのアンダーグラウンドで活動していたソニックユースなどのバンドにこの呼称が使われ始め、ニルヴァーナ、ダイナソーJr.などのグランジロックや、レッチリ、レイジなどのミクスチャーロック、そして一部のヒップホップなども包括して「オルタナ」の枠が出来上がっていった。
そんなオルタナ界に激震が走ったのが1994年のニルヴァーナのフロントマンだったカート・コバーンの自殺である。グランジのカリスマだったカートが亡くなったことはファン以外にも大きな衝撃を与えたが、彼の死でシーンが沈静化することはなく、逆にオルタナの波は広がっていった。
そして1994年にはベックの1stシングル「Loser」とメジャーデビューアルバム『Mellow Gold』が発売される。
伝統的ブルースにヒップホップをミックスさせ、インターネットが当たり前になったデジタル世代のヤク中が“俺は負け犬”と歌う「Loser」はナショナルチャートこそ10位だったが、オルタナチャートでは1位を獲得。グランジは絶望をハードな音にのせて歌っていたが、絶望を超えた虚無から現れたようなベックの登場はグランジの次の世界の音を鳴らしていた。
その後ベックは音楽性を深化し、サウンド面でもトレンドセッターになっていくが、轟音と肉体的な強靱さを音楽に投影したオルタナミュージックが幅を聞かせていたなか、クールなベックの登場は、カートの死ともあいまって、今思うとこの時代の偶然の必然を感じた(というのは言いすぎですかね)。
※
ブラーはその後、休止と再結成を繰り返しながらも、今年はアメリカ最大のフェス「コーチェラ」に出演した。兄弟の不仲が原因で解散したオアシスは、もはや再結成はありえない状態で、リアムは昨年のサマーソニックに、ノエルは今年のフジロックに出演する。ベックやレッチリは最近来日公演をしたばかりである。
もちろんこうしたバンドはいまでもバリバリの現役だが、そのライブの高揚感にはかつて熱かった時代への郷愁も含まれているのではないかとも思う。1994年はロックが盛り上がったラストディケイドがスタートした年なのかもしれない。
文/高田秀之
06/20 11:00
集英社オンライン