ELT伊藤一朗が2人組になったレコーディング合宿で『fragile』を聞いた夜

伊藤一朗はEvery Little Thingのギタリストである。そんな当たり前のプロフィールをわざわざ太字にしたくなるほど、バラエティ番組における彼の活躍ぶりは印象深い。だからこそ、今一度“ELT・伊藤一朗”としての顔を深掘りしたいと思った次第。ギタリストとしての彼はどのように生まれ、どんな土壇場を乗り越えてきたのか。

▲俺のクランチ 第41回(前編)-伊藤一朗-

ドラマーの座を断念してギターを始める

神奈川県横須賀というロックが身近な環境で生まれ育った伊藤一朗。近くには米軍基地があり、米兵たちの影響でFENのラジオ放送を聴くようになるなど早熟な少年だった。もちろん、ロックに目覚めたのも早い。しかし、最初からギタリスト志望だったわけではないらしい。

「中学校の音楽の先生が、郷ひろみさんのバックバンドにいて、プロでは食えないから教師をやってるみたいな人だったんですね。で、義務教育なのに“ドラムの8ビートを叩けたら及第点をやる”って言うムチャクチャな先生だったんです(笑)。それで、僕の学年でドラムブームが起こっちゃったんですよ。

で、ドラムが叩けると、その先生がピアノで乗っかってジャムってくるんです。そんなことされると、合奏の楽しさを体感しちゃうじゃないですか。“バンドって楽しいんだな”みたいな、そっちの気持ちのほうが先でしたね。

だから、ドラムをやりたかったんですけど、友達に金持ちの息子がいて“俺、ドラム買っちゃった”って(笑)。それを聞いて“あ、ピッチャーはダメなんだな”と思ったんです。ドラムがピッチャーって変な話ですけど(笑)。それで“じゃあ、ギターにしとくか”みたいな。だから、ギターを初めて手にしたのは15歳ぐらいのときでした」

当時、伊藤が好きだったのはアメリカンロック。姉のレコードコレクションから見つけたジャーニーやTOTOを聴いて影響を受けたが、お手本にしたギタリストはエディ・ヴァン・ヘイレンだった。

「ギター雑誌を買うとエディのスコアが載ってるんですよ。で、なにも判断材料がないんで“これを弾くのが普通なんだ”と思って、ライトハンドとかタッピングをいきなり練習してました。そういう勘違いみたいなことを(笑)」

そして高校に入り、伊藤は念願のバンド活動を始動させることになる。

「ジャズをやるのか、ビートロックをやるのか、メタルをやるのか……ぐらいに絞らないと、ライブハウスで集客を見込めないんですね。で、僕はほら、見てのとおり真面目で勤勉だったので、メタルの方向に」

別に、ふざけてるわけじゃない。「メタラーは真面目な人が多い」が伊藤の持論である。勤勉な彼は、いつしか髪を伸ばし始め、その長髪を結び、ブレザーの制服で隠すという荒業を習得し、周到に校則の網をくぐり抜けていった。

「派手な格好をしているので、親からは“恥ずかしいから日中は家に帰ってくるな”と言われてました(笑)。じつは、僕は生まれてすぐ肺炎になって、保育器にずっと入ってたんです。だから“あのとき死んでれば、私はこんなひどい思いをしないで済んだのに”って、昭和っぽいことも言われましたね(笑)」

▲母親からの痛烈なひと言を思い返す

地元の先輩hideから影響を受けてバンド活動に邁進

高校を卒業した伊藤は、アルバイトをしながらセミプロのバンド活動を継続。メジャーのレコード会社と契約し、プロになる機会を窺っていた。主戦場は、やはり横須賀。米兵たちが騒ぐバーやクラブで、地元のバンドとしのぎを削る日々だった。

「当時はフリーターという言葉もなくて、プー太郎って括りだったんですけど、進学も就職もせず、アルバイトをしながら自分のやりたいことに本気になってる先輩が、そこにいたんです」

その“先輩”とは、のちのX JAPANのhideである。当時、hideは「横須賀サーベルタイガー」というバンドのメンバーとして活動していた。

「僕は音楽に情熱はあるけど、“進学か就職をしながらバンドをやるしかないな”と、おぼろげに思ってたんです。でも、hideさんみたいな人を初めて目の当たりにして、こういう道に進んでもいいんだと、特にライフスタイルの面で影響を受けました。だから、金魚のフンみたいにくっついてましたね」

では、音楽性についての影響はどうだったのだろうか。中高時代はメタル少年だった伊藤。しかし、彼の嗜好の変遷はかなり幅広いようだ。

「18歳ぐらいでメタルでの成功は見限ったというか。あ、もうダメなんだなって。ちょっと名の知れたバンドと対バンすると、お客さんが400人ぐらい来るので、月4回ぐらいライブすればチャージバックで生活できたんですけど“これは長くは続けられねえよな”と思ってました」

特に絶望視していたのは、メジャーとの契約だった。

「レコード屋でアルバイトをして、そこで仕入れを担当していたことがあるんですけど、そうするとリアルな音楽シェアって見えるんですよ。自分はロックしか好きじゃなかったから、それまで知らないんだけど、周りの人は“こんなのをたくさん聞くんだ”と気づいて。人気があったのは、やっぱり歌謡曲、ポップスですね。あと、演歌のレコードってこんなに売れるんだ!って。

日本の音楽シェアで、ロックというジャンルがあり、自分のやってるカテゴリーはロックの“そのまた少ないパーセンテージ”のところ。そこで契約を取らないといけないわけだから、これで生活していくのは厳しいなと」

伊藤が所属していたメタルバンドは、ほどなく解散。その後、彼は小綺麗なルックスに容姿を様変わりさせ、ポップスのバンドを渡り歩くようになった。

「今、YouTubeで昔のJ-POPが流行ってるじゃないですか? ああいうシティポップ的な音楽をやるようになりました。そこで、ハードロックとかメタルにはないアレンジとかコード、スケールを勉強しましたね」

このデモテープでギターを弾いてるヤツを連れてこい

この頃の伊藤は、プロの道を諦めて就職している。音楽スタジオの社員として、ブッキングの仕事に従事するようになっていたのだ。

「その頃の感覚だと、ハタチぐらいでプロになってないと“ちょっとイタいな”みたいな感じがあったんです(笑)。だから、働いて生活費があるうえで、楽しみとして……いわゆるジョイの部分でギターやバンドをやればいい、という考え方に変わったんですね」

同世代でメジャーと契約するミュージシャンが出始めた状況も、伊藤の諦念に拍車をかけたようだ。前述のhideや、世界進出に成功したスラッシュメタルバンド・UNITEDは、伊藤と苦楽を共にした顔見知りの存在だ。

こうして、音楽とギターを“趣味”にし、分別のついた大人の道を歩き始めたように見える伊藤。世に打って出るための相棒ではなく、あくまで“ジョイ”の道具としてギターに触れるようになる毎日。しかし、思わぬところで運命の歯車が動き出した。

「音楽スタジオに来るお客さんに、顔見知りのバンドマンがいたんですけど、そのバンドメイトがELTの元メンバーの五十嵐充くんだったんです。当時、彼はエイベックスが経営していたレコーディングスタジオに住み込みで働いてて。そういうところって、営業時間が終わったらスタッフに好きに使わせてくれるんですよ。

ほら、海外ではニューヨークのスタジオで下積み時代のBON JOVIがアシスタントをしてて、営業後に自分のデモテープを作るみたいな。五十嵐くんもそういうことをやっていて。一方で、当時、高校生だった持田(香織)さんは、それまでの芸能活動の契約が切れる時期だったのかな? それで、高校を卒業してからどうするかということで、若い人から支持を得ていたエイベックスに“歌をやりたい”って、自分でプロモーションに来てたらしいんですよ。

そこで、“じゃあ、五十嵐くんとスタジオに入って、デモテープを作りなさい”という話になって、彼女をソロデビューさせるための準備が進められて。でも、デモテープを作るなかで、そのままだと味気ないということで、五十嵐くんから“ギターを入れてくれ”という依頼が僕にあったんです。

1曲5000円とかの取っ払いで、“あ、やるやる!”みたいな(笑)。それで、自分の仕事が終わったら、終電で青山のスタジオに行って、始発で帰るみたいなことをやってましたね」

さらに歯車は好転する。エイベックスの戦略として、持田をソロデビューさせるのではなく「ユニットとして世に打って出るのはどうか?」という話になったのだ。そこで「このデモテープでギターを弾いてるヤツを連れてこい」と、流れは急変していった。

「今まで受けてきたオーディションって、ギターで得意なフレーズをチョロチョロっと弾いたりするものなんですけど、社長室に呼ばれて、松浦(勝人)さんから“そこに立ってみろ”と言われて、“背は低くねえな、そんなに太ってねえな”みたいな。で、“お前、歯は最悪だな。歯医者に行ってこい”って。

“え、こんなので決まっちゃうの!?”って思いました(笑)。音楽界というより、今まで自分がまったく縁がなかった芸能という場所にいきなり入っていったので、最初はすごいギャップがありましたね」

当初、ELTにはDJやダンサーを入れる案もあったという。まさに、自由な発想のもとに活動する“売れるためのプロジェクト”でもあったわけだ。兎にも角にも、伊藤は10代の頃から抱いていた「メジャーレコード会社と契約」という夢を叶えることとなった。

「子どもの頃の感覚でいうと、これで120%、自分の生活を音楽に使っていいんだ。朝起きたら、いきなりギターを弾いていいんだ。そう思ってたんですけど、活動を通じていろいろなことを感じるようになりました。ミュージシャンって、いい音楽をやって、CDが売れて、ライブにお客さんが入ればいいんだと思ってたんですけど、そのほかにもたくさんやることがあるんだなあって」

▲音楽以外の苦労もいっぱいあることがわかりました

思い出作りとして始めたELTの活動

ちなみに、ELT加入時の伊藤の年齢は28歳。今の感覚ではそうでもないが、当時としてはかなり遅いデビューだが、夢を叶えて憧れていた世界に入れた気持ちを聞いてみた。

「一度プロになることは諦めちゃっていたし、すでにプロになった友達を見ても、そんなに大成している人がいなかったんです。3年契約を結び、それが終わったら更新されなかった、みたいなケースをよく見ていたので。だから“3年間エンジョイしよう”という思い出づくり的な気持ちが強かったんです(笑)。

こうやって言うと本当に失礼かもしれないけど、僕的には若い10代の頃の“よ~し、これで成り上がってやる!”みたいな炎は、もうなくなっていたんですよ」

ところで、ELT加入以前に伊藤が演奏していたヘヴィメタルやシティポップと、ELTの音楽性は必ずしも合致しない。そこに葛藤はなかったのだろうか?

「音楽ってお金をもらうようなものではないと思ってるんです。精神的なところで、うれしいから叫ぶ、何かを称えたいから奏でる、そういうところが音楽の根源にはあると思うので。だから、対価をもらうためには“他人が喜ぶ”という条件をクリアしなくちゃいけない、そう思っているんです。好き勝手やるのは最高だとは思うんですけど(笑)」

ELTの楽曲に触れると「おっ、ギタリストの本領を見せている!」と唸らせる、凝ったフレーズが飛び込んでくる瞬間は少なくない。

「じつは、ELTに加入した頃って、ハードロックとかメタルのギターは全然弾けなかったんです。もう10年近くやってなかったので。でも、当時はビーイングさんのバンド、ユニットがすごい流行ってて、“そういうテイストが欲しい”という発注があったんですね。

チョーキングで“クィ~ン!って”みたいな。つまり、ダンスミュージックのループにハードロックのギターを入れるのに適任と思われたから、僕が加入したんです。でも、その頃の僕はポップスばかりやってたんで“えっ、そんなに激しいの入れちゃうの!? どんな感じだったけなあ”って、昔好きだったレコードを聴き返したりしてました」

ELTの楽曲にハードロック的なフレーズが挿入されていたのは、自発的に伊藤が弾いていたからではなかった。ハードロック好きの五十嵐による発注だったのだ。

「僕よりも五十嵐くんのほうがハードロックは好きなんです。彼は僕が知らないようなことをいろいろ知ってて、その代わりに僕は彼が知らない音楽理論的なスケールとか、転調の戻し方とかテクニック的なことを伝えて。2人でギブアンドテイクしながら活動していましたね」

五十嵐充の脱退「これはもう、しんどいかな」

ELT結成の経緯からわかるように、このユニットの音楽的な牽引役は五十嵐だった。そんな彼が2000年3月にELTから脱退した。

「あのときは、“いや、もうちょっと頑張ろうよ”とか、そういうものもなく、事務的に“彼はやめます”と伝えられた感じだったんです。“これはもう、しんどいかな”と思いましたね。だって、エンジンがいなくなっちゃったわけだし、3本柱が2本柱になっちゃうんですから(笑)。

でも、なぜか“メンバーを補充してグループを存続しましょう”みたいな意見は、まったく出なかったんですよ。だから、メーカー側も軸がなくなっちゃって、あの2人だけで大丈夫なの?……と思っていたんじゃないかな」

もともとは“思い出づくり”でELTに加入した伊藤である。軽い気持ちで「じゃあ、解散しよう」という発想になってもおかしくない。しかし、プロとしてお金をもらう立場となっていた状況でそれは許されない、彼は大きな土壇場を経験することになる。

「いろんな人たちが動いていて、状況的には次のツアーの券売が始まっちゃってたんですよ(笑)。で、持田と“どうする?”みたいな。やめたくてもやめられないみたいな状況なんですよね。だから、来てくれる人がいるんだったらツアーはやって、そのあいだに考えようって話してました。

アルバムを作るにしても、今までのスケジュールでは絶対に間に合わないんですよ。3人で分担していたのを、2人で作らないといけないので。そこでレコーディング合宿を敢行して、寝ないで楽曲制作に取り組みました」

ところが、2人体制のELTに光明が差した。ある夜、スタッフを含めて作業をしていて、みんなで休憩を入れるタイミングで食堂に行ったときである。テレビからアルバムの先行シングルとしてリリースしていた『fragile』が流れてきたのだ。それは、この曲が1位を獲ったという知らせであった。

「レコーディング合宿でめちゃくちゃ煮詰まってるときだったから、あれは弾みがついた出来事でしたね」

――こうして土壇場を乗り越えたように見えたが、3人体制から2人体制になったことで伊藤はこれまで避けてきた役割も担うことになった。当時はテレビ全盛期、それまで新曲のプロモーションとして音楽番組に出演する際は、MCとのトークは五十嵐が担当していたからだ。そもそもELTは、あるミュージシャンを模した活動形態をイメージしていたそうだ。

「最初はZARDさんみたいに、持田以外はジャケットに写らなくていい、みたいな空気だったんです。持田が撮影をしているあいだに、男2人はスタジオに入って次の音源を作るみたいなイメージだったんですけど、2人組になったら前に出ざるを得なくなっちゃったんですよ。ほら、2人とも寡黙というか、あんまりしゃべんない人みたいな印象だったと思うんですけど、どっちもしゃべんなかったらどうすんだって(笑)」

こうして、前に出ざるを得なくなってしまった伊藤を救ってくれたのが、とんねるずやダウンタウンだった。彼らによって“見出された”伊藤は活動のフィールドを広げ、現在は「いっくん」の愛称でバラエティ番組で活躍中である。

「芸人さんがアイドルの方に絡んでイジってもらう図式はよくあると思うんですけど、それがミュージシャンになると扱いづらかったと思うんですよ。“こいつ、本当に怒りそうだな”みたいな人が多いんで。僕も持田も、根は真面目ないい子ちゃん。でも、どっちかで言うと、持田は“これ以上ツッコんだら怒りそう”のタイプ、対比として“伊藤は怒んないだろうな”と思われてる。それに応えないといけないというか(笑)。

やっていくうちに“隙を見せたほうがいいんだな”と気づいたんです。とんねるずさんやダウンタウンさんくらいになると、ものすごいスキルを持っているので。だから、僕のことを見る人が笑ってしまうようになったのは、そう導いてくれた芸人さんたちの才能なんですよ」

目指す先輩は松崎しげるやモト冬樹

こうして土壇場を乗り越えた伊藤は、タレントとしての幅をグングン広げている最中である。バラエティに進出しだした頃、伊藤はある先輩ミュージシャンから「ミュージシャンが笑いのネタにされるようなことをやっていいのか?」と、面と向かって詰問されたことがあるらしい。しかし、伊藤の芸能観はそれとは相容れない。

「僕は高田純次さんが好きなんですけど、あの人も根は真面目じゃないですか。昔、高田さんがブリーフの上にパンストを穿いて、それを丸出しにしていたんですね。それを見て“なんで、この境地に行けるんだろうな?”と思ってたんです。でも、ある番組で僕も同じようにパンツを出して同じようなことを1回やったら、もうなんか許容できるようになっちゃって(笑)。

僕が見るミュージシャンの先輩には、松崎しげるさんやモト冬樹さんがいます。昔は凄まじい感じだったんだけど、今は“バラエティに出てる人”と認識されている方々がいらっしゃるじゃないですか? 僕もああいう感じになれるのかなぁ。行けそう……だけど、やっぱり難しいですよね。強力な先輩たちが他にもたくさんいらっしゃいますし」

▲僕が目指す先輩は松崎しげるさんやモト冬樹さん

松崎しげるもモト冬樹も、バラエティで活躍し、役者業にも励み、幅広いフィールドで活動している“芸能人”だ。しかし、いざミュージシャンの顔になると「やっぱりスゴい!」と感じさせる偉大な先達である。そのくらい手広く芸能活動に邁進する道を、伊藤は見据えているということだ。

Every Little Thingの結成は1996年。かれこれ、活動期間は27年である。そこで聞きたい。伊藤にとっての“相方”持田香織とは、どういう存在なのだろう?

「僕もいろんなバンドを渡り歩いてきた派なので(笑)、同じグループを結成して20年やるって本当に驚異的だし、デビューした当時、持田は高校3年生でしたからね。それが結婚して、子どもを出産してっていうと、めちゃくちゃ変わっていくじゃないですか。女性のほうが人生のターンも多いし、精神年齢も追い越されちゃってるので、そろそろ見限られるんじゃないかと思ってます(笑)。

バンドという形態だとケンカもあるじゃないですか。それが、男女で年齢差もあるとなると、そういう殴る蹴るも起こらないんですからね。それが長く続く要因の1つでもあると思うし、すごく良かったなあって。

あと、2人組で片方がロジカルにダメ出しをすると、むかついちゃって受け付けないみたいなこともあると思うんです。でも、たまたま僕の周りにはそれをしてくれる方がいてくださったので、僕がそういうことをする必要もなく、“ああ、ここはチャラチャラしていいんだな”と振る舞えるところもありましたね」

振り返ると、ELTは“プロジェクト”として始動したユニットだった。それが功を奏したということか。持田はかねてより「一朗さんの人柄に助けられた」と公言している。数多くの土壇場を共に乗り越えてきた2人の絆は、想像以上に深い。

(取材:寺西ジャジューカ)


ジャンルで探す