『M-1』生みの親が明かす「怒られるかと思った」紳助さんへの電話

12月24日の午後3時から『M-1グランプリ 2023』の敗者復活戦、そして18時30分から決勝戦の模様が放送される。そのM-1を島田紳助氏と共に創設したのが、元吉本興業社員の谷良一氏。

「漫才」の人気が下火になっていた2001年。谷氏が当時の吉本興業常務・木村政雄氏から、漫才復興プロジェクトのリーダーを任命された。それからの経緯などをまとめた『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)が発売中だ。この本は、どの局で放送するのか、大会のルールは、賞金1000万円をどう集めるのか……M-1が誕生するまでの奮闘、予選や本戦の模様、谷氏の当時の思いが綴られている一冊となっている。

今回、M-1の生みの親である谷氏にニュースクランチがインタビュー。当時のことはもちろん、紳助氏とのやりとり、審査員を務める松本人志氏(ダウンタウン)のこと、思い出の大会や出場者のことなどを語ってもらった。

▲谷良一【WANI BOOKS-NewsCrunch-Interview】

心に残っている島田紳助氏の言葉

――この本を書いたことで、改めて当時のことやM-1への思いがクリアになったかと思います。改めて、谷さんにとって「M-1」とはどんな存在でしたか?

谷良一(以下、谷):僕の人生というかね、会社員人生を大きく変えたものだと思います。皆さん知らないことも多かったみたいで、この本の反響は大きいですね。書店でも平積みしてくださって、改めて影響力が大きい大会だと感じました。

――谷さんの仕事ぶりも書かれていて、ビジネス書の側面としても読める一冊だと思いました。その要因のひとつとして、東洋経済新報社さんから発売されたことが大きいのかなと。

谷:東洋経済新報社さんから本を出させていただけて、すごく良かったと思うんです。僕がM-1のことを書くと、お笑いファンは歓迎してくれるでしょうけど、それ以上には広まらないですよね。でも、東洋経済新報社さんから出したということは、お笑いファンだけじゃなくて、ビジネスパーソンが読んでくれる。いい意味で、広がったんじゃないかなとは感じてますね。

――M-1を一緒に作っていくなかで、特に心に残っている紳助さんの言葉を教えてください。

谷:紳助さんが掲げたM-1の裏コンセプトとして、1~2回戦で落ちるプロの漫才師に引導を渡してやる大会なんやと。舞台でちょっとでもウケると、ものすごい快感があるらしいんです。それを1回味わうと、なかなか辞められないらしいんですね。

そのまま続けていると、辞めたときに取り返しのつかない年齢になってしまう。なるべく早く「才能がないんや」と、わからせてあげるのがM-1。すごく厳しい言葉ですけど、長い目で見ると、それが正解なんだと思います。

「M-1は谷と一緒に作ったもんや」

――その言葉には優しさを感じますよね。

谷:そうですね。あと(紳助氏が提案した)賞金1000万円というのは、最初びっくりしました。漫才師は収入が少なく、アルバイトをしている芸人も多かったので、1000万は夢のような金額だったわけです。

「会社に反対されても僕は出ます」と言った松竹芸能の増田英彦(ますだおかだ)くんもそうですが、その称号はもちろん、1000万円の力というのは大きかったなと思います。そこに目をつけた紳助さんは、やっぱりすごいと思いますよ。

――今や「賞金1000万円」は当たり前ですが、当時としては異例中の異例。出場者の方も半信半疑だったそうですね。

谷:吉本の漫才師は信じてなかったと思いますよ(笑)。でも、始まってみたらガチンコ勝負。自分らと同じくらいのレベルで、人気もあって賞も取っている芸人が、どんどん落ちているので、3回戦ぐらいから「あ、これは 本気なんや」と、みんな必死になっていましたね。人間の闘争本能で「負けたくない」「決勝に残りたい」という気持ちが湧いたんやと思います。

――芸人さんの夢として「テレビに出たい」「劇場で活躍したい」のほかに、明確に「M-1に出たい」と新たな目標ができましたよね。

谷:そうですね。2001年、第1回で優勝した中川家の活躍で「優勝すれば売れるんだ!」と知って、2年目からは、さらに目の色が変わってきましたね。

――この本には紳助さんの「あとがき」も掲載されていますよね。喜びも格別だったのではないでしょうか?

谷:出版社の方から「あとがきを紳助さんに頼めませんか?」と言われたとき、12年も表に出られていないんで「それは無理です」と断ったんです。それでも、繰り返し頼まれたので「一応、聞くだけ聞いてみます」と伝えました。

その後、連絡をすると快く引き受けてくださいました。あとがきに書いてあるように、紳助さんとしては、自分の中にずっとモヤモヤした思いが残っていらっしゃったみたいで。「M-1は谷と作ったもんやのに、俺だけが世間の脚光を浴びて後ろめたい気持ちがあった。『谷と一緒に作ったもんや』と言いたかった」と言ってもらえて、本当にうれしかったですね。

じつは、電話をする前は「まだM-1のことにこだわってんのか」と怒られると思っていたんです。それなのに温かい言葉をくださって、泣きそうになるくらいうれしかったですね。

▲紳助さんの優しさと義理堅さに感動したという谷氏

「谷さんもういいよ! 出るから!」

――松本さんが審査員に入ったのも、M-1が盛り上がった要因のひとつだと思います。審査員をお願いする際、どんなやりとりがあったのでしょうか。

谷:当時、ダウンタウンはコンビ結成して20年弱。まだまだ上には先輩がいっぱいおられるなかで、自分が審査員をすることに多少の遠慮があったと思うし、現役バリバリでやっている自分が審査員をするなんて、“ちょっとおこがましくないか”という気持ちもあったと思うんです。

私が審査員をお願いしに行ったら、逡巡されていたんですが、ちょうど紳助さんとの番組『松本紳助』の収録中だったので、紳助さんがやって来て「やらなアカン」「お前の役目や」と背中を押してくれたんです。それで「やりますよ」と返事してくれたんですけど、あの一言は大きかったですね。

――紳助さんとの番組だったのが功を奏しましたね。

谷:そこを目がけて行ったんですけどね(笑)。それから、毎年、審査員をお願いしに行ってたんですけど、毎回行くもんやから、途中から「谷さんもういいよ! 出るから!」という感じになっていましたね(笑)。

――出場者も視聴者も、松本さんが何点をつけて、どんな評価をするのか気にしています。

谷:全体の点数は良かったけど、松本くんの点数が低かったら落ち込むし、逆に全体ではダメやったけど、松本くんの点数が高くて喜ぶ組もいましたからね。やはり、みんな一番気にしていると思いますよ。

▲M-1において松本人志氏の存在は必要不可欠だったと語る

応募書類から衝撃だった「笑い飯」

――谷さんは、2010年(第一期)までプロデューサーを務められました。印象的な大会を教えてください。

谷:もちろん、どの大会にも思い出はありますけど、ブラックマヨネーズが優勝した2005年ですかね。それまでのブラマヨは、準々決勝まですごく面白いのに、なぜか準決勝になると勢いがなくなっていたんです。でも、2005年に準決勝を突破して、そのまま優勝。僕の周りにファンも多かったので、みんな喜んでいましたよ。

同年に出場したチュートリアルは、2001年(初回)に出たとき全然ダメで、2005年に久しぶりに決勝進出。すごくいい漫才をして5位になりました。それが翌年の優勝につながったと思うんです。そういったことも含めて、2005年大会はすごく心に残っています。

――毎年やっていると、そうしてドラマが生まれますよね。

谷:そうですね。10年目で準決勝を敗退したスピードワゴンの小沢(一敬)くんが、負けて去っていくときに、あまりの悔しさで叫んでいたんですよ。そういったシーンをよく覚えていますね。

それ以外にも、10年目で決勝に出られなくなり、腑抜けになったコンビもいましたが、彼らには「M-1が最終目標じゃなくて、劇場でお金を払って見に来てくださったお客さんを笑わせることが、漫才師の目標やで」と伝えました。

あと、10年目で決勝進出して負けたタカアンドトシに、チラッと「コンビ名を変えたら出られるんやで」と言ったことがありました。二人が真剣に考えて「『ジンギスカン』にコンビ名を変えて出ようかな」と言っていましたけど(笑)。

――お二人とも北海道出身だからですね(笑)。では、一番衝撃を受けた芸人さんは?

谷:笑い飯が衝撃でした。予選のときも、下手(しもて)から飛び出してきて、マイクを通り越して、上手(かみて)からまた出てくるとか、ボケとツッコミ入れ替えるとか、当時はビックリしました。しかも、応募用紙って普通は宣材写真が多いんですけど、アイツら、それぞれのスナップ写真を送ってきたんですよ(笑)。西田(幸治)は迷彩の服を着ていて「なんやコイツら!」って。そのあたりからも、他のコンビとの違いを感じていました。

テレビで見て面白いと感じたら劇場に来てほしい

――M-1を開催する際、芸歴制限について悩まれていたのだとか。

谷:初回はすごく悩みましたね。当時、12~13年目ぐらいで面白い芸人さんがたくさんいましたし、13年にしようとか、15年にしようとかね。でも、新人ですから10年が限界かなと。

――2015年から始まった第二期は、芸歴15年になりました。

谷:M-1はネタの新しさや発想の素晴らしい漫才をする「新人」を見出す大会です。でも、10年を超えるとテクニックが全然違うんですよ。テクニックで笑わせられる組と一緒に出るとなると、やっぱり若手は見劣りするんですよね。(決勝は)10組(敗者復活含む)という制限もあるので、才能が潰れてしまう可能性もあるわけで……。

10年までのときは、笑い飯をはじめ、荒削りで技術はないけど、発想が面白い漫才師が出てきました。そういう組が落とされるのは、15年にした弊害かもしれません。もちろん、現場の人間の考えもあると思うのですが、私は10年に戻すべきかなと思ってます。

――谷さんが取り組まれた「漫才復興」という意味では、M-1を見て劇場に足を運ぶお客さんが増えたので、成功したのではないかと思っています。創設者としては、どんなお気持ちなんですか?

谷:うれしいですよね。昔、笑福亭仁鶴さんに“テレビ”についてお聞きしたら「テレビというものは、芸人・タレントの全部を見せてしまうもの。視聴者はテレビを見て、その人間を見抜いてしまう。視聴者に“テレビで見るだけでいいや”と思われるようではアカン。“こいつはどんな人間なんやろう”と興味を持って、生で見てみたいと思うから、劇場に来てくれはるんや。そのために、テレビは必要なんや」とおっしゃっていたんです。

M-1も同じで、テレビで見て面白いと感じたら、その芸人たちを「生で見たい」につながると思うんですよ。そういう意味でも必要な大会だと思うんですよね。

――今年のM-1は、ユニット含めて8540組​​がエントリーしました。2001年の初回から長らくブームが続いていますし、優勝者は必ずスターになっています。喜びも大きいのではないでしょうか?

谷:それこそ一番に願っていたことです。短期間のブームで終わるのではなくて、高値安定で続いているのが、すごくうれしいですね。あと、漫才師の評価・地位が、すごく上がりましたよね。それまでは歌手や役者と比べて、芸人の地位は低かったんです。M-1を通じて芸人の地位が上がったことが、一番うれしかったことですね。

(取材:浜瀬 将樹)


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