森麻季の祈り プッチーニ没後100年に寄せて

ソプラノの森麻季がライフワークとして続けているリサイタル・シリーズ「愛と平和への祈りをこめて」が14年連続14回目を迎える。

「1回目は東日本大震災の半年後。運よく14回も続けてこられています。この公演ではいつも、ちょっとチャレンジして、普段あまり歌っていないけれど『祈り』という趣旨に合うような作品を選んで歌っています。最初からずっと聴いてくださっている方もいらっしゃいますので、なるべくプログラムが重ならないように、たとえばこの数年は周年の作曲家を中心に、毎年がらっと変えていけたらなと考えています」

そう話すように、プログラム前半には、團伊玖磨(生誕100年)の歌曲《ひぐらし》《舟唄(片恋)》、フォーレ(没後100年)の《ピエ・イエズ》(レクイエム)、ミヨー(没後100年)の《神様が護ってくださいますように》と、日本とフランスの、今年がメモリアル・イヤーで話題の作曲家が並ぶ。

「團伊玖磨さんの歌曲は、素敵だと思っていたのですが歌ったことがなくて、今回初めてのチャレンジです。フォーレはこのリサイタルのあと、10月に山田和樹さんとトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の《レクイエム》全曲で共演させていただくこともあって選びました(*)。

ミヨーは、声楽だとあまり取り上げられない作曲家かもしれません。この歌曲はリリー・ポンスというコロラトゥーラ・ソプラノの方のために書かれた作品で、とても可愛い曲です。鳥や花の美しい自然への愛を歌った内容なのでリサイタルの趣旨にも合うと思います。私は若い頃からコンクールで歌ったりしていて、デビューCDにも収録させていただいています」

*編注:トゥールーズ・サン・セルナン大聖堂でのコンサート。山田が音楽監督を務める東京混声合唱団も出演する。

蝶々夫人に初挑戦

森麻季 ⒸKano Hayasaka

そして後半は没後100年のプッチーニをたっぷり聴かせる。《蝶々夫人》《つばめ》《妖精ヴィッリ》。じつは森は今年、オペラ《蝶々夫人》に初挑戦する。6月29日、バーミンガム市交響楽団の2023/24シーズン最後の定期演奏会。5月1日付で同楽団の音楽監督に就任したばかりの山田和樹の指揮で、演奏会形式での全曲上演だ。軽やかなレッジェーロで、いわゆるコロラトゥーラ・ソプラノのレパートリーを中心に活躍してきた彼女にとって、リリコ・スピントのやや重めの声のキャラクターが求められる蝶々夫人は新境地と言える。

「蝶々夫人は、私が歌う役ではないだろうと思っていました。でも年齢とともに発声も少しずつ進化してきて、最近はプッチーニに限らず少しずつリリコなものも歌えるようになってきた実感があります。もちろん、いわゆるドラマティックな太い声ではなく、私の声と表現で。蝶々夫人はもともとの設定が15歳ということもあって、柔らかい繊細な表現が必要なところがかなり多いと思います。そういうものを上手に生かして表現できればなと思っています」

共演するピアニストは厚い信頼を寄せる山岸茂人。

「歌い手って、本番の調子や感じ方次第で、リハーサルとは違う歌い方をすることがあるんですね。そんな時でも山岸さんはピタッと合わせてくれる天才だと思います。言葉では言えない感覚です。こうやるからねとか、打ち合わせなんかしません。だから私はまったく自由に歌わせてもらうことができるんです。このシリーズでもすべて山岸さんに弾いていただいている、貴重な方です」

きっかけは9・11

森麻季 ⒸKano Hayasaka

「愛と平和への祈りをこめて」がスタートしたのは2011年だが、きっかけは2001年のアメリカ同時多発テロ事件にまでさかのぼる。

「9月11日、私はペンタゴンが攻撃を受けたワシントンにいました。ワシントン・ナショナル・オペラの《ホフマン物語》にオランピア役で出演するためで、スミ・ジョーさんとのWキャストで、私が歌うのは9月14日。11日はゲネプロの予定でした。私は朝から部屋で練習していて、日本の母からの電話で事件を知ったんですね。劇場がペンタゴンの隣の駅ということもあり、ゲネプロは中止、街の中心からも避難するようにと連絡がありました。外に出ると、小型戦闘機が低空でビュンビュン飛び交い、警察なのか軍なのか、武装した人がたくさん立っていて、戦争というのはこうやって始まるのかなと怖くなりました。

人の集まる劇場は攻撃の目標になりやすいし、私たち日本人の感覚だと公演は中止ですよね。でも予定どおりにやったんです。いつも明るく冗談ばかり言っている劇場スタッフもさすがに神妙な面持ちで、開演前に、いつもはやらない円陣を組みました。『一人でもお客さんが来てくれるなら、この時間だけでもショッキングな状況を忘れてもらって、楽しんで帰ってもらえるように頑張りましょう』。

そうは言っても、私はお客様は来ないだろうと思っていたんです。私は仕事で来ているわけですから、もし何かあっても仕方のないことだと覚悟していますが、お客様はご自分の安全を優先すればいいわけですから。

ところがほぼ満員のお客様。私の出番が終わるとスタンディング・オベーションで、「芸術が平和を呼ぶように!」と言葉をかけてくださったり、全然知らないお客様から「怖かったけど来て良かった。すごく楽しめた」と言っていただいたり。こちらが勇気を与えなければいけない立場なのに、逆にお客様に勇気をいただいたんです。

それまで私は、高度な技術で良いパフォーマンスをすることが大事で、一方的に演奏を届けるようなイメージで歌っていたのですが、この公演をきっかけに、お客様と時間を共有して一緒に楽しむことで、私たちも幸せな気持ちをいただけるのだということを発見しました。そして、お医者様のように病気を直接治すことはできませんが、音楽にも人の心を軽くするような力はある。お客様と一緒にお祈りするようなことができないかと考えてスタートしたのがこのシリーズです」

自身にテロの恐怖が降りかかる中で実感したという「音楽の力」。自然災害やコロナ禍、戦争……。不幸な現実に直面するたびにいつも、その力を信じたいと私たちは願う。森麻季が音楽に込めた祈りを、私たちも共有したい。

取材・文:宮本明

森麻季 ソプラノ・リサイタル
愛と平和への祈りをこめて Vol.14

■チケット情報
https://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b2450812

9月16日(月・祝) 14:00開演
東京オペラシティ コンサートホール

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