星田英利、「自分は脇の人間」と自覚してから気が楽に 小説執筆の理由や目標を持たない生き方も語る

●“死”がよぎったコロナ禍に小説を執筆
表現者として幅広く活動している星田英利が、自身初となる小説『くちを失くした蝶』を9月3日に上梓し、小説家デビューを果たす。お笑い芸人・ほっしゃん。として活躍し、『R-1ぐらんぷり』優勝など輝かしい実績を残しつつ、現在は俳優業に中心に活動している星田が、小説を執筆した理由とは――。

小説『くちを失くした蝶』は、貧困、ネグレクト、いじめなど幼い頃から心と体を削られてきた女子高生のミコトが、逃げることができない現実に絶望し、自ら命を絶つことを決意したことから始まる物語だ。

星田は執筆のきっかけについて「小学校のときから、読書感想文が褒められたりするなど『書いてみたら?』と言われることが多かったんです」と振り返り、「この仕事をするようになっても、仲のいい番組プロデューサーに『いつか絶対書きなよ』と言われていました」と潜在的に心のなかに“モノを書く”という表現方法があったという。

それでも「文章の書き方を習っていたわけでもなく、なかなか書き始めることへのハードルが高かった」という。そんななか直面したのがコロナ禍だ。

「外に出られないし、経済的にも精神的にも追い詰められました。僕は単身赴任なので、家族とも会えないし、本当に“死”みたいなこともよぎったんですよね。そこから逃げるためにどうしたらいいのか……と考えたとき、何かをしないと“死”に食いつかれてしまいそうだった。それが書くことだったんです。半ば遺書みたいな感じ。家族や子供へのメッセージみたいな……」。

物語に出てくるエピソードなどは完全なるフィクションであり、誰かをモデルにしたものではない。ただ登場人物が発する言葉や思いは星田自身そのものだという。「登場人物は全部僕。僕だったらこういうことを言うだろうな……という発想で書いています」。

自らの命を救うために書いた物語。こうして出版されるなどということは、まったく考えにはなかった。「ストーリーも考えずにただ書き始めているので、辻褄が合わなかったら戻って直して……という作業で、誰かの目に届けようなんて思いはなかったんです」。

だからこそ、書き終わることが怖かったという。星田は「書き終わったら死んでしまうのかな……という思いはありました。だから同時進行で別のものも書いていたんです」と綴ることが生きることだったと振り返ると「そんな感じの作品がこうして世に出るというのは不思議な感じでもあります。もちろんうれしいですけれどね。夢みたいな話ですよ」としみじみ語る。

一方で“出版して売る”という発想がなかったからこそ葛藤もあった。「本当は僕の名前を出さずに読んでほしかったんです。何のフィルターもなくただ読んで欲しかった」と胸の内を明かし、「でも版元さんがついて商業としてのラインに乗るわけで……。名もなき人物がいきなり出しても、誰も取り上げてくれないじゃないですか。こうして取材をしていただけるのも、一応僕の名前を出しているからで……。でも最後までそこは葛藤がありました」と語る。

○書くことで「改めて自分は“表現者”なんだなと思った」

芸人として輝かしい実績を持つ星田。自身のコントや一人芝居では作、演出、出演など幅広い表現方法に挑んでいる。そんななか「モノを書く」という行為は、何か新たな発見があったのだろうか――。

「改めて自分は“表現者”なんだなと思いました。書くことも表現の一環であり、一つ楽しみが増えたということなのかもしれません。世間からどう見られるかというのは、僕にはどうでもいいこと。小説家って言われたらうれしいですけれども、そこに何かこだわりみたいなものはないんです」。

自身を「表現者」というが「何かを伝えよう」と思ってはいけないという。星田は「こちらから何かを伝えようと発信が強くなってしまうと、受ける側はしんどくなると思う。特にいまの若い子は敏感なので」と語ると「もちろんそういう作品も大切だと思う。僕も『シンドラーのリスト』とか大好きなので。でもいまはテーマを前に出すのではなくて、自由に受け取ってもらいたい」と自身のスタンスを述べる。

子供たちに自由に受け取ってもらい、自由に選択してもらう。そういう発想になっていったのは、子供を持ってからだという。

「もう子供が生まれた時点で、次の世代にバトンを渡した感覚。自分の時代ではない。間借りさせてもらっている意識があるんです。でも若い子たちが未来に希望が持てず死を選んでしまうのって大人の責任。だからこそ、僕らは若い子たちに自由に感じ取ってもらえるような世界を作らなければいけないと思うんです」。

●脇役が魅力的な作品に惹かれて役者の世界に

もう一つ、星田には大きな変化があったという。星田は「僕は自分がスターとか先頭にいる人間じゃなく、サブなんだと自覚した出来事がありました」と話し出すと「平泉成さんと作品でご一緒した際、その時僕は初めましてだったのですが『脇役ってすごいんだよ』と僕に脇役論を話してくださったんです。もちろん自分でも自覚はあったのですが、やっぱりみんなトップを目指してこの世界に入ってくる人って多いと思うし、どこか僕もそうだったと思うんです。でもそのとき『やっぱり自分は脇の人間なんだな』と思ったんです」。

そう考え方が変わったとき「少し気が楽になりましたね」と語った星田。「お笑いをやっていたときから、別に自分はメインの人間ではないとは分かっていました。その意味で言えば、映画やドラマって脇がしっかり描かれている作品って面白いじゃないですか。それで役者の世界に肩入れしていったところもあったんです」。

星田自身も脇役が魅力的に描かれている脚本が好きだという。『くちを失くした蝶』もしっかりと登場人物を描いた。「頑張っているのにうまくいかない。一番頑張っている人間が、必ず報われるわけではない。そんな思いを書きたかったんです」。
○目標は持たず「あまり欲も持たないように」

8月6日に53歳を迎えた星田。執筆という表現方法を得たが「僕のなかでは、いますぐ死ぬかもしれないという意識がずっとあるんです」と語る。だからと言って「後悔せずに毎日を一生懸命に生きよう」という発想が大嫌いだという。

「言うなれば、後悔ばかりで地縛霊になるぐらい普通に生きようと。目標も持たない。目標決めて達成したら死んでしまうかもしれないと思うんです。だからこそあまり欲も持たないようにしています」。

そんな星田だが、一つだけ大きな夢があるという。それは本国のアカデミー賞で助演男優賞をとること。「まあ欲というか、絶対達成できないから」と笑うと「手が届かないでしょ。本能的に分かる。叶わないからこそ言える。もし受賞したら、授賞式で首を掻っ切って死ぬんちゃいますかね」とおどける。

「とにかくドラマチックに生きることが恥ずかしいんです」と語った星田。「どこか死んでも残らないような人生……。その意味で本と言うのは、何千年も先に残る可能性があるので、光栄なことなのですが……」といろいろな自己矛盾があることを理解しつつも、肩肘張らずに進んでいくことを誓っていた。

■星田英利
1971年8月6日生まれ、大阪府出身。1990年にNSC大阪校に入学。1991年に同期の宮川大輔とお笑いコンビ・チュパチャップスを結成。1999年に解散し、ピン芸人として活動開始。2005年に「第3回R-1ぐらんぷり」で優勝。2014年に芸名をほっしゃん。から本名の星田英利に改名し、以降、俳優としてドラマ、映画、舞台等、幅広い分野で活躍している。

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