錦織一清「若い頃の自分は大嫌い…」見てくれよりカッコいい生きざまを選んでいきたい

80年代を代表するアイドル・少年隊のリーダーとして絶大なる人気を誇った錦織一清。1985年12月のデビュー以来、多くのヒット曲を放ち、20代は芸能界のど真ん中を突っ走った。そして、30代からは舞台にウエートを置き、数々の作品に出演。近年は演出家としても多くの作品を手掛け高評価を得ている。

2022年に独立し、さらに精力的に舞台制作や演出を手掛ける一方、昨年からは盟友・パパイヤ鈴木と組んだユニット「Funky Diamond 18」では、“ニッキがニッキらしいパフォーマンス”を披露する唯一の場もでき、往年のファンを魅了させている。ますます意欲的な活動ぶりだが、長い芸能生活、壁にぶつかる土壇場も経験してきたはず。キラキラの裏側にあった、表現者としての本音を語る!

▲俺のクランチ 第67回-錦織一清-

ヨッちゃんに“そそのかされて”定時制高校へ

錦織が少年隊としてデビューしたのは、1985年の20歳のときだ。10代は当時、所属していた事務所の研修生として、先輩たちのバックダンサーを努めていた。

「10代の頃はとにかく体が資本。1日ですごい曲数の振り付けを覚えなきゃいけなかったから、朝から晩まで踊ってました。今はコンプライアンスがしっかりしているけど、当時は夜遅くまで働いてね。もう時効だろうけど、明け方にタクシーチケットをもらって帰ることもありました」

そんな日々のなかで、定時制高校にも通った。ハードワークゆえに中退したものの、パパイヤ鈴木という今に至る友とは、そこで出会った。

「芸能コースがあるわけでもない、普通の定時制でした。芸能界なんて仕事は夜のほうが多いのに、なぜ仕事に行けない時間に授業がある定時制に通っているのかわからない(笑)。でも、なんでその学校に編入したかというと、ヨッちゃん(野村義男)に“学費が安いぞ”とそそのかされたんです(笑)」

▲パパイヤ鈴木は高校のクラスメイトだ

1985年、20歳のときに少年隊としてデビュー。記念すべき1枚目のシングル『仮面舞踏会』はチャートで1位を獲得し、以降もヒット曲を連発した。デビューしてからの悩みもまた、忙しさだったという。

「とにかく歌番組が多い時代だったからね。生放送の番組がない日には、テレビ局に溜め撮りをしに行くんです。1日に7番組分くらい、衣裳を変えて歌って踊るの。そんなんだから、自分がなんの番組に出てるかわからなくなりますよね(笑)。で、ちょっとでも隙間があれば、帯でやっていたラジオ番組の収録が入ってきて……」

彼らの人気の理由は、カッコいいルックスだけでなく、キレのあるダンス。しかし、意外にも本人は、そのパフォーマンスにコンプレックスを抱えていたという。

「歌も踊りも、もっと上手い人たちが周りにいるんです。だから、いつもコンプレックスと戦っていたな。僕よりも上手い人たちに、ちょっとでも追いつきたくて練習をしてました。バックダンサーよりも下手だったら、みっともないと思っていたしね」

以前、当企画のインタビューで、パパイヤ鈴木が錦織は「ストリートダンスのオーソリティー」だと明かしていたが、少年隊はジャズダンスが振り付けの主流。そのギャップには悩まなかったのか。

「仕事は仕事で楽しんで踊ってました。今はシアター系と言ってるけど、当時、テレビやメディアに出てくるメジャーシーンの人たちの踊りって、まだジャズの時代でね。僕らも最初の踊りの先生は西野バレエ団にいた方で、モダンジャズの振り付けでした。

日本にはストリートダンスの文化はそこまで入ってきていなくて、映画の『ブレイクダンス』(1984)で、やっと路上でダンスをするシーンを目にした人が多かったんじゃないかな。しかも、日本の公開って、本国のアメリカより1年は遅ったからね」

遊びに真剣に努力する大人ってカッコいい

錦織は自身の置かれた環境から、70年代後半の中学生にして、ストリート系のダンスに触れていたという。

「僕らが10代の頃はディスコダンスと言ってました。忙しい合間を縫ってよくディスコに行っていて(笑)。そこにはカッコいい人がいたんです。当時、ひとつのディスコに、一人は踊れる人がいたんですよ。

普段はカウンターでドリンクを作っているんだけど、いい曲がかかるとフロアに出てきて踊るの。それを見てすごいなって。“さっきのダンス、手をどうやって動かしていたのかな?”って、こっそりトイレの鏡の前でマネしたりして」

そもそも、ディスコ系のダンスに初めて触れたのは、事務所の先輩・川崎麻世のバックダンサーの踊りだという。

「ある日、いつものジャズダンスのレッスンのあとに、ラジカセを持ったアフロヘアのいかつい男たちが入ってきたんです。ラジカセで曲をかけて“リズムを取る練習!”って、レッスンが始まって。彼らがものすごく上手くてビックリ!。それがジャPAニーズ。僕が中学のときにが結成されたんです。

作曲家のいずみたくさんが、アトリエ・フォンティーヌという小劇場を持っていて、そこで今でいうショーケースのようなものがあって、ジャPAニーズのダンスを僕も間近で見たんです。その踊りがすごいんです。バンバン飛ぶし、ロボットダンスも踊るし、どれも見たことのないダンス! すごく刺激を受けました」

最先端のダンスに触れるにつれ、自身もダンスのスキルに磨きをかけた。

「なんで頑張ったかというと、子どもの頃のメンコやベーゴマの延長なんです。僕は下町育ちだから遊びが上手な子をカッコいい! と思っちゃう。その感覚で、自分も同じように踊りたいと頑張ったんです。遊びに真剣に努力する大人ってカッコいいなって、今でも思います。どこか少年っぽい人が好き。パパイヤ鈴木もそうですしね」

まさかバンダナを巻いて歌って踊るとはね(笑)

少年隊といえば、1986年から23年もの長きにわたって続いたミュージカル『PLAYZONE』シリーズも記憶に残る。錦織が演出家として初めて手掛けたのも、1995年の『PLAYZONE』だった。

「『PLAYZONE』は毎年、夏に公演があるんだけど、打ち合わせは年明けてすぐの1月なんです。だから、1年やって、またすぐ次の公演が来るって感覚でした。初日を迎えた途端、“来年は何やる?”って事務所の人に聞かれるのがイヤでね(笑)。裏方的なことについて僕はうるさかったと思います。演出家の方ともよく話してましたし、“ここやってよ”って頼まれることもあったし。アイデアの持ち寄りみたいな感じでした」

“実際に自分が演じてみせる”という錦織の今の演出スタイルは、この『PLAYZONE』での経験が原点だった。

「当時、事務所の人を納得させるのに、実際に演じてみないと理屈ではわかってもらえないんです。それで“このセリフはおかしいから、こんなふうに変えるよ”とやって見せていたんです。そのほうがわかりやすいから」

当時は、ここまで舞台演出に深く関わるとは思っていなかったそう。なぜなら……夢は「映画俳優だった」と告白してくれた。

「フィルムが好きなんです。映画も何本かやりましたけど、なかなか扉は開きませんでした。だから、夢破れた感はあるかもしれない。でも、そういう人って多いと思いますよ。

昔、ゲーム雑誌で対談の連載を持っていて、そこで『メタルギアソリッド』を手掛けたゲームクリエイターの小島秀夫さんとお話をする機会があったんです。彼も当初は映画の脚本家になりたかったそうですが、ゲームを作り、映画化のオファーがハリウッドから来るようになった。人生、そういうものかと思いました」

研修生時代には、子役として教育映画の『さようなら ぼくの犬ロッキー』という作品にも出演経験がある。

「始まりが役者だったから、自分がバンダナを巻いて歌って踊るとは思ってなかったんです。叔父が、日活所属の俳優だったこともあったし、俳優に憧れもあった。映画『蒲田行進曲』を見て、さらにその気持ちが強くなりました。どちらかというと好みが泥くさいんです。

いまだに一番好きな映画は『ディア・ハンター』。だから、白馬にまたがった王子様を世の女性が理想にしているとは思えなくて……。ひび割れた手で、海で馬を洗っているおじさんのほうが男らしく見えるんです」

少年隊として映画出演の経験もあるが、「もっとストーリーを深いものにすればいいのに」とも思っていたという。

「映画といっても、曲のプロモーションの一環だったと思います。まあ、当時は生意気だったんでしょうね。大人に反発したかったのかな? 素直じゃなかったんです。だから、僕は若い頃の自分が大嫌いなんです。

今のほうが、年齢を洋服に例えると、40歳を過ぎたあたりから自分の着心地が良くなってきました。洗濯を何回もしたシャツのように体に馴染んできた。それは歌もそうです。Funky Diamond 18のレコーディングをしながら、やっぱり年齢を重ねないと“歌は歌にならないな”と感じます」

あれだけトップチャートを飾ったヒット曲を持ちながらも、本人がそう感じているとは……。ここまで錦織の話を聞いて、若かりし彼がキラキラしている舞台に立ち、歓声を浴びていた当時、テレビから見ていた姿の影には、トップスターだからこその土壇場の崖ギリギリを歩んできたことがわかった。

「当時の評価は、歌そのものの評価かどうか……わからないなって。グリコのおまけようなものというか……。それを一番わかっていたのが、当時の事務所なんです。だから、素直な気持ちで一生懸命おまけを作ろうとするんですが、僕自身はおいしいキャラメルを作りたい。だから、意見がぶつかるんです」

その考えは今の舞台制作、演出においても変わらない。「やっぱり、おまけよりおいしいキャラメルを作りたい」と話す。

「“何をアーティストみたいなことを言ってるんだ”と言われることもあります。でも、僕は自分の作る舞台では、キャスティングありきの作品にはしたくない。ドリーマーなので(笑)。『がんばれ! ベアーズ』とか『アパッチ野球軍』みたいに、“このメンバーで頑張ろう!”っていうほうが楽しいんだよね。挑戦者でありたいんです」

好きなことができることへの感謝を大事にしたい

2022年に独立し、自身の事務所アンクル・シナモンを設立した際には「少年を卒業しておじさんになります」と宣言。

「グループだと主張を抑えなきゃいけないから。もちろん、それはそれでうまくやっていたけれど、今はやることを自分で選べますから。やりたくないことはやらなくていいんだから、こんないいことないです(笑)。

もちろん、どこに行ったって、やりたいようにはできないですけど、好きなことができることへの感謝があれば、人を思いやれるし、許せるようにもなる。カッコつけさせてもらうなら、バンダナを巻くような見てくれよりも、カッコいい生きざまを選びたいんだよね」

やりたいことができる状況にいる今、「愚痴を言うまいと思っている」とも話す。

「自分で選んだことだったら、結果がどうあれ仕方ない。だから、自分が気に入って好きになった人間だったら、たとえ金をだまし取られても文句を言わない。……なんて、こんなこと言ってる俺にこそ、だまされちゃいけないですよ(笑)。“カッコいい洋服なんか着なくたっていい。中身がよきゃあ”なんて言ってるヤツこそ、一番カッコつけしいですから」

▲自分で選んだことには愚痴を言わないようにね

10月16日(水)には、Funky Diamond 18の2ndアルバム『PLATONIX』をリリース。さらに11月からは全国6都市でのツアーも開催する。自分で選んだ道を進み、ますます活動的だ。

「地方公演のスケジュールが前乗りになったら、2曲目くらいまでは二日酔いで具合いが悪くて、3曲目からノッてくるライブになるんじゃない? なんて感じでインタビューを締めるとおもしろくない?(笑) だって、ファンキーなんて称してるのに、マジメな話ばっかりじゃヘンじゃないですか!」

土壇場をテーマにしても、最終的には周囲を笑いの渦に巻き込んでしまう、このバイタリティこそが錦織一清らしさ。

「本音で行きたいですよね。もう舞台の上で“疲れました”と言っても許してもらえる年齢ですもん。僕らもお客さんも。今の年齢だから、そういうことも言えるようになった。だから、今回のツアーはお客さんと一緒に疲れたいですね。そういうの、すごくハッピーだと思う。公演が終わったら、“今日はよく眠れますよ〜!”ってね(笑)」

(取材:本嶋 るりこ)


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