怪獣デザイナー・西川伸司がゴジラやビオランテから学んだこと

『西川伸司が紐解く怪獣の深淵 ゴジラ大解剖図鑑』(グラフィック社)は、いわゆるただの怪獣図鑑ではない。これまで日本で制作されたゴジラ33作品のすべてのゴジラ怪獣を、1989年〜2004年まで数多くのゴジラ映画の怪獣デザインを手がけた西川伸司さんが、自ら描きおこして解説を加えているのだ。

怪獣たちの特徴だけでなく、映画ごとに変更されるゴジラのデザインやスーツ(着ぐるみ)の仕様について、こと細かに語られており、怪獣デザイナーならではのミクロでマニアックな視点で解き明かしてくれている。

▲Fun Work ~好きなことを仕事に~ <怪獣デザイナー・西川伸司>

作品ごとに顔もボディも意外なほどに異なるゴジラのデザインを見ていると、不思議なもので、映画を見て確認したくなる。「怪獣デザインという仕事はあっても、怪獣デザイナーという職業はありません」と西川さんは語る。怪獣デザインだけで生活することは困難であり、彼自身の本業は漫画家だ。しかも、目指してなったというより、偶然たどりついた仕事でもある。

というわけで、彼の人生を振り返ること、すなわち怪獣デザイナーへの道筋となる。その具体例を知っていただくために、幼少期からの話を聞いてみよう。

▲ゴジラ 出典:『西川伸司が紐解く怪獣の深淵 ゴジラ大解剖図鑑』

ゴジラとの出合いと特撮の衰退

記憶に残る人生で初めてのゴジラは、1971年の『ゴジラ対ヘドラ』だという。当時、小学1年生。1969年から1978年までの春・夏・冬休みに、東宝が子ども向けに企画していたプログラム「東宝チャンピオンまつり」のメイン作品だった。子ども向けながらも、当時、社会問題となっていた公害を前面に打ち出したカルト的な一作だった。

「“ヘドラ”は社会派で、怪獣の造形も演出も、とにかく印象的でしたね。夏休みの宿題の絵日記に描きました(笑)。最初の『ゴジラ』が公開されたのが昭和29年で、僕は昭和39年に生まれたんですが、この10年間は東宝特撮しかなかった。

その後、1~2年のあいだにガメラとかウルトラマンとかが出てきた。それ以前は恐竜や他の生物をただ巨大化したようなものしかなかったのが、ウルトラマンの登場で“怪獣をデザインする”という意図の入った怪獣が出てくるんですね」

物心ついた頃から、実家は写植とデザインを使って広告などの版下をつくる会社を営んでいた。父親は油絵の心得があり、西川さん自身も小さい頃から絵が好きだった。ウルトラシリーズ初期には「怪獣博士」と呼ばれたが、そもそも子どもたちの世界での特撮ブームが終わる。

というのも、ウルトラマンや仮面ライダー、ゴジラなどのシリーズが相次いで終了したからだ。代わりに人気を得たのがアニメだった。

「それまで特撮にハマってた子どもたちの多くが、アニメに転んだんです。僕も『宇宙戦艦ヤマト』が始まって、それまでになかった表現力にビックリしました。庵野秀明さんとか、出渕裕さんとか、僕より少し年長のクリエイターたちも、この頃一斉にアニメに鞍替えしたんじゃないかな。かくいう僕もアニメにハマって、高校卒業後はアニメーターになろうと真剣に思っていました」

だが、父親から「大学に行くべし」との声がかかった。“なんとなくよくわからない仕事”に対する親の態度としては、きわめて真っ当だが、西川父の視点は斜め上をいくものだった。

「親父が言うには、アニメってのは“人に言われた通りの絵を描くだけの仕事じゃないか”と。お前の性格だと、それだけだと絶対に我慢できなくなる。そのときに大学生でないと身に付かない感性が役に立つはずだ、と

ゴジラとのゆるくマニアックな付き合い

そして、西川さんは同志社大学に入学、結果として父親の言うとおりになるのであった。それが「大学生でないと身につかない感性」だったのかどうかはわからないが、あらためてゴジラと“出合い直す”ことになったのだ。そのキッカケは漫画研究会だった。

アニメが好きでイラストはずっと描き続けてきた西川さんだが、オタク的な世界は苦手だった。で、たまたま漫研を覗いたら、壁にペンキで「成田闘争勝利!」などと書き殴られ、本棚には『ガロ』がズラリ。「これはオタクじゃない、男の世界だ!」と入部したら、そこは男の世界というより特撮の世界なのであった。

「先輩たちが特撮マニアだらけ(笑)。この先輩は東映マニア、この人はウルトラのオーソリティ、こっちは東宝のチャンピオン……という感じで。僕が大学に入ったのが1983年で、9年ぶりにゴジラ新作公開の前年だったので、全国でリバイバル上映が盛んだったんです。それをサークルで見に行くわけですよ。

たぶん、それがよかったんでしょうね。一人で見ていると、ゴジラに高尚な価値を求め、それを守ることと自分を守ることがイコールになってしまう。いわゆる“ゴジラ原理主義者”になってしまうのかもしれない。でも仲間と行くと、楽しく見られるんですよ。

『ゴジラ対メカゴジラ』のキングシーサー復活のくだりで歌われる曲がフルコーラスかかって、みんなでズッコケたり(笑)。本気で追っかけてるけど、“ゆるい見方”というものを得ることができるようになったんだと思います

▲大学に行ったことで『ゴジラ』をゆるくマニアックな見方ができるようになった

そして、西川さんの興味を牽引する、ディープな先達によるファン活動が全国各地に発生し、作品全体を作り手の目線で見ながら、制作の裏側にまで言及するさまざまなアウトプットがされていく。本格的な自主特撮映画や、作品ごとのゴジラの着ぐるみを再現したガレージキットなども販売されたという。

「子どもの頃は、創られたゴジラの世界にダマされて夢中になる側なんだけど、そういう受け手の視点のままの人は、作り物だとわかるとともに冷めていくんじゃないかな。

特撮はあるとき半ば強制的に終わって、大学生の自分にとって新しい興味の対象になった。今度は、見ている人をダマすためにすごい技術やアイディアが集約してるんだ、という視点に切り替わったんですね。そのときからなんですよ、ちゃんと写真を見て、ゴジラのスーツの違いを意識して描くようになったのは」

怪獣の世界へのパスポートは初版500部

大学において「シン・特撮オタク」としての新たな視点を獲得した西川さんだったが、学業のほうでの単位はまったく獲得できず。3年生の段階で、4年間で卒業できる見込みはなくなっていた。

そうした知らせを大学の事務室から受け取った父親が、西川さんを旅行に誘ったという。行き先は、家族良好の定番だった城崎温泉。旅館で布団を並べていると、父親はこう言った。

父親「おまえは卒業はできるのか」

西川「(あー、やっぱりその話か……)全然無理」

父親「大学は一応8年まで行けるらしいな。8年だったらどうだ?」

西川「いや、もうその気がなくなってるから、何年行こうがたぶん卒業できないな」

父親「わかった。じゃあ、もう3年生でやめろ」

西川「え!?」

父親「4年まで行ってやめたら、卒業できなかったみたいでカッコ悪いけど、3年でやめれば、志があってやめたことになるじゃないか」

▲旅館での父親とのやり取りを再現してくれた

「ただし、中退を認める交換条件として、本を作れって言われたんですよ。親父は僕の絵の実力を認めてくれてはいたようです。でも、評価を得るには見せられる作品がなくては始まらない。

今ならコミケとかで売ってる、いわゆる“薄い本”もわかるんですけど、当時はオタクカルチャーを知らず、本っていうと書店で売ってる単行本しか思い浮かばず、漫研で描いてたゴジラのネタが50ページ分ぐらいあったので、それに継ぎ足して単行本にしようと、先輩に手伝ってもらったりしながら193ページの同人誌を描いたんです。幸い親父の仕事柄、得意先に印刷会社もありましたし、資金もちょっと援助してくれました」

そうして、1986年にMASH.名義で『ゴジラ伝説』という、まさに伝説の同人誌が刊行された。初版500部。この一冊が、結果的に西川さんの怪獣業界へのパスポートとなっていく。

漫画家への足がかりと挫折、ゲームへの寄り道

このときに西川さんが目指したのは、絵を生業にすること。どちらかというと漫画家で、怪獣デザイナーなどは想定もしていなかった。ともあれ、地元・京都の即売会で知り合ったサークルに相乗りしてコミケデビュー。

小学館『少年サンデー』誌上で開催されていた「同人誌グランプリ」に入賞し、漫画家への足がかりを得る。1作品を仕上げて頓挫したあと、ゲームの会社でアルバイトを始めるが、今度は講談社から漫画家デビューの誘いを受けることになった。

「僕は新しいものが好きで、すぐに興味があっちこっちへ行くタイプなんですが、ゲーム会社に寄り道したことで、今度こそキチンと自分の気持ちの確認ができました。最初のデビューのチャンスでは1回逃げたけど、やっぱり本当に自分がやりたいのは漫画だと。

自分の性格上、今後もきっと新しいことに興味は向いていくだろうけど、漫画をメインにやるっていうことは外すまい、という覚悟を持つことができたんです。ちなみに、今のカミさんと出会えたのもゲーム会社でした。なので、この寄り道は決して無駄ではなかったです(笑)」

改めて漫画家を目指して上京し、1988年の『土偶ファミリー』での商業漫画家デビューに至る。……のだが、もうひとつ、本人の知らないところで怪獣デザイナーへの道もつながりつつあるのであった。

「家の近所に、ゲーム会社時代の先輩のお兄さんが住んでいて、その方が特撮専門誌『宇宙船』の立ち上げメンバーである聖咲奇(ひじりさき)さんなんですが、ときどき呼ばれて聖さんのAmiga(アミーガ)というマシンで、CGのデータを作っていたんです。で、ある日、聖さんの同僚のスミヤさん(隅谷和夫)という方から、問い合わせがあったんです。“シカゴに住んでる知人が、こういう雑誌を探してるんだけど……”って」

それがなんと『ゴジラ伝説』だったのだ。刊行後、評判が評判を呼び、3度の増刷を経て、5500部に到達していた。人気はじわじわと広がり、海外にまで知れ渡っていたのだ。

▲500部の『ゴジラ伝説』から『ゴジラ大解剖図鑑』までの軌跡

「このスミヤさんが東宝のスタッフともコネクションのある方で、川北絋一監督ともつながってたんです」

川北紘一とは、1962年に東宝株式会社に入社後、特殊技術課、特殊撮影係りを経て、円谷英二特技監督・有川特技監督・中野特技監督に師事。『ウルトラマンA』で特撮を初演出し、『ゴジラvsビオランテ』で待望のゴジラ特撮を担当した人物だ。

初めての出会いは、川北が特技監督を務めていた映画『ガンヘッド』の撮影現場。景山民夫原作の『遠い海から来たCOO』の実写映画化に際し、「かわいい恐竜のデザインができないか」という相談だった。

「それで、恐竜のスケッチをいくつか描いて、『ゴジラ伝説』を持って撮影所に行ったんです。恐竜のスケッチには“ふーん、なるほど”みたいなリアクションだったんですが、本には興味を持たれたみたいでした。僕自身も特撮の現場を見られてラッキー! ぐらいに思ってたんですが、半年ぐらいして電話が鳴ったんです」

1989年公開『ゴジラvsビオランテ』撮影中の川北からだった。呼び出されたのは、東宝の撮影所。スタッフルームには、川北監督だけでなく、撮影や美術などのメインスタッフが勢ぞろいしていた。

「川北監督が“ビオランテが決まんねえんだよ。撮影所に来て、描いてみてくんねえか?”って(笑)。どうしてもビオランテの最終形態に納得がいかない。しかもスーツを発注する関係上、締め切りは3日以内だって言われました。

さらに、その時点で、『スタジオぬえ』とか横山宏さんとか、伝説級の方々が描いた絵が分厚いファイルになってるわけです。これが全部ボツなんか! これよりもすごいの描かないといかんのか! と震えました(笑)」

『ゴジラvsビオランテ』で怪獣デザインを担当

西川さんが発注されたのは、クライマックスでゴジラと戦う最終形態だ。

「もはやデザインの善し悪しが問題じゃなくて、“監督のイメージに合ってないんだ”と思ったんです。それで、とにかく監督にいっぱいしゃべってもらおうと思って、いろいろと質問しました。すると、そこそこイメージが固まってる部分もあるんですよね。

監督に言われたのが、ゴジラを圧倒するボリューム感が欲しい、花びらはいらない、第1形態で作ったツタは使う、人は入らなくていい……とか。あとラフレシアやら巨大なメタセコイヤの幹をクルマが通る画像を見せられて、“こういうの面白いよな”とか」

デザインするうえで西川さんが考慮する必要があったのは、ゴジラとの対決時の見え方であり、ストーリー上の設定であり、造形の都合であり、怪獣を動かす仕組みであり、監督の持つイメージなのであった。

まずゴジラを描き、それを圧倒するサイズ感を考え、監督の言葉を総合して落とし込んでいくうちに形が見えてきたんです。一方で、花びらは要らないと言われたけど、花の要素入れたいなと。

たとえば、ラフレシアのような地面に生えた花から花びらを取り、中心のめしべを本体にして、のちに種になる子房という部分に核エネルギーがあって、周囲にはおしべのようにツタを配し、口は四つに開いて、肉の花みたいに開くっていうアイデアはどうだろう……」

西川さんのスケッチは、監督はもちろん、スタッフ全員からのOKを得たが、上層部からダメ出しを受けた。いわく「顔をつけて怪獣っぽくしないと子どもにわかりにくい」「目をつけてほしい」「口は普通に上下に開くべし」……。造形の担当者とも話し合い、怪獣らしく植物らしさを活かす線を考えた。

▲ビオランテ 出典:『西川伸司が紐解く怪獣の深淵 ゴジラ大解剖図鑑』

「じゃあ、怪獣の顔はつける。でも妥協するのではなく、別の方向で植物と動物が合成されたキメラっぽさを出す方法を考えようと。動物って基本的に左右対称の構造なんですよね。怪獣の着ぐるみも人が入るなら、そこからは逃れられない。

でも、ビオランテは人が入らなくていい。で、植物は上から見たら放射状に広がる構造になる。だったら、構造は植物で、それを動物のパーツを使って構成するのがいいのではないか。

あと、動物って爪や歯が必ず体のどこか端っこから生えてるんですけど、植物のトゲははあらぬ場所からいきなり生えてたりしますよね。それを動物のディテールで再現したら気持ち悪いんじゃないかって」

▲ビオランテ 出典:『西川伸司が紐解く怪獣の深淵 ゴジラ大解剖図鑑』

そうして最終的に出来上がったのが、ビオランテ最終形態だった。タイムリミットが迫るなか、膠着した状況を打破した西川さんの仕事は評価され、その後、2004年の『ゴジラFINAL WARS』まで、計12作品に怪獣デザインで参加することになる。

続く『ゴジラvsキングギドラ』では、ティラノザウルスがゴジラに変異する初期設定があったが、そのティラノザウルスのデザイン担当するなかで「既存のティラノザウルスがゴジラになるのは、ゴジラのイメージの矮小化につながる」と、オリジナルの恐竜を提案。デザインのみならずシノプシス段階からアイデア出しまでするようになった。

▲キングギドラ 出典:『西川伸司が紐解く怪獣の深淵 ゴジラ大解剖図鑑』

漫画家だからこそ怪獣デザイナーを楽しめる

こうして西川さんは、怪獣デザイナーという職業を肩書きに加えることになったわけだが、やはり改めて「怪獣デザイナーという職業はない」と断言する。

「まず何より、たとえばゴジラだけでいうなら、1年に1本のペースで映画は作られていませんよね? 1作に関わって1000万円もらえるなら生活していけますけど、もちろんそんなことはない。川北監督時代は、まさに監督のポケットマネーでやってましたし。僕は漫画家なので、怪獣デザイナーもやることができる、ということですね(笑)。

次に、デザイナーの仕事って定まってないんですよ。求められることは監督によって違いますし、本当にデザインだけをやっている人もいれば、自分のように企画の初期段階から設定などに対して意見を出してる人もいます」

それでも、怪獣が大好きな人にとっては、夢のような仕事だろう。西川さんの場合、偶然に偶然が重なってそうなったが、仮に「怪獣デザイナー」を目指すとすれば、何を大切にする必要があるだろう。

「ひとつは、俯瞰的に怪獣を見る視点ですね。僕は“ずっとゴジラが好き!”ではなかったので、自分の好みは脇に置いておけるんです。毎回、仕事と割り切って映画や作品のキャラクターへの最適解にアプローチすることができる。怪獣の種類はもちろん、出てくる映画のテイストも違えば、その映画で伝えようとしていることも違う。ビオランテとキングギドラでいうと、この2作品は真逆と言ってもいいぐらい。

見たことがなく生々しくドロドロしたビオランテに対し、キングギドラは超有名怪獣で、後半ではメカになりました。こちらから提案することもありますけど、作品の要望が必ずベースにあります。それができるのは、自分が漫画家という顔を持ってるからじゃないかな。漫画だと、ストーリーもキャラクターも演出も全部を自分でしますから。

怪獣映画という共同作業のなかでデザイナーとして、監督のアイデアや造形の実現性などを踏まえた調整役に徹する。この部分こそが、仕事として面白いんですよ。毎回のオーダーや作品に合わせて最適解を探るやり方なので、これは職人的な発想の仕方だと思ってるんです。だからこそ、多くの作品にずっと関わってこられていると思うんですよ」

そんな西川さんに、これまで手がけたなかで一番好きな怪獣を聞いてみた。

「一概には言えないんですよね。結局、怪獣は画面に登場する造形物が最終的な答えなので、僕のデザインどおりにいってカッコいいとか、ずいぶん変わっちゃったけどカッコいいとか。でも、二大巨頭は『ビオランテ』と『三式機龍』ですね。自分のキャリアで、最初と最後のデザイン。

ビオランテの魅力は、コンセプトとして新しいものを出したデザインですが、造形に大いに助けられています。ただ、最初で何もわからなくて思うままに描いたので、造形の都合は一切考えていない。そんな弾けたデザインです。

三式機龍のときは、もう10年以上経っていて、造形にも配慮することができるようになってるんですが、このときはデザインがコンペになったんですね。それでちょっとキレて描いちゃった。複雑な造形で、すぐ壊れそうなパーツがいっぱいあるんですけど、“知るか!”って。

そうしたら採用されて、すげえスーツができて、スタッフみんな盛り上がりました。そのとき、考えを改めました。造形に配慮しすぎるのは、勝手に限界とか制約を設けることだなって。

全力でいいものをデザインしたら、造形チームが自分にはない専門的知識で仕上げてくれる。お互いプロ同士、リスペクトし合って提案することが結果につながる。そこで手加減すると、ブレイクスルーは絶対に起きないなと思いました」

手加減をすると、いいものは生まれない。ゴジラを通して知る西川さんの哲学は、すべての仕事に通ずるような気がした。

(取材:武田篤典)


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