梶芽衣子「77歳で亡くなった母と同い年に。映画『曽根崎心中』の増村監督は、日活にいた20代から憧れ。大切な2人に捧げる、6年ぶりのアルバム『7』」
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【写真】「『これ私がやるの?』と思う曲もいっぱいありました」と話す梶さん。それでも「できない」と言わないのは…
ふたりの大切な人に捧げたい
私、こう見えても昔は体がとても弱かったんです。貧血で低血圧で好き嫌いが激しくて、運動嫌い。「40歳まで生きれば十分」と考えていた時期もあったのに、いつのまにやら77歳ですからね。ダブルの「7」で、今回出したアルバムのタイトルにぴったりでしょう?
私の人生には、なにかと7という数字がついてまわってきました。1947年生まれだったり、日活に入ってデビューしたのが17歳のときだったり、右も左もわからない世界にぽーんと放り込まれて、毎日「もう明日やめてやる」と思いながら仕事をしていたら、その年に7本もの映画に出ていたり。だから好きな数字なんですよ。
「7」を「セッテ」とイタリア語読みにしたのは、音の響きがよかったのと、母の終焉の地・イタリアにちなんでのこと。料理の仕事をしていた弟がイタリアにいて、心臓の悪い母は晩年を弟のそばで暮らしたいと願いました。
ビザの取得や病院選びなどの手続きは私がしましたが、海外で荼毘に付すとお骨を日本に持ち出すにはたくさんの申請や証明書が必要なことを知って。「お骨が日本に帰れなくてもいいの?」と確かめましたが、決意は変わりませんでしたね。
当時の私は、おまさ役で出ていたドラマ『鬼平犯科帳』の撮影に、半年から1年単位でスケジュールを当てていました。その合間を縫ってイタリアへ通ったんですから、超がつくほどの遠距離介護ですよね。
でも24歳で実家を出た私が、最後に少しだけ母との距離を縮めることができた貴重な時間だったと、いまは懐かしく思い出します。母は77歳で亡くなりましたから、自分もそういう年齢になったのか、という感慨もあります。
母に捧げる気持ちも込めつつ、もう一人、アルバムができたことを報告したい方が、映画監督の増村保造さんです。若尾文子さんと数多くタッグを組み、その魅力を引き出された監督の作品が私は大好きでした。
日活にいた20代から、調布に広がる畑の向こうに見える大映撮影所にいらっしゃる監督と「いつかお仕事ができたら」と憧れたものです。のちに映画『曽根崎心中』を撮っていただきましたが、私にとっては企画から立ち上げ、上映後は各所で高く評価していただいた思い出の作品です。
監督は、とにかく人間が大好き。目の前にいる相手がどんな人物か、何ができるのかを徹底的に観察しています。あるとき食事をしたお店にカラオケがあって、監督から「梶さん、ちょっと歌ってくださいよ」と言われました。リクエストは、内藤やす子さんの「弟よ」。
私は内藤さんのファンでしたから、「よかった、知っている歌で」と思いながら歌ったんですが、歌い終わった私に監督は「あなたは、歌う使命感を持ったほうがいい」などとおっしゃる。突然のことだったので、つい「なら監督、私に詞を書いてくださいよ」と軽い気持ちで言葉を返してしまいました。
驚いたことに、その夜のうちに私のマネージャーに連絡があり、「梶くんがこれまでに出したレコードを全部送ってほしい」とおっしゃったそうです。そして1ヵ月も経たないうちに「真ッ紅な道」「恋は刺青」の2つの詞が届きました。同封された手紙には、「ちょっと妖しい詞を書いてみた」「気に入らなければ書き直す」とありましたが、監督らしい情念と美意識に彩られた素晴らしいもので。
初恋を刺青に喩えるあたり、監督でなければ書けない詞ですよ。いまとなっては確かめようもないですけれど、監督はきっと私にもっと女を表現させよう、意識させようと思ってらしたんじゃないでしょうか。
私としてはすぐにでも曲にしたかったですし、たびたびレコード会社に「この詞に曲をつけたい」というご相談もしましたが、監督のお名前を出すと、「とても無理でございます」と皆さん恐れおののいちゃうの。(笑)
そうこうしているうちに、監督は86年に死去。お加減が悪いこともまったく知りませんでしたから、朝刊で訃報を目にしたときはショックで、しばらく記事の内容が理解できないほどでした。
諦めきれなかった詞に音がついて
詞をいただいて、かれこれ40年以上。6年前に出した『追憶』というアルバムのレコーディングのとき、プロデューサーを務めてくれた鈴木慎一郎さんに「気が向いたら音をつけて」と詞の写しを渡したことがありました。彼は50年前に私のアルバムを制作してくれた鈴木正勝さんの息子さんで、赤ちゃんのときから知っています。
実は正勝さんにも、監督の詞をお目にかけたことがありました。でも黙って目を通すだけで、あまり関心を示してもらえなかったような記憶がありますね。
それがなんと今回、『7』の制作に入る前に、慎一郎くんから「あの詞に曲をつけたから」とデモテープをひょいと渡されて。お父様のこともあって、まったく期待していなかったので、とっても嬉しかった。でもあの詞を音にするまでは、私はずっと諦めきれなかったですよ、本当に。
曲はパワフルなロック調。この2曲にかぎらず、アルバム全体を通して、これまで私が歌ってこなかった世界観を表現できたと思います。慎一郎くんは、正勝さんが私に作った歌謡曲や演歌を聴きながら、「芽衣子さんにはロックのほうが似合うのに」と歯がゆく思っていたのですって。(笑)
とはいえ、「これ私がやるの?」と思う曲もいっぱいありました。「ムリ! こんな難しいの歌えません」って何度言おうと思ったか。
でも私、「できない」って言葉は一番口にしたくないんですよね。そもそも「慣れ」というのが大嫌い。誰も想像できない世界を、自分の想像力でもって表現し、皆さんに伝えるのが私たちの仕事でしょう? そういう意味でも、慎一郎くんは私のことをうまく挑発してくれたのかもしれません。
ラストナンバーの「修羅の花」は唯一、昔の曲のリメイク。映画『修羅雪姫』の主題歌で、クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』の決闘シーンにも使われたことから世界中にファンが多い曲です。
私も大好きで歌番組で歌いたいと思うものの、「怨み節」ばかりリクエストされてしまう(笑)。作曲してくださった平尾昌晃さんからも、「芽衣子ちゃん、たまには『修羅』も歌ってよ」と冗談めかして言われてきたので、新しい「修羅」を歌うことができて、感慨深いものがありますね。
昨年にはイギリスのレーベルから、私が73年に発表したアルバムが復刻されました。海外の、それも若い人たちから「好き」と言ってもらえるのはもちろん嬉しいことですが、なんだか自分のなかではピンとこなくて。
そもそも海外にファンの方が多いのは、昔からなんですよ。90年代には、お友達が海外出張に行くたびに、「ロスで芽衣子ちゃんの作品をみつけたよ」とか「台湾で人気だよ」と、私の古い作品のビデオやDVDを買ってきてくれたものでした。
だから若かりしタランティーノ監督が、ビデオショップでのアルバイトを通じて私のファンになってくださったことも、そうなんだろうなあと思います。でも、やっぱりピンときませんね。
11/04 12:30
婦人公論.jp