倉田保昭「ブルース・リーとの出会いと別れ、帰国後は『Gメン’75』に草野刑事役に。旧友ジャッキー・チェンとの再会でふたたび香港へ」

倉田保昭さんの写真

(撮影◎本社 奥西義和)
「ブルース・リーを知る男」としても有名で、ジャッキー・チェンとも親交があり、1970年代から香港映画で俳優として活躍していた倉田保昭さん。日本では『Gメン'75』(TBS)の草野刑事として記憶している人も多いのでは。今年出演作『帰ってきたドラゴン』が50年ぶりに上演されるにあたって、78歳にして現役の倉田さんがアクション俳優になるまでの道のり、健康の秘訣を聞きました。(構成◎上田恵子 撮影◎本社 奥西義和)

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【写真】心に響く…倉田さんの道場に掲げられた教え

ブルース・リーとの出会いと別れ

ブルース・リーと初めて対面したのは、1971年の末のこと。実際に会うまで、身長が180cmくらいある大柄で細身の人なのだろうというイメージを持っていたのですが、カンフーシューズを履いてセットに佇んでいる彼はごく普通の体格の青年でした。

とても明るくてノリがいい、いわゆるアメリカン・チャイニーズですよね。当時人気があったシンガーの、サミー・デイヴィスJr.みたいだなあと思ったことを覚えています。武道家らしく誰にでも分け隔てなく接する性格で、特にスタッフなど下の者に優しく、映画会社社長など上の者には強い人でした。

彼が亡くなった時は驚きました。まだ32歳という若さでしたから。僕はそのとき台湾にいて、彼と共通の友人であるロバート・チェンから連絡を貰ったのですが、「嘘だろう!? 死んだなんて信じられない!」と叫んだ記憶があります。「なんで死んだの!?」と訊いても、彼も「わからない」と……。本当に早すぎる死でした。

僕が香港に渡った1970年代初頭はクンフー/空手映画の黎明期で、まだ香港でも10本も撮っていなかった頃だったと思います。それ以降は作れば当たる時代になり、製作側の苦労はほとんどなかったと聞いています。

ただ、黒社会の人に脅されたり、ナイフで刺されそうになったりといったことは何度もありました。今なら大問題になりますが、当時は黒社会がエンタテインメント界を仕切っていた時代で、そうしたトラブルは香港や台湾では日常茶飯事だったのです。僕も若かったので、「まあそんなこともあるだろう」と、さして気にせずやり過ごしていました。(笑)

日本に帰国し、刑事ドラマ『Gメン’75』に出演

1975年からは、ドラマ『Gメン’75』に草野刑事役で出演。日本のお茶の間での認知度が一気に高まりました。ドラマは香港でも放送されていて、高い視聴率で話題になっていたようです。

この頃は家庭にいる時間より共演者やスタッフと一緒にいる時間のほうが長く、お正月も何も関係なくひたすら撮影していたことを覚えています。主演の丹波哲郎さん以外は自分で車を運転して移動するのですが、毎日のことなので、積み重なっていくと結構な負担になるんですね。

練馬での撮影が終わったら次は品川へ移動して撮影という感じで、来る日も来る日もあちこち行ったり来たり。あまりのせわしなさに今自分がどこにいるのか、季節は何なのか、考える余裕もなくなるほどでした。

倉田保昭さんの写真

(撮影◎本社 奥西義和)

後半になって香港編ができるまでアクションシーンもほとんどなく、「俺は何のためにここにいるんだろう?」「この先どうなるんだろう?」と疑問を感じるようにもなって。最終的に自分から、番組に降板の申し入れをしたのです。

ところが当時は、若造の俳優が自ら降板するなんて許されない時代です。生意気だと思われたのか、3年ほど仕事がない時期を過ごしました。今のように俳優が独立して自分のプロモーションを持てる状況でもなく、やることがないので、毎日日光浴ばかりして時間をつぶしていました。

旧友ジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーとの再会

そんな時に声をかけてくれたのが、旧友のジャッキー・チェンとサモ・ハン・キンポーです。日本ロケのために来日していた彼らが、「お茶でも飲まない?」と連絡をくれたのです。

2人に「倉田さん、いま何やってるの?」と訊かれたので「干されて干物になってるよ」と答えたら、「もったいない! 俺たちとやろうよ!」と言われて。すぐにサモ・ハン・キンポーが監督を務める作品3本と契約を交わし、再び香港映画に出演することになりました。

僕は本当に人の縁に恵まれていると言いますか、たぶん向こうでは言葉がわからなくてもニコニコして、いつも笑顔でいたのが良かったのでしょうね(笑)。ファンにも知り合いのように接していましたが、当時そんなふうに気さくなスターは香港にいなかったと言われました。

『帰って来たドラゴン』場面写真

(C)1974 Seasonal Film Corporation

久しぶりに参加した香港の現場は以前と変わらぬ雰囲気で、僕は「やっぱりこんないいところはないなあ!」と思いながら撮影していました。ゴールデンハーベストのスタジオで夜中の1時、2時まで撮影するのですが、それがもう楽しくてねえ(笑)。ただ、80年代のアクションは70年代より緻密になっていたので、NGの回数はグンと増えました。

セットの中は冷房がなく、暑い日は40℃くらいになります。それでも楽しかったんですよね。その頃になると、最初はダメだったご飯の上に鶏の足をのせた料理も、美味しく食べられるようになっていました。(笑)

最新作『夢物語』を上映

これは僕の劣等感から言うことなんですが、日本ではアクションをやっていると頭がないように思われるといいますか、「もっとお芝居のほうを深くやったら?」と思われる状況であるような気がするんですね。

実際にアクションシーンがある作品に出ても、始まった途端に「もう時間がないのでこのへんで」と強制的に終わらされてしまう。香港映画だったら、まだ準備体操もしていない段階ですよ(笑)。観る人が求めていないのか製作者が求めていないのかわかりませんが、残念だなあと思います。

テレビは細かな制限もあるだけに、なおさら難しいですよね。暴力的なシーンは悪影響を与えるから良くないと言われますし。その点、僕らがやっていたような香港映画は殴ってもあまり血が出ないし、明るいんですよ。だから子どもでも観られる。ナイフで刺して血がドバーッでは教育上良くないですが、そういうシーンはなかったから。

現在僕は、東京にある「創武館道場」で週3回、空手とアクションを、大阪ではアクションを教えています。通っているのはドラマや映画・舞台でアクション俳優やアクション監督を目指す人たちですね。

最新作は『夢物語』という短編映画です。コロナ禍で現場の仕事が途絶えたことで、現場の仕事はないわ、このままでは体が衰えてしまうと思い、親類の竹やぶを一週間借りて撮影しました。

15分という短い作品を上映するところもないので、海外の映画祭に出品してみたら2か所で賞をいただいて。そして今回、配給会社の方が『帰って来たドラゴン』と同時上映という形にしてくださり、皆さんに観ていただけることになりました。今も新作を撮っている最中で、こちらは今月中に完成させて上映します。

体型は変わっておらず、今も50年前の服が着られます

僕は78歳になりますが、今も毎日2時間のトレーニングを日課にしています。これはどんなことがあってもやっていますね。メインはストレッチで、あとは下半身の強化。マシンで歩いたりしています。

上半身は多少衰えてもなんとかなりますが、下半身はそうはいきません。立っていられないとか、片足を上げたらよろけるとか、階段を昇れないとかでは困りますから。

健康のため、お酒とタバコはやりません。と言いますか、もともとお酒は飲めないんです。だから昔も今も、打ち上げなどで皆がビールで「乾杯!」とやっている時も、僕だけはオレンジジュースで「カンパーイ!」とやっています。(笑)

食べ物は自分でコントロールして、夕方6時以降は食べません。体型は変わっておらず、今も50年前の服が着られます。体調もすこぶる良好で、家族がコロナに感染した時も僕だけはかかりませんでした。もともとがタフなんですね。ジャッキー・チェンには「僕より8歳も上なのに、なんで!?」とよく言われます(笑)。丈夫に生んでくれた両親に感謝です。

昔はアクションシーンで跳んでいる最中に「空中に2分くらい止まっていられるんじゃないか?」と思ったこともありましたが、今は「現役でやれるのはせいぜい80歳までかな」と思っています。来年はサモ・ハン・キンポーと一緒に1本撮ることになっていて、再び撮影のために海外に行く予定です。

7月に公開になる『帰って来たドラゴン』では50年前の僕を、そして『夢物語』は今の僕の姿をお見せしています。『夢物語』でも殺陣をはじめとしたアクションを披露していますが、自分としては「見劣りしていないのでは?」と思っているのですが、どうでしょう?(笑)

ぜひ映画館でご覧になって、判定していただければ幸いです。

『帰って来たドラゴン』ポスターを見せる倉田保昭さんの写真

(撮影◎本社 奥西義和)

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