大村崑、92歳の喜劇役者「最期のお迎えは<赤い霊柩車>で。9歳で父が他界。19歳で片肺を切除、寿命は40歳と宣告され。『やりたいことをやってやろう』と逆境が闘志に」

(撮影:霜越春樹)
テレビの黎明期からお茶の間の人気者として親しまれてきた大村崑さん。90代になった今も、毎日元気ハツラツだと言います。波瀾の人生を「笑い」で明るく乗り切ってきた、大村さんの原点とは
(構成:野田敦子 撮影:霜越春樹)

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【写真】幸せになるために、大村崑さんが肝に銘じている《5つの『な』》とは…

人の笑う顔が好きだから

5月に映画の舞台挨拶でスクワットを披露したんです。そしたら、共演者の橋爪功さんが僕を見て「怪物だよ」とあきれ顔でポツリ。彼のひと言に会場がドッと沸いてね。翌日には「大村崑の体力に仰天。怪物だ!」なんてネットニュースにもなりました。橋爪さんの絶妙な言葉選びのおかげで、僕のスクワットが映画の宣伝に一役買ったというわけです。

その「怪物」はただ今、92歳。ありがたいことに映画や講演、新曲のレコーディングなどオファーを多くいただき、「日本最高齢の喜劇役者」としてがんばっています。

時々、「なぜ、喜劇にこだわるんですか」と聞かれますが、答えはいたってシンプル。人の笑う顔が好きだからです。どんな人も、笑うとええ顔になるんですよ。

さっきまで仏頂面だった人が、笑った途端にええ顔になって身を乗り出し、舞台や映画を夢中になって見はじめる。「ああ、笑ってくれてはる。幸せやなあ」と、心の底から思います。

映画やドラマを「料理」とするなら、喜劇役者は「砂糖」です。すき焼きも醤油だけじゃおいしくならないでしょ。砂糖の甘みとコクが加わって初めて、何とも言えないまろやかさが出るんです。

僕たち喜劇役者の役割も同じ。台本という素材を〈笑い〉で味つけして、おいしい料理に仕上げるというわけです。僕のこと「さとうさん」と呼んでもいいですよ。(笑)

喜劇の楽しさを最初に教えてくれたのは親父です。劇場で働いていたので、ふらりと幼稚園に迎えに来ては、僕を肩車して神戸の繁華街・新開地の劇場に連れていってくれました。

楽屋で遊んでいるうちに、いつの間にか役者さんにセリフを教わり、衣装を着せられて舞台へ。幼い子が「かかさんの名はお弓と申します~」なんて浄瑠璃の名セリフを言うもんだから、お客さんは大喜びです。あのときの興奮や快感が、僕の原点といえるかもしれません。

でも、そんな幸せは長く続きませんでした。9歳のとき、親父は腸チフスで急死。生まれて間もない妹は母のもとに残り、僕は父の兄夫婦に引き取られることになって、家族はバラバラに。

伯母は性格のきつい人でね。「おばちゃん」と呼ぶと「お母ちゃんやろ!」と力いっぱいぶつんです。耐えられなくなって、母のもとへ家出したことがありました。しかしそこで見たのは、再婚相手の機嫌をうかがいながら怯えて暮らす母と妹の姿。僕の居場所なんてなかったんです。

仕方なく伯父夫婦の待つ神戸へ戻る日、地面に座り込んで泣き崩れる母の姿がバスの窓から見えました。後にも先にも、あんなにつらく切ない思いをしたことはありません。

その後も、試練は続きます。19歳で肺結核になり、片肺を切除。医師に「君は40歳までしか生きられへん。結婚はするな。子どもも持つな」と言われて。「どうせ長く生きられないならやりたいことをやってやろう」と開き直りました。逆境が闘志につながったんですから、人生はわからないものです。

子ども時代は寂しくて泣いてばかりでしたが、その経験が僕をちょっと複雑な人間に育て、「甘いだけじゃない砂糖」になれたのかもしれません。不器用ながらも、僕を精一杯愛してくれた二人の母のおかげでもあります。

86歳で始めた筋トレが与えてくれたもの

長い役者人生を振り返ると、いくつもの節目が思い浮かびます。2018年、86歳で筋トレを始めたことも大きな転機になりました。妻の瑤子さんに「一緒にやろう」と誘われたのがきっかけですが、実はほかにも理由があったんです。

その年、大河ドラマ『西郷どん』に西郷隆盛の祖父役で出演していました。足腰に不安はなかったものの、稽古から本番まで2時間以上も正座を続けると、さすがに立ち上がるのがつらくてね。役者を続けるなら、もっと鍛えなあかんと奮起したんです。

あれから6年。今も週に2回はジムに通っていますが、生活のなかでもトレーニングしています。

たとえば、咀嚼も立派な筋トレ。食事のたびに、何度も噛んで水分で喉を潤してから、ゆっくりと呑み込む。そうすれば、高齢者が陥りがちな誤嚥性肺炎を防げるし、便通もよくなりますから。

それに、日常のいろんな動作がスムーズになるなど、健康でいるだけで毎日がとても楽しいんです。年をとることを悲観しなくなりました。

森繁久彌さんに学んだ5つの「な」

もともと僕は、日々のささいなことに幸せを感じる人間です。瑤子さんや友人とおいしいものを食べに行き、笑いながらおしゃべりして。お会計が思ったより安かったら、もう言うことなし!

そんな幸せを味わうには、まず心が穏やかでなければいけません。そこで僕が肝に銘じているのが、尊敬する森繁久彌さんのモットー、「負けるな、腐るな、焦るな、いばるな、怒るな」の「5つの『な』」。最近は、特に「いばるな」「怒るな」を心がけています。

森繁のおやじさんは、本当に怒らない人でした。高級レストランの料理がまずかったとき、料理長を呼んで、「あなたが作ったの? 食べてみた?」と優しく尋ね、「のどちんこ、僕が手術してあげよか?」なんてとぼけたことを言ったんです。その場にいた一同、思わず噴き出しましたよ(笑)。

怒りをユーモアに変えて場をなごませながら、穏やかに真意を伝える。コミュニケーションの達人とは、あの人のことです。

昨年12月、子どもに頼らず自立した生活を送るために、夫婦でシニアレジデンスに引っ越しました。高齢者向け施設とはいっても、まわりは元気な人ばかり。自室を一歩出ればさまざまな人がいる。ちょっと面白い声掛けをしたり、名刺をもらったら顔と名前を覚えておいて呼びかけたりと、会話が弾むんです。

いつも笑顔で、いばらず、怒らず、言葉のキャッチボールを楽しむ。それが、いくつになっても幸せに生きるコツです。

赤い霊柩車で喜劇人生のフィナーレ

今朝、洗面所に行ったら、瑤子さんがまつげブラシを丁寧に洗っていたんです。「お母さんの遺品整理をしたとき、あんなにおしゃれだったのに化粧道具が汚れていてつらかった。だから私はきれいにしておきたいの」と言い、わーっと泣き出して。

「そうか、そうか。お母さんを思い出したのか」と言って抱きしめました。出会いから65年。こうして支え合いながら生きてこられて、本当に幸せだと思います。

僕ね、102歳まで生きることが目標なんです。亡くなったら、昨年まで31年間出演してきたドラマ、「赤い霊柩車」シリーズにちなんで、赤い霊柩車でお迎えに来てくれと頼んであって。葬儀業界には顔が利きますからね。(笑)

葬儀はとにかく盛大に。人が集まらなかったら、エキストラを200人ばかり動員してもらって(笑)。読経は短く、僕の昔の映像はたっぷりと。歌やダンスも入れて賑やかにいきたいですね。

最後はスクリーンから僕が、「皆さん、今日はようこそお越しくださいました。どうぞ幸せに長生きしてください。その代わり、今日来なかった人は恨み倒してやる!」なんて言って(笑)。

「さあ、お別れです。さようなら~」と『頓馬天狗』の歌が流れるなか、赤い霊柩車に乗って颯爽と去りたいです。

瑤子さんと別れることだけが心残りですが、お香典をすべて渡すので、そのお金で長生きしてもらいましょう。

それにしても、自分の葬式という「料理」にも「砂糖」をたっぷり入れなきゃ気が済まないなんて、僕は頭のてっぺんから足の爪先まで喜劇役者ですね。葬式の企画はほどほどにして、芸を磨き、筋トレに励んで喜劇役者の最高齢を更新したいと思います。

<大村さん流 幸せの極意>
ユーモアをまじえながら
言葉のキャッチボールを楽しむ

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