「自分がいることに違和感しかない」関根勤が『笑っていいとも!』で悩み続けた8年間

70歳を超えても芸能界の第一線を走り続け、エンターテインメント界に多大なる影響を与え続けているコメディアン・関根勤。テレビで見るたびに笑顔で、楽しそうで、ひょうひょうとしていて、ずっとご機嫌でいる印象だ。

そんな関根に「芸能界での土壇場」はあったのだろうか。話を聞いてみると、知られざる若手時代の大抜擢の裏側、フジテレビの代表的番組『笑っていいとも!​​』での葛藤など、関根節全開で語ってくれた。

▲僕のクランチ 第61回-関根勤-

「ツラいからクビにしてくれ!」からの逆転劇

関根は大学在学中に出演した番組​​『ぎんざNOW』(TBS系)の「しろうとコメディアン道場」で、初代チャンピオンになったことをきっかけにデビュー。テレビの世界に飛び込み、芸能界の荒波に揉まれていた27歳の頃、初めての土壇場が訪れた。人気ラジオ番組のレギュラー出演が決まったのだ。

その番組は、元TBSアナウンサー・松宮一彦​​がパーソナリティを務めていたゴールデン帯の帯番組『夜はともだち』(TBSラジオ)。松宮が同時間帯に放送されていた人気音楽番組『ザ・ベストテン』の中継レポーター(追っかけマン)として出演するため、木曜の一枠が空いたのだ。

そこでキャスティングされたのが、松宮と年齢が近かった関根と、同じく『ぎんざNOW!』の人気コーナー「しろうとコメディアン道場」​​出身で、関根とコンビのように活動していた当時25歳の小堺一機だった。しかし、大抜擢のプレッシャーもあって、本来の力がまったく出せなかったという。松宮が変わらず担当していた木曜日以外の曜日との反響の差も如実に出た。

「ハガキを紹介するために、僕と小堺くんで制作室に取りに行くんですけど、他の曜日は山のように来ているのに、木曜はたった2枚。毎週ですよ? “今週も2枚だね”と話していたら、あるとき3枚来ていたんです。

“やったー!”と思って差出人を見たら、毎週書いてくれていた大熊良太くんが、2枚書いてくれていたことがわかって(笑)。そう、40年以上経った今でもフルネームを忘れないくらい、もう感謝しかないですよ!」

自分たちの曜日だけ人気がなく、追い込まれる日々……。放送を続けるなかで、関根はある決断をした。

「芸能生活で初めてですよ。小堺くんに“もう逃げよう!”と言いました。あんな良い時間帯のラジオなのに、誰も聴いてない。もう行くのがイヤなんだよ。小堺くんはどう? と聞いたら“僕もツラいです”と。

ただ、当時の我々の立場で、あんなに良い時間帯の番組を“辞めたい”なんて言ったら、TBSにも事務所にも怒られるに決まってるじゃないですか。だから“クビになるように仕向けようよ”と、小堺くんに持ちかけたんです。クビになれば“力が足りなかった”で済むでしょ?

それから、その放送は小堺くんと二人で普段ふざけてやってるようなこと、無茶苦茶なことをやると決めて、変なクイズを出したり、絶叫したりしていました。“慰めても慰めても慰めきれない象の耳たぶ!”とか“ワニの腹筋!”とか、全然意味がわからないことを叫びまくっていましたね(笑)」

▲「最初は木曜日が近づくにつれて憂鬱で憂鬱で…」と当時を振り返る

クビになるためにやっていたのにも関わらず、一向にその気配はなかった。いや、むしろ、二人の悪ふざけがヒートアップしていくのと比例するように、人気がドンドン上がっていき、ハガキもドンドン増えていった。

しばらくして、関根は“あれ? この路線でいいんだ”と思ったという。

星野源が“救われた”と語った伝説の番組

そうして、ラジオでも人気を博していった関根勤と小堺一機、通称コサキン。彼らの番組リスナーには、ある傾向があった。

「1年後くらいにファンの集いをしたら、会場に1つもゴミが落ちていなかったんですって(笑)。ホールの管理者も“こんなの、今までで初めてだ”と驚いたそうですね。(リスナーは)真面目で優しい人が多い。僕らが代弁者となって、自分が言えないような馬鹿なことを言ってくれている、と思ってくれたのかもしれない」

この人気がきっかけとなって、1981年10月から2009年3月まで放送された伝説のラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(現在はPodcastで『コサキン ポッドキャストDEワァオ!』を配信中)が誕生。『コサキン』のリスナーには、『クレヨンしんちゃん​​』の臼井儀人​​、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の秋本治​​、さらにはミュージシャンの星野源もいた。

「星野くんは、学生時代に友達が全然いなくて、行き帰りの電車でずっと『コサキン』を聴いていたって言うんですよ。“救われました”と感謝されましたね。うれしかったなあ。お話させていただいたらよくわかるけど、あの方も優しいじゃないですか。“ああ、星野くんみたいに優しい人が、コサキンを聞いてくれてるんだよな”と改めて感じました」

▲『コサキン』という番組とリスナーがいたからやってこれた

あのとき、土壇場で開き直らなければ『コサキン』は生まれなかっただろう。後に、この番組が、関根の芸人活動を支えることとなる。

「公開収録だった『カックラキン大放送!!』(日本テレビ系)に出ても、みんな野口五郎さんや郷ひろみさんのファンだし、『笑っていいとも!』に出ても、見に来ているのは、ダウンタウンとかSMAPのファンなんですよ。僕のファンではない。

いつもアウェイで戦っていたけど、『コサキン』だけはホームで僕の支えでした。イベントを開いたら満杯に来てくれるから“僕は大丈夫だ。自分のファンだっているんだ!”と頑張れましたね。もはや『コサキン』は、僕の芸能生活のコルセットですよ(笑)」

『笑っていいとも!』での立ち位置に悩む

そして、関根にはもうひとつの土壇場があった。それは意外にも、およそ29年にわたってレギュラー出演していた『笑っていいとも!』で訪れたという。

「32歳のときにレギュラーになったんですけど、僕がやる代表的なモノマネが、ジャイアント馬場さん、長嶋茂雄さん、輪島功一さん、千葉真一さん……わかるでしょ?(笑) 自分と同年代の男が好きなもので笑いを取ってた。いわゆる男笑いというやつです。そういえば、高校時代も男ばかりを笑わせていたし、ラジオイベントをやると、9割以上が男のお客さんなの。

それなのに『笑っていいとも!』は、客席の9割5分が若い女性でしょ? もうね、そこに自分がいることに違和感しかない。どうしたらいいかわからない、それでも頑張ってました。どれくらいそれが続いたかって? その状態で8年はレギュラーやってましたよ」

苦悩しながらも「テレビの向こう側」にいるファンを笑わせようと切り替え、なんとか踏ん張ってきた関根。8年モヤモヤと戦い続けたなかで、ある光を見出した。

「娘の麻里​​が8~9歳になったあるとき、家に友達を連れてきたんです。通っていたのがインターナショナルスクールということもあってか、友達のお嬢さんたちがみんな、年齢のわりに大人っぽかったんですよ。

その次の週の『笑っていいとも!』に出て、ふと“あ、 この子たちは、麻里の友達の数年先だな。……ってことは、なんだ、あの子たちがちょっと大きくなっただけじゃないか。別に気負うことなかったんだ、僕は何を恐れていたんだ”ってストンと落ちたんです。29年のうち8年間はもがいていましたけど、それに気づいたあとの21年は楽でしたね」

『笑っていいとも!』での関根の真骨頂と言えば、のちに『水曜日のダウンタウン』(TBS系)でも取り上げられた『身内自慢コンテスト』だろう。有名人に顔が似ている身内や友人を紹介するコーナーで、関根は司会を担当。

紹介者が登場した際、さまざまなものに例えて笑いをかっさらっていた。そのフレーズに関して、関根には流儀があった。

「顔や雰囲気でパッと浮かんだものを言うんですけど、相手は一般の人だし、変なこと言うと傷つけちゃうじゃないですか。あの方々にとっては、これが一生に一度のテレビ出演の可能性が高いわけですよ。そんなうれしいテレビに出たあと、悪口を言われるようになったら申し訳ない。

なので、例えば静かそうな人が出てきたときは“昨日、2冊目の詩集が完成しました”とか“ジーンズにアップリケをつけました”とか言っていましたね(笑)。逆に、アクティブな雰囲気の人には“ブラジル人の友達が多いです”とか例えたり(笑)」

まだコンプライアンスがゆるく、人を傷つける笑いがまかり通っていた時代に、すでに関根には“当たり前”の目線が備わっていたというわけだ。ただガス抜きもしっかりしていたという。

「ありがたいことに“人を傷つけない笑いの先駆け”とか言ってもらえるし、イメージ的に優しいとか言われるんですけど、でも、当時は有名人でも生意気なヤツ、調子こいてるヤツに対してはラジオで毒をぶつけていましたよ(笑)。今みたいにすぐネットニュースにならないからよかった、ハハハハ!」

▲優しい笑いにちょっとしたスパイスが関根の魅力

関根が長く芸能界で活躍している理由は、こうした「目線」が備わっていたからではないだろうか。常に多角的な目線を持ち、芸能界の「バランサー」の役割を果たしているように感じる。そのあたり、関根はどう思っているのか。

「そうですね、僕が生まれた年にテレビ放送が始まったんですけど、本当に小さい頃からテレビばかり見ていたんです。すると、“この人は前に出過ぎだな”とか“この人、空気が読めてないな”とかが、テレビの画面を通して見えてくるわけです。

そんなこともあってか、テレビに出るときは、常に視聴者の自分も、カメラの向こうにいる感覚がずっとあるんです。あと、35歳で劇団『カンコンキンシアター』を立ち上げて、後輩の立ち位置やウケるコントを考えていくうちに、バランス感覚が養われた気がします。

例えば『笑っていいとも!増刊号』とかで流れた放送終了後のトークで、僕とタモリさんが話していると、当時は若手のキャイ〜ンはなかなか入れないわけですよ。でも、テレビを見ている人は、“タモリも関根も知っている。でも、あの横にいる面白そうなヤツはなんなんだ。そっちの話が聞きたいな”と思うわけですよ。だから、僕はすぐに話を振る。“ウドはどう思うの? 天野はどうする?”とか。

そこにタモリさんが絡んでくれて広がっていく……。そうすると、テレビを見ている人は“キャイ~ンっていうのか、知らなかったけど面白かったな。来週も見よう”と感じるし、トークのバランスが良いから、スタッフも喜んでくれるんですよね」

仕事もプライベートも楽しい今が全盛期!

もうひとつ気になることがあった。関根が「楽しそうに仕事をしている」ということだ。TVタレントは見られる仕事であるから、楽しく見えるように気を遣う部分もあるのだろうが、それでも心の底から楽しんでいると感じる。なぜそこまでご機嫌で楽しそうなのか、聞いてみた。

「あはははは! そう見えているならうれしいですね。それは……親からもらった元気な体と、お笑いの世界にいる環境が大きいですかね。学生時代から面白いと思うことをやって、プロになったけど、それだけじゃもちろん通用しなかった。それから、小堺くんが入ってきて二人で活動するようになったけど、悩むことも多くて……。

そんななか『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)に出て、やっと市民権を得ることができました。要は、みんなが僕に慣れてくれたんです。

そのあとはどんどん仕事が増えて、楽しいことの連続ですよ。娘と遊ぶのが楽しくて、趣味のゴルフも楽しくて、最近は孫とずっと遊んでいるし……。そう考えると、今が全盛期かもしれませんね」

▲仕事もプライベートも楽しい今が全盛期!

シビれる名言が飛び出したところで、最後に、今年で芸能生活50周年を迎えた関根に、今後の活動を聞いた。

「(レギュラー出演中の)『シン・ラジオ』(BAYFM)で、僕が“芸能界の良い時期を駆け抜けられた”と話していたら、リスナー含めてみんなが“そんなこと言っている場合じゃない。芸能生活60周年に向けて頑張れ。今よりも高い地位で80歳を迎えろ”って言うんですよ。

その流れもあって、今度、落語に挑戦することになってね。蝶花楼桃花さんが師匠になってくれて、かんこん亭きん太という名前をいただきました。

来年あたり、古典の人情話と、新作の僕らしい落語をやることになったんですけど、番組がそういった挑戦を企画してくれてケツを叩いてくれるんで、老けないですね(笑)。あとは自分がやっているYouTubeのライブも10月にあるし、『コサキン』のイベントも控えているし……やることがいっぱいあるんですよ。全部楽しみ!」

まだまだ止まらないのか関根勤​​。まだまだ走るのか関根勤。コメディアン・関根勤の全盛期は、これからも更新され続ける――。

(取材:浜瀬 将樹) 


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