岡田茉莉子「父親が銀幕スターと知ったのは高校2年生、奇しくも同じ道を歩むことに。芸名は、文豪・谷崎潤一郎先生が名付け親」

「少女時代の私は人前に出るのも話すのも苦手。病弱で、学校に行きたがらない内向的な子どもでした」(撮影:宮崎貢司)
長年連れ添った夫・吉田喜重監督を見送って1年半。鮮やかに思い出されるのは、人見知りだった少女時代、女優としての成功とプロデューサーとしての挑戦、そして夫と過ごした幸せな時間――と、岡田茉莉子さんは言う。夫婦で映画に情熱を注ぎ続けた軌跡と現在の心境について語った(構成:篠藤ゆり 撮影:宮崎貢司)

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【写真】岡田茉莉子さん、18歳で映画デビュー。1歳のときに亡くなった父と図らずも同じ職業に

戦争を生き延びて。初めて知った父のこと

デビュー作『舞姫』が封切られたのは1951年。もう70年以上前のことです。私はこの世代の女優としては、わりとハッキリ自分の考えを表明するほうだったと思います。自分で作品をプロデュースするなど、独立心旺盛で、物怖じしないとも言われてきました。そのせいで風当たりも強かったし、正直、生きづらい面もありましたね。

それでもここまで女優を続けられたのは、一緒に作品を作ろうと言ってくださる方が大勢いたから。本当に感謝しています。

じつは、少女時代の私は人前に出るのも話すのも苦手。病弱で、学校に行きたがらない内向的な子どもでした。父親は私が1歳のときに亡くなり、母と、母の妹の3人暮らし。

叔母が東宝の文芸部で働いていた方と結婚し、別に暮らすようになると、母が仕事に出かけている間、私はひとりぼっち。母は、母子家庭だからとバカにされたくなかったのでしょう。とても躾が厳しく、家事はほぼ私の役目でした。

母の仕事の都合で、大阪や戦時下の上海で暮らした時期もあります。上海の日本租界(日本人居留地)のアパートで、孤独を慰めようと、母の留守中に隣の家の屋根に上がって歌ったり。

すると、どこからか拍手が聞こえてくるんです。内気ではありましたが、表現者の血が流れていたのでしょうか。母は元宝塚の男役スターで、叔母も宝塚に所属。父が誰であるかは、母は私に教えてくれませんでした。

「私は翌日、一人でまたその映画を観に行きました。ええ、父を観たくて……」

日本に戻ったあとは、学童疎開も経験しています。高等女学校を受験するために疎開先から東京に帰ってきたのが、1945年3月10日。その夜、東京大空襲に見舞われました。幸い防空壕の中で生き延びましたが、夜が明けて外に出ると、一面焼け野原だったのです。

その後、叔母の夫が新潟市内にある劇場の支配人になったので、新潟に疎開することに。終戦後もしばらく新潟で暮らしました。

高校2年生になり、同級生と、戦前のサイレント映画『瀧の白糸』(溝口健二監督)を観に行ったときのこと。その夜、観てきた映画の話をしたとたん、母と叔母は目を伏せて黙り込んでしまったのです。

しばらくして母は、「その映画に映っていたのは、あなたのお父さんです」と言い、顔を手で覆い泣き出しました。私は翌日、一人でまたその映画を観に行きました。ええ、父を観たくて……。

父は、戦前の銀幕スターで、ハリウッド・スターのルドルフ・ヴァレンティノにちなんで「和製バレンチノ」と呼ばれた岡田時彦。なぜ母は父のことを、私にずっと隠していたのか。理由は聞いていませんが、「普通の子」として育てたかったのではないでしょうか。

とはいえ芸事はさせたかったらしく、私は6歳の6月6日から日本舞踊を習い始めたのです。

谷崎潤一郎から贈られた芸名

高校卒業後に帰京し、母と私は叔母夫婦の家で居候生活となりました。ある日、母と叔母夫婦から、改まった感じで「話がある」と言われましてね。

正座して聞く私に、東宝の演技研究所で勉強をしないかと言うのです。間髪を入れず「私には向いていません」と答えました。でも結局、流されるように入所することになったのです。

研究所で基礎訓練を受けているうちに、川端康成さんの小説が原作の『舞姫』(成瀬巳喜男監督)に出演することになりました。後から思えば、お膳立てができていたのかもしれません。

私の本名は田中鞠子ですが、芸名が必要だということで、プロデューサーと一緒に谷崎潤一郎先生のお宅に伺いました。谷崎先生と父は親友で、父の芸名をつけたのが谷崎先生だったからです。

谷崎先生は、父の芸名と同じ「岡田」という名字を書いた後に、「マリコ」と読める漢字をいくつか書き、好きな字を選びなさいと言われました。迷わず選んだのが、ジャスミンを意味する茉莉子でした。

私は撮影所に行くのが憂鬱で、この1本に出たらもうここに来なくてすむと、毎日自分に言い聞かせていました。ところが撮影が終わる頃には、次の作品が決まっており――そこで、覚悟を決めたのです。これからは人見知りで内気な田中鞠子を封印し、意志の力で《女優・岡田茉莉子》を演じよう、と。

仕事は次から次へと決まり、いつも台本を何冊も持ち歩く生活になりました。おかげで居候生活を抜け出し、母と二人で暮らす家を用意することができたのはうれしかった。母の名字の表札がかかった一軒家に住まわせてあげるのが、私の夢だったのです。

でも、仕事には不満もありました。『芸者小夏』(1954年、杉江敏男監督)が大成功だったため、来るのは、芸者や水商売の女、アプレゲール(戦後現れた退廃的な女性)の役ばかり。

やはり私のどこかに、暗い影があったからかもしれません。同じような役ばかりやっていては、イメージが固まってしまう。もっと幅広く人間を演じたい。

そう思った私は、思い切って一人で東宝撮影所の所長に会いに行き、「これからは私をどんなふうに使っていただけるんですか?」と生意気な口をききました。確か22歳の頃です。ほんと、怖いもの知らずですよねぇ。

東宝をやめてフリーになるときも、一人で決断しました。いつの間にか、自立心が強く、偉い人に対しても臆せず自分の考えをハッキリ言う「岡田茉莉子」が育ちつつあったのです。

やがて映画産業は斜陽期を迎えますが、私は黄金期の最後の光芒を経験できました。成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督、木下惠介監督、市川崑監督、マキノ雅弘監督、稲垣浩監督など、錚々たる監督たちと仕事ができたのはこの上ない幸せでした。

後編につづく

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