『塔の上のラプンツェル』悪役のゴーテルに「愛」はあったのか。5つのポイントから考察

『塔の上のラプンツェル』でよく議論されるのは、悪役のゴーテルの解釈です。彼女にはラプンツェルへの愛があったのか? 5つのポイントから考察しましょう。(※サムネイル画像出典:ディズニー公式X @disneyjpより)

2024年月10月11日、『金曜ロードショー』(日本テレビ系)にて、『塔の上のラプンツェル』が放送されます。

グリム童話の『ラプンツェル(髪長姫)』を原作とした本作は、ディズニー長編アニメの第50作目にして、初めて全面的に3Dを取り入れたディズニープリンセスの映画でもある、記念碑的な作品です。

原作からの大胆なアレンジも魅力的な内容に

『塔の上のラプンツェル』は、原作では王子さまと塔の上にある部屋で逢瀬を重ねるところを、キザでお調子者な泥棒と一緒に冒険する活劇に改変するなど、大胆なアレンジも特徴的です。

映像表現も高く評価されており、あっと驚くアクションシーンも見どころ。時には悩み苦しみ塞ぎ込むことがあっても、主体的に行動し成長する主人公像は、後の超大ヒット作『アナと雪の女王』にも通じています。そんな『塔の上のラプンツェル』の中でも、特に奥深いキャラクターとして語られているのは、マザー・ゴーテルです。客観的には赤ちゃんのラプンツェルを誘拐し、18年も幽閉していた悪人中の悪人ですが、彼女の本質について「ラプンツェルへの愛もあったのでは?」「いいや、彼女は自身の若さを保つための、魔法の力の持つ髪の毛しか求めていない」などと議論されているのです。

ゴーテルの心理は「受け手が自由に解釈できる」ことを前提として、本編中および、関連作品には限りなく答えに近いヒント(あるいは答えそのもの)も描かれていたと思います。そのポイントを5つに絞って紹介しましょう。

ここからは映画本編のネタバレを多分に含むほか、記事後半の警告後には関連作品の一部内容またはネタバレにも触れているのでご注意ください。

※以下より映画『塔の上のラプンツェル』本編のネタバレに触れています。

1:ゴーテルの愛は「髪の毛にだけ」表れているように見える

筆者個人の結論から言ってしまいますが、ゴーテルが愛していたのはやはり魔法の力を持つ髪の毛だけ、そのためにラプンツェル本人を心理的に支配し操っているだけにすぎない、と感じてしまう描写が多いです。

その根拠の1つとして、ゴーテルが愛を表現するときは、その愛がラプンツェル本人ではなく、髪の毛へと物理的に向けられているように見えることが挙げられます。

例えば、ラプンツェルが欲しいと願う絵の具のために3日もかかる場所へと行く時、ゴーテルは「ちゃんと1人で待っていられるの?」と聞きつつ抱きしめますが、その時になでているのも、キスをするのも髪の毛なのです。

さらには、「あなたを守るためなのよ」と歌っている場面では、露骨なほどに髪の毛を顔に近づけて、頬でもなでていました。その後も、ラプンツェルに再会したゴーテルは「反抗と裏切りの匂いがぷんぷんしたの」と言いつつその髪をなでていましたし、「お母さまの言う通りだった」と絶望のままに抱きついてきたラプンツェルに対しても、やはりゴーテルは髪の毛をなでているのです。

2:ユージーンは髪の毛ではなくラプンツェル自身を見ていた

もちろん、それらだけでは「髪の毛だけでなくラプンツェル本人も含めてなでている、愛しているとも言えるのでは?」とも思えますが、その対(つい)となる愛の表現の場面が劇中にはあります。

それは、ユージーンと共に湖に浮かぶ小舟の上で、たくさんのランタンの下で「大事な人(原語ではNow that I see you、今私があなたを見ている)」と歌った時……ユージーンはラプンツェルの目に少しだけかかっていた髪の毛をはらって、彼女の目が見えるようにしているのです。
他にも、ゴーテルはラプンツェルのことを「花のようにか弱いんだから(as fragile as a flower)」と歌っています。これは“たとえ”ではなく、文字通り、もともと魔法の力を持つ花であった髪の毛の「代用」のようにラプンツェルを見ているとも解釈できます。

そもそも、ゴーテルは物語の冒頭で城に忍び込んだ時から、ラプンツェルの髪の毛を切っていました。その時に髪の毛を切ると魔法の力が失われてしまったため、仕方がなく赤ちゃんごと連れ帰った、と見える描写にもなっています。

一方で、ユージーンは塔の上の部屋でラプンツェルに縛られた時、魔法の力を持つ髪の毛のことをそもそも知らないこともあって「なんでそんなもの(髪の毛)を欲しがるんだ!」と声を荒げていたこともありました。

髪の毛だけに愛を注いでいるようにも思えるゴーテルと、髪の毛ではなくラプンツェルという「その人」を見ようとしているユージーン……物語の発端や全体的な流れからしても、その違いはかなり大きいと思うのです。

3:ゴーテルのあまりに支配的な言動

ゴーテルの言動は支配的です。その1つがラプンツェルの罪悪感を利用していること。「もうやだ、私が悪者ってわけね」といった物言いからして、問題をラプンツェルに帰結させようとする、本質的に「私は悪くないわよ」と訴えるような、とても卑怯なものに思えます。

さらに、ゴーテルはラプンツェルを「赤ちゃん」のように扱っているところもあります。吹き替え版では表現されていませんでしたが、ゴーテルがラプンツェルに「I wuv you」と歌ってもいました。「Wuv you」とは「Love you」の舌ったらずな言い方で、「大好きでちゅ」的な“赤ちゃん語”の表現。ゴーテルにとっては、ラプンツェルが成長しない、何も知らない子どものままの方が都合がいいのでしょう。

一方で、ゴーテルは「じゃあなぜこんなに(髪の毛で部屋まで持ち上げる)時間がかかるの?」と言いつつ、ラプンツェルの鼻をツンツンと触る場面もありました。ゴーテルがラプンツェルの成長を望むのは、「自分のためになることだけ」なのだという、エゴイズムをそこはかとなく感じさせます。

その支配的な感情が最も表れているのは、「母は何でも知っている(Mother knows best)」と歌っていることです。この「知っていること」とは、ラプンツェルにとってはさんざん忠告を受けていた「外が危ないこと」や「塔が安全」なのかもしれませんが、本当は「お前が知らないこと(例えばラプンツェルがお姫様であること)も私は知っているんだ」ということをも、暗に示していたのかもしれないのです。

※以下、小説『ディズニー みんなが知らない塔の上のラプンツェル ゴーテル ママはいちばんの味方』の内容の一部に触れています。

4:「外伝」小説で示された過去と心理も

公式の「外伝」小説に『ディズニー みんなが知らない塔の上のラプンツェル ゴーテル ママはいちばんの味方』(講談社KK文庫)があります。

本編や後述するテレビシリーズとの矛盾もいくつかあるため、本書をゴーテルの絶対的な解釈とするには抵抗もあるのですが、ゴーテルの過去と、ラプンツェルがさらわれてから18歳になるまでにあったこと、さらには本編の物語の別視点など、それぞれの深掘りが面白い内容となっていました。

特にゴーテルの幼少期の描写は、ふりがなが振られた児童向けの作品とは思えないほどに、かなりハードでダークです。あまりに支配的かつ身勝手なひどい母親を持ち、さらには好きだった2人の姉たちを生き返らせようと決意する過程がかわいそうな反面で、彼女の心理がゆがんでいくことがはっきりと示されているのです。

特に衝撃的なのは、ゴーテルが「ラプンツェルの父親の兵隊たちが、私の王国をめちゃめちゃにした」ことを建前に、「もし私の母が生きていたら、この子の父親の王国を破壊していたに違いない。私はこの子をさらうだけでがまんした。ありがたいと思ってもらわなくちゃ」と、自己正当化がはなはだしい理屈を話す場面でした。

さらには、ゴーテルにとってラプンツェルは自身の「財産」の1つであり「手段」でもあること、もともとラプンツェルを「人間とは思っていない」ことさえもはっきりと描かれています。

本編とは違い、魔法の花の力が必要だったのは、ゴーテル自身が永遠の若さを保つだけでなく、好きな2人の姉を生きらせるためでもあった、という解釈が付け加えられていることもあって、ゴーテルのエゴイズム(あるいはラプンツェルにはなかった2人の姉への愛)がより切なくなる内容でもあったのです。

※以下より、『ラプンツェル ザ・シリーズ シーズン3/さらなる力』の第1話のネタバレに触れています。ご注意ください。

5:ゴーテルの本当の娘とは

Disney+(ディズニープラス)では『ラプンツェル ザ・シリーズ』という映画の「その後」を描くアニメが配信されています。こちらは映画本編にはいない、「カサンドラ」というキャラクターがとても魅力的な作品で、お姫様(ラプンツェル)の侍女にして親友という立ち位置から実写映画版『アラジン』の「ダリア」を連想する人も多いでしょう。

そんなカサンドラの衝撃的な過去が明かされたのは、シーズン3の第1話。ゴーテルの本当の娘がカサンドラであることが明らかとなり、それを知ったラプンツェルはカサンドラに、同じ母親に育てられたことから、侍女や親友を超えて「姉妹のようなもの」とも告げるのです。

その過去では、カサンドラがお城へ向かうゴーテルについていこうとするのですが、「いいえだめよ、あなたのお家はここよ」「そうやってふくれないで、本当に悪い子ね」と返されます。やはり、優しい言い方をしているようで、問題を子どもに転嫁しているようないやらしさを感じさせます。さらに、ゴーテルはカサンドラのお願いを素直に聞いてオルゴールを回してあげるのですが、そのオルゴールを渡す時に一瞬だけイヤそうな顔をするのです。

ゴーテルは本当の娘でさえもあっさりと捨てたというだけでなく、さらった子どものラプンツェルにも同じように接していたと分かります。その後にラプンツェルとカサンドラがどうなるのかは秘密にしておきますが、それぞれの心理もまた切なく苦しいものがあることは告げておきましょう。

まとめ:愛とはその人の認識次第なのかもしれない

ゴーテルというキャラクターからは、そもそも愛とは何であるのかという、根源的な問いも投げ掛けられているようにさえ思えます。

例えば、その人を利用しているだけの行動であっても、それを愛と信じれば愛になるし、利用されていると思えば利用されているだけになるのではないか、といったように……この映画を見ている観客およびラプンツェルという「受け手」側の認識次第なのではないか、とも考えられるのです。

もちろん、いかなる理由があろうとも他人の子どもを誘拐して幽閉して育てている時点で、やはりそれは愛などではない、というのは正論中の正論です。

その上で、もちろんゴーテルにはラプンツェルへの愛があった、という解釈ももちろんできます。原語のゴーテルの声優を務めたドナ・マーフィーもまた、「初めこそ私利私欲のためであったとしても、ゴーテルにはラプンツェルへのある種の愛が育まれている」といった分析をしており、そちらに同意できる人もいるでしょう。

ぜひそれぞれの解釈で、さらに『塔の上のラプンツェル』の物語を楽しんでみてください。

この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「CINEMAS+」「女子SPA!」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。
(文:ヒナタカ)

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