グラミー賞7度受賞の世界的ポップスターが自身の名を捨て、男性と女性を融合させたシンボルマークに改名…“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才・プリンス

今から8年前の2016年4月21日、グラミー賞7度受賞、アルバムセールス累計1億枚以上を誇るアーティストが亡くなった。その名はプリンス。日本では“殿下”の愛称で親しまれた、孤高の天才の足跡をたどる。〈サムネイル/左:2019年6月21日リリース『Originals/オリジナルズ』(WARNER MUSIC JAPAN)、右:1992年リリース『The Love Symbol : Prince & The New Power Generation』(Paisley Park Studios)〉

【画像】プリンスとマイケルジャクソンが並んで歌うはずだった曲

ライバルはマイケル・ジャクソンとマドンナだったプリンス

1983年、マイケル・ジャクソンが『スリラー』で世界を席巻していたころ。

マイケルと同い年の二人のアーティストが、翌年の大ブレイクを前に、その魅力をポップミュージックの最前線に浸透させていた。

一人はマンハッタンのダンスフロアを揺るがせていたマドンナ。そしてもう一人は、1982年にリリースされたアルバム『1999』で初のトップ10ヒットを放っていたプリンス。

その妖しげなルックスと独創的なサウンドで異端扱いを受けていたプリンスだったが、開局したばかりのMTVに夢中になっていた若い世代なら、みんなこう思っていた。

「この男はきっと何かをやってくれる」「次で必ず大きく化ける」

19歳でセルフプロデュースデビュー、孤高の天才に起きた事件

プリンスは、1958年6月7日にアメリカの中西部ミネソタ州ミネアポリスで生まれた。両親の離婚などによって孤独な少年時代を過ごすが、彼には音楽があった。

といってもミネアポリスは白人の土地であり、黒人の人口比率はわずか3%。ネットやSNSなどなかった1970年代、プリンスの耳と心は自然にラジオから流れてくるロックミュージックを捉えていく。中でもカルロス・サンタナのギターがお気に入りだった。

1978年4月、19歳の時にアルバム『For You』でワーナーからデビュー。新人としては異例のセルフ・プロデュース権を得て、アレンジ、作詞作曲、歌、演奏すべてを一人でやってのけた(単独多重録音)。

経費削減のためにシンセサイザーを活用してファルセットヴォイスを多用したこの作品は、ヒットこそしなかったものの、早熟の孤高の天才として忘れてはならない原風景となった。

その後、年1枚のペースでアルバムを発表。しかし、ジャンル分けなどできない唯一無比なサウンドに加え、官能的すぎる歌詞やヴィジュアルワークは当時のメインストリームの音楽ファンには理解不能だった。

それを象徴する事件が1981年に起こる。

ローリング・ストーンズの公演の前座に抜擢されて2日間経験するものの、多くの聴衆から大ブーイングを喰らって、空き缶やゴミを投げつけられたのだ。

演奏予定の曲を中断し、開始20分でステージを下りたプリンスは、この時、ステージ裏で呆然と立ち尽くし、屈辱に耐えられずに人知れず涙していたという。

するとこの後、ミック・ジャガーは数万人のオーディエンスに向かってこんな言葉を吐き捨てた。

「プリンスがどんなにスゴい奴か、お前らにはわからないだろう!」

ロックでありニュー・ウェイヴ。ファンクでありR&B。テクノでありポップ。“真のオリジナリティ”を追求し表現しようとするプリンスという音楽。自らのバンドを「ザ・レヴォリューション」と名づけた『1999』から一気に状況が変わっていく。

全米チャート24週連続1位獲得とミュージシャンとしての決心

そしてついにその時がやって来る。一部のヒップな若者たちから支持されていたプリンスは、1984年の『Purple Rain』で世界の頂点に立ったのだ。

革新的な『When Doves Cry』をはじめ、ギタリストとしての類稀な才能が聴こえる『Let's Go Crazy』や大バラードのタイトル曲などが厳選され、ヒットチャートで24週連続ナンバー1を独走して世界中でビッグセールスを樹立。

自伝的要素をたっぷり盛り込んだ同名の初主演映画も公開され、こちらも大ヒット。真のスーパースター誕生の瞬間までを描いたこの物語は、現実のプリンスと見事にシンクロしていた。

また、この時期は同じ黒人スターとして、何かとマイケル・ジャクソンと比較された。それはまるで60年代の優等生ビートルズと不良ストーンズのような位置づけだった。

マイケルにはクインシー・ジョーンズというパートナーがいるが、セルフ・プロデュースのプリンスにはいない。マイケルは寡作家だが、プリンスは多作家。マイケルには本当の兄弟のジャクソンズがいるが、プリンスはザ・タイム、アプロニア6、シーラ・Eといった音楽ファミリーを築く。

このころ、アメリカのスーパースターが一堂に会してチャリティーソング『We are the World』を録音。実はプリンスはマイケルと並んで歌うはずだったが、実現には至らなかった。マイケルが作ったこの曲は、もちろんクインシーがプロデュースすることになっていた。

『Purple Rain』のリリースから10か月後。新作『Around the World in a Day』が突如届けられた。

普通なら大きな成功に酔いしれて数年休養したり、約束されたアルバムをさらに売るためのツアーに明け暮れるだろう。

しかし、プリンスは違った。成功の収益で自らのレーベル「ペイズリー・パーク」や同名のスタジオを設立し、「同じようなアルバムは二度と作りたくない」という美学のもと、ワーカホリックとも揶揄される彼の本当のアーティスト人生はここから始まっていくのだ。

それはプリンスが“エンターテイナーではなくミュージシャン”であろうと決心した証だった。

名前を捨て、男性と女性を融合させたシンボルマークに改名

『Lovesexy』(1988)や『Batman』(1989)をはじめ、プリンスは毎年のように新作を発表し続けた。ライヴやプロデュース業や楽曲提供(バングルズ、シンニード・オコナーなどが有名)をこなしながらという、まさに驚異的な仕事量だ。

1990年代に入ると、ヒップホップ、クラブミュージック、オルタナティヴロックが台頭。80年代的なアーティストやカルチャーが敵対視またはアウトなものになっていく風潮の中で、それでもプリンスは走り続ける。自らのバンドを「ニュー・パワー・ジェネレーション」にして『Diamonds and Pearls』をリリース。

1992年には、ワーナーと破格の1億ドルで6枚のアルバム更新契約を結ぶが、音楽産業の制約やマーケティングに嫌気がさして、1993年にはプリンスという名を捨て去り、男性と女性を融合させたシンボルマークに改名してしまう。

メディアは混乱して、「かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」(The Artist Formerly Known As Prince)と呼ぶことになった。そして翌1994年の『Come』では、クレジットに1958-1993と記して自らを葬った。

魂を操られる奴隷になりたくなかった

ペイズリー・パーク・レーベルの経営危機、昔の仕事仲間たちがワーナーから去ったこともあって、プリンスはこのころを境にメインストリームから外れていく。

しかしそれはシステムから自由と権利を守るためであり、好きな時にレコードが作れて、自分のコントロールでというアーティストとしての美学と信念に基づいた行動だった。

魂を操られる奴隷になるくらいなら、“革新的なインディペンデント”でありたい。

90年代半ばには誰よりも早く、インターネットでファンと自分の音楽をダイレクトに繋げようとしたことも決して忘れてはならない。新聞や雑誌の付録で新作を無料配布したり、ディスカウント店限定で売ったり、コンサート招待チケットをCDに導入したりと、自身の音楽に対する届け方もつねに斬新だった。

愛する子供を亡くしながらも、永遠の愛を誓った妻と離婚しても、男は孤独に闘い続ける。

2000年代には「プリンス」としてカムバック。2004年に『Musicology』でヒットチャートに復帰。ツアーも盛況となりロックの殿堂入りを果たした。2006年は『3121』が17年ぶりのNo.1に輝き、2007年にはスーパーボウルのハーフタイムショーに登場。

プリンスというあり方は、次第に新しい世代にも受け入れられ、再評価も高まってきた。不可解な人種差別事件にもいち早く反応した。音源がアーティストの許諾なしにネット動画などで勝手に流布される事態にも、確固たる姿勢で立ち向かった。

そんな矢先、プリンス逝く。2016年4月21日。享年57歳。

アーティストとしての“自由と権利”を守り貫いた孤高の天才の足跡は、余りにも眩しくて感動的だ。


文/中野充浩 

*参考/『プリンス論』(西寺郷太著/新潮新書)

 

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