「そりゃ嫌われても仕方ない」YouTube開設でメディア復帰の川越達也が語る半生と反省
川越達也が約10年ぶりに復帰を果たし、話題を呼んでいる。7月にYouTubeチャンネル『川越シェフだよ。』を開設。リュウジやツナボーイといった有名インフルエンサーとのコラボも積極的に取り入れ、現在は登録者数8万人超と順調に数字を伸ばしている。
そんな川越シェフが50歳を越えての再始動にあたり、十数年前の炎上と40歳を過ぎてからの、この10年について初めて自身の口で語った。
なぜ水で炎上したのか?
2000年代に気鋭のシェフとして一世を風靡した川越達也シェフ。注目の若手料理人として雑誌やテレビで取り上げられた当時の人気はすさまじく、あっという間に料理界のスターに上りつめた。だが、舌禍で「大炎上」したのが2013年のこと。発端は自身のレストランで提供した800円の水だった。
「自分が経験したレストランでは水を頼んだら、当たり前のようにミネラルウォーターが提供され、料金をいただきます。だから、うちの店でも水のお値段を告げることのほうが失礼だ、という思い込みがあったんです。今となれば、お客さまに誤解を生まない“親切”なおもてなしを優先すればよかったと思います」
レストランにとって、ドリンクの売り上げはとても大事なものだ。海外から取り寄せた水を提供して代金をもらうことも珍しくない。川越もそうすることに疑いをもっていなかった。
「生意気な発言で不愉快に思われた方々には大変申し訳ない気持ちです」
当時は口コミで「800円も取られた」と書かれたことに違和感を覚え、雑誌のインタビューで思うままに語ってしまった。すると、一部が切り取られて報道され、世間の反感を買ってしまった。騒動が大きくなると、川越シェフの名を冠したコラボ商品はスーパーの棚から消えた。テレビや雑誌に引っ張りだこだった若き才能は、お茶の間から姿を消した。
SNSがない時代にこだわった“映え”でブレイク
幼い頃から料理が好きだったという川越。同時に、自分を客観視できる子どもだったとも、学生時代を振り返る。
「高校まで10年ほど野球をやっていました。もちろん、小学生の頃はエースで4番になりたかったけど、実際には体も小さくて、それは無理だと知りました。だから、器用に動く2番打者を目指したんです。自分が持っている能力を俯瞰して、どうしたらチームに貢献できるか、監督の目に留まるのかを、その頃から一生懸命、考えるクセがついていたんだと思います」
自分の才能を輝かせるにはどうしたらいいか。模索を続ける若き日の努力と工夫は、やがて実を結び、世間の注目を集めることに成功する。
「初めて開業したレストランは、予算の関係から豪華な装飾や備品を用意することができませんでした。そんななかで、僕にできる最大限の工夫が、味の追求はもちろん、見た目にもこだわった華やかな料理を提供することだったんです」
SNSもない時代だったが、美しいプレートの数々に、客たちは意表をつかれ、そして大いに喜んだ。
「“映え”という概念はまだありませんでしたが、僕が狙っていたのは、まさにそれでした。実直に料理をやる一方で、そうやって人の目に留まって、興味をもっていただけたらなと思っていました」
やがて、川越の料理は著名な食通の目に留まり、あっという間に料理雑誌の常連となり、人気シェフの仲間入りを果たす。
「子どもの頃の野球もそうでした。実直にやっていれば、必ず誰かが見てくれるという思いがあったんです。でも、自分一人では次のステージに行けないという思いもあった。だから、誰かが引き上げてくれるのをずっと待っていたのかもしれません」
「川越シェフ」として世に出たとき、髪の毛は長くフェミニンなイメージを全面に出したのも、パッと印象に残る特徴を作ろうという考えからだった。
「同業者からも、もちろん嫌われるだろうなって思ってました。でも、そうやって僕は差別化を図っていた部分があったんです」
40歳で入れたマネージャーのスイッチ
「川越シェフ」の名前は、すぐにお茶の間に浸透した。だが、先の「800円の水問題」を境に、一転して叩かれる側に回る。世間が一気に冷たい眼差しを送った。まさに四面楚歌。だが、意外にも川越には驚きや絶望はなかったという。
「昔から客観的に自分のことを見ていたからでしょうね。“それはそうだよ、川越さん。こんなスタイルで、しかもあんなことを言えば、嫌われても仕方ないよ”と思ったんです」
自分の発言の思慮の浅さを反省しつつ、川越は表舞台から離れた。言い訳を重ねるのは自分に性に合わなかったからだ。次に川越が選んだのは、裏方の道だった。商品開発のアイディアやコンサルとして、川越の力を必要としている企業はたくさんあった。
「40歳まではプレーヤー。そこからマネージャーのスイッチを入れました」
大事なのは自分が有名になることよりも、おいしい料理をお客さまに提供することではないか。自分が不在でも店が回り、経営が成り立つことが理想のレストランだと思ったのだ。企業からアドバイスを求められたときは、自身の経験をもとに丁寧に伝えた。
「アドバイスの仕方の一つとしては例えば、“あの店のアレが美味しいらしい、あの味が忘れられない”と話題になるような目玉メニューを作りませんか? とお伝えします」
川越がオーナーシェフとして腕を振るっていた代官山のTATSUYA KAWAGOEでは、バーニャカウダがウリだった。
「最初のつかみとして、結構な量できらびやかな盛り付けを目指しました。『代官山にもしも畑があったら』をコンセプトにして、これを食前酒と一緒につまみながら、次の料理を楽しみにしてもらうんですが、これは特に女性から人気をいただきました」
メニューを出す順番もこだわった。
「特に大事にしたのは最初と最後です。レストランの食事は、大切な人と過ごすしていると、おしゃべりが盛り上がってあっという間に時間が経ちます。だから、最初と最後が特に記憶に残るんですね。目指すのは100点ではなく120点。徹底的に満足していただくためには、そういう考えも大事なんです」
表舞台から料理と真剣に向かい合ってきたその自負があった。それを広く伝えようと思った。
「昔はクリエイターになりたいと思っていました。でも、自分が憧れていたのは職人だったのかもしれないって。自分が前に出なくても、料理を食べたお客さんが“美味しいね、誰が作ったんだろう”って話題にしてくれたら幸せだったんですよね」
こうやって裏方として生きていくのも悪くない、そう思うようになっていた。
09/13 12:00
WANI BOOKS NewsCrunch