俳優・光石研「緒形拳さんにはバレていた心の内」
名作にこの人ありと言われる役者たち。『Helpless』『あぜ道のダンディ』『アウトレイジ』シリーズと輝かしいキャリアを誇る俳優・光石研もその一人だ。この10年ほどは特に“バイプレイヤー”なる呼ばれ方が定着し、光石研も主演の1人を務めたドラマ『バイプレイヤーズ』シリーズ(2017~2021)が放送されるや、大好評を博した。
数えきれない作品に出演し、常にテレビや映画館でその顔を見るイメージがある光石にも、「土壇場」の時期はあったのだろうか?
俳優になるなんて1ミリも思っていなかった
現在62歳。俳優としてのスタートは、高校の友人に誘われて参加した映画のオーディションだった。見事に合格し、『博多っ子純情』で主演デビューを飾った。そこから実に46年を数えるが、もともと俳優の世界に憧れていたわけではなかった。映画撮影を通して、すっかりその世界、いやそこで働く大人たちに魅了された。
「それまでは映画って観るものであって、出るものじゃないと思っていました。お芝居だって身近じゃないし。子どもの頃からおふざけは大好きだったけれど、俳優さんになるなんて、1ミリも思ってなかったんです。それがね、『博多っ子純情』の撮影現場を通して、すごくいいなって」
しかし別に、“キラキラ”した芸能界に惹かれたわけではない。
「映画のなかに、振り回したスイカが不良たちの頭で割れるというシーンがあるんです。その場面を、スタッフさんたちが“どうやったら割れるだろう?”って、車座になって、撮影の前日から“こうしたら割れるよ”、“いや、それじゃ割れない、こうしたらいい”とかって、真剣に話し合っているんです。
こんなくだらないことを、大の大人たちがみんなで大真面目に考えている。今までそんな大人は、僕の周りにはいませんでした。それを見て、なんてステキなんだろうと。本当にちょっとしたことを、みんなで真剣になってワンカットワンカット積み重ねていくことで、映画ってできているんだな、なんてすばらしい仕事なんだろうと思ったんです」
みんなでくだらないことに真剣に向き合う大人たちに魅了された光石少年は、俳優になることを決意。高校を卒業すると上京した。光石自身が基本「自分は楽観的」と語る通り、『博多っ子純情』に主演したとはいえ、それは“福岡の高校生を主演に”と企画された映画。その時点で事務所所属が決まったわけではない。というより、俳優として活動していくためには、「事務所に所属したほうがいい」との考えも光石にはなかった。
だが、ただ「俳優になりたい」という一心で上京し、お世話になったプロデューサーに「俳優になるために上京した」と伝えると、ほどなくして山田洋次監督の『男はつらいよ』へのエキストラ参加が決定。その後も続けて呼んでもらう機会に恵まれたのである。
「山田監督にものすごく怒られたんです。厳しいですからね。“(その役の子どもの設定として)こういうセリフを言いなさい”と言われたことを、はしゃいでやったりしたんです。そしたら、“そんな子どもはいない! 君はどこの生まれなんだ! どんな子ども時代を送ってきたんだ!”と怒られて。
でも、僕はまったく準備のないまま現場に行ってたんで(苦笑)。怒られたというと、相米慎二監督にも鍛えていただきましたが、まず最初にすごく叱られたのは山田監督でした」
緒形拳さんがいるから安心だ
上京してすぐ、何も考えずにエキストラとして現場に行き、名匠・山田監督からじきじき叱ってもらった。今思えば、幸運と言えるだろう。さらに、『博多っ子純情』に関わっていたスタッフが、『男はつらいよ』を見て、実力派が揃う事務所として知られる「鈍牛倶楽部」を紹介した。
「事務所っていう形式すらわかっていなかったんです。“俳優さんって、事務所に入るものなんだよ”と言われて“そうなんですか”って(笑)。“あそこの社長を知ってるから、お前、あそこに行け、緒形拳さんがいるから安心だ”って言われて。わかりましたという感じ。
当時は、事務所には緒形さんのほかに、小林稔侍さんと吉田日出子さんしかいらっしゃらなかったから、そこにポツンと若い10代の子が来て面白がってくれたんですかね。一人ぐらい増えても“はいはい”って、預かりみたいな感じで」
緒形拳、小林稔侍、吉田日出子……改めて、九州から出てきたまだ何者でもない少年が、よく入れたなと思う名優たちの事務所だ。逆に、俳優になりたいから事務所に履歴書を送ろうと考えていた少年ならば、この縁はなかっただろう。それにしても恐縮しそうなメンバーだが。
現在、オダギリジョーや岩松了ら、多くの精鋭が所属する「鈍牛倶楽部」。当時は光石だけだった若手も、今や河合優実や坂東龍汰といった人気実力派を揃えている。
「立ってろとか、お茶を出すんだとか、後輩だからこうしろとか、言われてもおかしくないのに、緒形さん、小林さん、吉田さん、3人ともすごく優しくて、一切そういったことを言わない先輩方でした。お芝居のことも何も言いません。だから、僕は野放しでチョロチョロとできた(笑)。皆さん本当に優しかったです」
30代に入って食べられない時期に直面
映画に主演デビューから、上京して山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズ、そして緒形拳らがいる事務所に所属。順調すぎて言うことなしのキャリアに感じるが、現在、バイプレイヤーとして押しも押されもせぬ存在になっている光石にも、ここから「土壇場」の時期が待っていた。
「30歳に入ってから、役者だけでは食べられない時期があったんです。でも辞めたいとは思わなかった。なんの確約もなかったけれど、頭のどこかしらで“どうにかなるんじゃないか”って。かといって、アルバイトとかもしてなかった。やっぱり楽観主義なんです(笑)。仕事も全くのゼロってわけじゃなくて、時々ポンって入ってくる。だけど、出番が少ないものだから、ポツポツ、ポツポツ、って感じ」
当時、すでに結婚していたが、妻から「俳優以外の仕事をしてほしい」と言われたことはないそう。
「不思議なんですけど、一切言われませんでした。え? 才能を信じていた? いやいや、そんな美談じゃないと思いますよ(笑)。それに、家賃とか光熱費は払えていたので、なんとなく生活はできていたんです、だからなんとかなるかなって。あと、奥さんも働いてくれたりもしましたし……だから今も頭は上がりません(笑)。
ただ、いくら僕が楽観的だとはいっても、ポツポツの状況が1年も続いて来ると、さすがにそうも言ってられなくなって。慌ててもがいて、七転八倒しはじめたんです」
不遇の時期が続いた光石だが、2つの作品、監督との出会いによって風向きが変わっていった。
「『ピーター・グリーナウェイの枕草子』のオーディションがあって、とにかくこれに受からないと、と必死で受けました。よく覚えています、本当に必死でしたから」
『ピーター・グリーナウェイの枕草子』。清少納言の「枕草子」をベースにした1996年製作のイギリス、フランス、オランダ合作映画で、衣裳をワダ・エミが担当。スペインのシッチェス・カタロニア国際映画祭で、グランプリを受賞している。
「その作品に参加した同じ年に、青山真治監督の『Helpless』の撮影もありました。僕は主演の浅野忠信さんの兄貴という、とてもいい役をいただきました。のちのち聞いたところによると、青山監督のお兄さんが、僕のことを知っていてくださって“あの俳優さん、面白いよね”と言ってくれていたのもあって、起用したそうなんです。立て続けにそうした撮影があったのは幸運でした」
北九州の同郷でもある青山監督とは、『Helpless』のほかにもカンヌ国際映画祭、国際批評家連盟賞&エキュメニカル審査員賞受賞ほか今も高く評価される『EUREKA』に出演し、仕事をともにした。先日発表したエッセイ集『リバーサイドボーイズ』(三栄書房)には、2022年に惜しまれつつこの世を去った青山監督へ向けて、「青山真治さんを悼む」が収められている。
「その頃、映画界全体で新しい監督が撮り始めたな、という感覚がありました。岩井俊二監督(『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』『Love Letter』『スワロウテイル』)とか。岩井さんに出会ったのは『枕草子』の1年前なんですが、僕らの世代だと、監督ってものすごく上の人だったんです。
それが本当に近い人、なんなら青山さんも岩井さんも年下なんですけど、そういう方々が監督という立場で撮り始めた。“ああ、この人たちとずっと一緒に歩みを進めていけたらうれしいな”と感じましたね」
一方で思い返すと、土壇場の時期、先輩からの言葉や先輩の背中も大きな力となっていた。
「そういえば、俳優業がうまくいっていなかった時期、ある作品に緒形さんのバーターで出演させてもらったことがあったんです。そのときに楽屋へ遊びに行って、なんでもない話をしていたら、緒形さんがボソッと“光石。今、辛抱だぞ”とおっしゃったんです。“ああ、緒形さん、僕のことをよく見ていてくださっているんだな”と思ってうれしかったです。
それから、でんでんさんや小林薫さん、大杉漣さんもそうですけど、皆さん語らずとも、俳優としての生き様を見せてくださった。僕の周りには、“ああいうふうになりたいな”と思える背中を見せてくれる先輩ばかりで、本当に恵まれています」
考えるのはいいけど悩むのはよくない
俳優として歩み続け、今では自身も後輩が憧れる「背中」に知らずとなっている。数えきれないほど多くの作品に出続けている光石にとって、演技のアプローチの仕方には、何か理念のようなものはあるのだろうか。
「作品の邪魔にならないようにと思っています。悪目立ちするようなことはしたくない、常にそう思っていますね。でもそれって、俳優としての性と相反するところもあるんです」
特に幼少期から「おふざけが大好きだった」光石である。そもそもの気質は「目立ちたがり」のはず。
「そうなんです。だから、いまだにその気質とのせめぎ合いですが、常に念頭にあるのは悪目立ちしたくない、という考え。あとは、お芝居の世界の俗語で『うたう』という言葉があって、セリフをただ喋っている状態を言うんですけど、うたいあげるようなお芝居にならないように意識しています。やれる範疇でなるべく自然にやりたい。こういう質問にはあまり答えたことがなかったから新鮮です(笑)」
バイプレイヤーの印象が強い光石だが、当然、特に人気を博したドラマ『デザイナー 渋井直人の休日』など、主演作も多い。渋井はもともとオシャレな光石にぴったりのキャラクターだったが、自分のなかでの感覚と、人からの評価にズレを感じるときはあるのだろうか。
「基本はやりたいこと、求められることやできること、やりたいけどできないこと、自分にとってお芝居のお仕事って、この3つだと思っていて。この3つを結んだとき、綺麗な三角形になることはなかなかありません。でもお仕事って、そういうことなのかなとも思うし、このバランスが、いつかきれいに取れることがあればいいんですけど、なかなかまだないなと」
しばしば俳優業は「満足したら終わり」とも聞く。「なかなかまだ……」という言葉を聞けるほうが、これから先もきっと多くの光石出演作を、こちらとしては楽しんでいけるはずだ。ちなみに、30代で「土壇場」に直面した光石から、いま悩んでいる世の後輩たちにかける言葉はないか聞いてみた。
「考えるのはいいけど、悩むのはよくないかなと思います。いっぱい考えるのはいいけどね。だからポジティブに。なるようにしかならないから。九州の言葉で『死にゃせん、死にゃせん』って、よく言うんですけどね。何やったって、死にはしないんだからって。だからいっぱい考えて、最後にわからなくなったら、とりあえず前に進もうと。土壇場でもポジティブにね」
■プロフィール
光石 研(みついし・けん)生年月日:1961年09月26日
出身地:福岡県
血液型:A型
Instagram:@kenmitsuishi_official
〈望月 ふみ〉
09/16 12:00
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