『旅サラダ』卒業の神田正輝が盟友・若林豪に明かしていた「体調」「パートナー女性」「沙也加さんへの想い」《サスペンスドラマ『赤い霊柩車』で共演30年》

若林豪さんにインタビュー

 2時間ドラマが次々と打ち切りになり、ミステリー好きは「見たいドラマが少なくなった」と嘆いているのではないか。昨年は山村美紗サスペンスドラマ『赤い霊柩車』シリーズ(フジテレビ系)が、多くの人に惜しまれつつ終了し、31年の歴史に幕を閉じた。同作品中で渋いながらも、ひょうひょうとした性格の狩矢荘助警部を演じていたのが若林豪さん(85)だ。9月末で『旅サラダ』を卒業する神田正輝とは『赤い霊柩車』シリーズで30年近く共演。若林さんが当時を振り返った──。【前後編の前編】

【写真】現在85歳の若林豪さんの姿ほか

 * * *
『赤い霊柩車』シリーズは原作の山村美紗先生が、狩矢警部役はぜひ私に、と希望してくださったそうです。私じゃないならドラマ化しない、とまで言ってくださったとか。それぐらいでしたから、シリーズ開始当初は狩矢警部が主人公のあっこさん(石原明子、片平なぎさ扮)と競って出番もセリフも多くて大変だったんです。私が一番、NGを出していましたね。

 1作品の撮影期間は全部で20日間くらい。当初は京都で撮影していました。みんなで同じホテルに泊まり、撮影が終わった後、ご飯食べに行ったりもしました。だんだん、京都で撮るのは東寺とか産寧坂(三年坂)とか肝心な京都らしい画(え)が必要なときだけになり、3日間くらいでまとめて撮っていました。室内のシーンは、東京・府中の中河原にあった府中多摩スタジオなどで撮影していました。

『十津川警部シリーズ』(TBS系)の十津川警部役もやりましたから、『赤い霊柩車』と合わせて全国あちこち行って、旅はもうお腹いっぱいになりました。ロケ現場というのはよほど綺麗なところか、汚いところか、の2つなんですよ。『赤い霊柩車』のチームワークはよかったと思います。いろんなタイプの役者がいて、贅沢な現場でした。神田(正輝)クンが演じた、あっこさんの相手役の黒沢春彦役は、最初は別の俳優が演じていたんですよ。美木良介クン、その次が国広富之クンでした。

 代わったのはプロデューサーのイメージと違ったからなのかもしれない。神田クンになってようやく役が落ち着きました。神田クンは台本通りにきちんと演じる役者ですね。性格はおとなしくて、わりかし几帳面だと思います。博識でいつも蘊蓄(うんちく)をあれこれ披露するもんだから、なぎちゃん(片平なぎさ)が「また出た」なんてからかっていました(笑)。

 神田クンとは京都で撮影のときに、街へ何度か飲みに出ました。私は飲めないから、グラスに注いでいで話しているだけですけど、神田クンはビールやワインを飲んでたかな。彼は紳士だから上品な酒でしたね。まあ、彼の所属事務所・石原プロの人も一緒だったから、あまり腹を割って話したり、バカ話をしたり、乱れたりするわけにもいかなかったのでしょう。

最後はジジイ、ババアばかりになった『赤い霊柩車』

『赤い霊柩車』シリーズは楽しかったけど、長く続きすぎましたね。それだけ視聴者の反応がよかったということでしょうけど、贅沢を言うようだけれども、出演者は最後はジジイ、ババアばっかりになっちゃいました。

 最後の作品の4、5本は、私はいくら台本を読んでもセリフが入らなくて(覚えられなくて)、減らしてもらっていました。なぎちゃんに「セリフが出てこなかったらごめんね」と言うと、「私こそ、ですよ」なんて言っていましたけど、レベルが違う(笑)。私はどんなにがんばっても出てこない。なぎちゃんは長~いセリフを正確にやりますから。そのうえ、台本を持たないでやるんですから、立派ですよ。

 一度、真似して台本を持っていかなかったら、セリフが頭から抜けちゃって。大村崑ちゃんの台本をこっそり拝借して、確認した後、そばにあった松の木の根っこの下にポンと投げ入れて隠しました。そしたら、崑ちゃんはちゃんと見ていたんですねぇ(笑)。飛んできて「ちょっと! 今、僕の台本を捨てたでしょ。何するんですか!」って怒るから、「捨てたんじゃない、置いただけだよ」って(笑)。

 それにしても崑ちゃんはカメラが回っていないときも、よくしゃべる。あまりよくしゃべるから、「少し休んだら」って言いたくなるくらい(笑)。本番ではアドリブが多くて、突然、変なことをするから、笑っちゃって。崑ちゃんは昔、大阪でコメディドラマ『番頭はんと丁稚どん』や司会で鍛えていますから、ほかの人とは力量が違う。90歳過ぎてもあまりにも元気だから、「まだ生きてるのか?」なんて、会うたびに軽口を言っていました(笑)。

 みんな最初は若かった。(山村)紅葉ちゃんも若くてね。彼女とは『赤い霊柩車』の前に『十津川警部』をやってたときが初共演でした。当時、紅葉ちゃんはまだ大学生。一緒に夜行で、ロケ地の和歌山かどこかへ行ったときに挨拶を受けました。「元気でがんばれな」と応えた記憶があります。彼女は頭のいい子ですよ。

 原作者の山村美紗先生が1996年に亡くなったとき、仕事の後、夜中12時頃に車を運転し女房と一緒にお宅へ伺いました。紅葉ちゃんと、その妹の真冬ちゃんとがいて、山村先生は綺麗な赤い着物を着て安らかな表情で眠っていました。その時に、ちょうど山村先生原作のドラマが放送されていたから、「先生に見せよう」って言って、テレビの前まで先生が寝ている布団を引っ張って行って、上半身を起こして見せてあげたんです。山村先生と親しかった西村京太郎先生も呼んできてね。忘れられない思い出です。

神田クンの現在のパートナーは「綺麗な方でした」

 神田クンが長年司会を務める『朝だ!生です旅サラダ』(テレビ朝日系)に、私は3回くらい出演したことがあります。神田クンが呼んでくれたんでしょうね。彼があるときから元気がなかったから、「病気か?」と聞いたら、「いやいや」と言っていたんです。入院していたとは知らなくて、見舞いには行けませんでした。退院した後に聞いて、のちに電話で話しました。

 詳しい病名などを公表しないのは、騒がれるのが嫌なんでしょう。彼は松田聖子ちゃんと結婚したとき、さんざんマスコミに騒がれたから。1つ話すと、マスコミはもっと、もっと、と聞きにくる。だから、最初から何もしゃべらない、静かにしてる、と決めているんじゃないかな。賢いと思いますよ。

 神田クンはイイ男だから、聖子ちゃんと別れた後ももちろん女性はいたでしょうけど、再婚しなかったのは、やはりマスコミが原因でしょう。うまくいっていても書かれるし、ケンカしても書かれる。今のパートナーの女性に、お会いして紹介されたこともありますよ。もちろん綺麗な女性です。

 娘の沙也加ちゃんとは、舞台で共演したことがありました。2014年5月、博多座の『コロッケ薫風喜劇公演』という楽しい作品で、彼女は私の孫娘の役でした。神田クンには「娘をよろしくね」と言われました。聖子ちゃんは福岡まで観に来ていたのに、共演者のところへ挨拶には来ませんでしたね。やっぱり注目を集めてしまうのが嫌だったのかな。

 沙也加ちゃんは両親の良い所をとって、芝居も上手いし歌も上手かった。何回か一緒に食事に行きましたけど、性格も明るくてキャッキャ、キャッキャ笑って楽しそうにしてたのに。なんで死ななきゃならなかったのか……。もったいない。亡くなったとき、テレビで神田クンを見るのはつらかったですね。『旅サラダ』を卒業する神田クンには、長い間お疲れ様でしたと言葉を掛けてあげたい。そして、いつまでも若々しく……と。

後編に続く

◆取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/村上庄吾

ジャンルで探す