ヴァイオリニスト前橋汀子「『今夜も生でさだまさし』から10年超。チャリティーコンサートでさださんと『精霊流し』をヴァイオリンで弾いたことも」

ヴァイオリニストの前橋汀子さん(右)とシンガー・ソングライターのさだまさしさん(左)

ヴァイオリニストの前橋汀子さん(右)とシンガー・ソングライターのさだまさしさん(左) (撮影:岡本隆史)
ヴァイオリニストとシンガー・ソングライター。音楽家としてのかたちは違えど、前橋汀子さんとさだまさしさんは幼い頃から音楽と向き合ってきました。交流が深く、今なお現役で活躍するおふたりが、これまでの道のりを振り返りつつ語り合います(構成=小西恵美子 撮影=岡本隆史)

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【写真】17歳で高校中退、ソ連に留学したという前橋さん

何が幸いするかわからない

さだ 初めて前橋さんにお会いしたのは……。

前橋 NHKの『今夜も生でさだまさし』におじゃまして。10年以上前になります。

さだ 深夜なのに快くおいでくださって。以来、「生さだ」だけでなく、僕が立ち上げた「風に立つライオン基金」で行っているチャリティコンサートにも出ていただきました。演奏をお願いしたうえに、「精霊流し」を一緒にヴァイオリンで弾かせていただいた。

前橋 前日、軽く合わせましたね。

さだ うちのスタッフが泣いてましたよ、感動して。その時、「僕はヴァイオリンに挫折した人間ですから、人前で弾くのが恥ずかしくて」と言ったら、「挫折してよかったわね」って前橋さんににこやかに言われて。さっきまで泣いていたスタッフが爆笑。おっしゃるとおりです。(笑)

前橋 ヴァイオリンのご縁ですね。さださんはヴァイオリンを習うために長崎から東京に通われて。

さだ 3歳で始めて、小学生からは夏休みに隔週で東京へ。鷲見(すみ)三郎先生の弟子でした。

前橋 あの時代、新幹線はまだなかったから大変でしたね。

さだ 急行列車で片道23時間57分かかりました。

前橋 ヴァイオリンを頑張ってらしたけど、いつしか歌で有名になって。

さだ 高校3年の初めに音楽大学を受験するのは諦めたんです。東京藝術大学を受けるには、浪人しないととても間に合わない状況でしたし、普通の生活のほうが稼げると思って。

前橋 大正解。(笑)

さだ 音楽が好きですから、音楽に関わって生きていきたいと思っていました。当時の流行り歌を聴いていると、俺でも書けるんじゃないかって思い上がったんですね。曲はできるけど、詞がないから自分で書く。誰も歌ってくれないから自分で歌う。

大学は國學院大学に行ったんですが、70年安保直後の頃で、学生は誰もがモチベーションを失っていたし、僕も思うように音楽ができなくて心がさすらっていました。居酒屋でアルバイトばかりして、酒飲まされて黄疸が出て、長崎に逃げ帰ったのが歌い始めたきっかけです。

前橋 何が幸いするかわかりませんね。

さだ 高校時代に遊び半分で一緒にバンドをやっていた吉田政美が、プロの世界から長崎に逃げてきたんです。僕の家に1年住み込んで、2人でギター弾きながら歌っているうちに学園祭で歌うことになって。それが広まって、スカウトされちゃったんですよ。(笑)

前橋 すぐにヒット曲が出ましたよね。歌い続けて50年。すごい。

10代からの真剣勝負

さだ 音楽を仕事にするのは大変なことです。前橋さんのような天才ばかりではないですから。特にヴァイオリンを弾いて生活できるのは、選ばれた人じゃないと。ソリストはもっと難しい。今は上手な若手がすごく多いですが、誰もが順調に活躍して巨匠になるかというとそんなことはない。挫折してよかったね、僕は。(笑)

前橋 今のさださんがあるのは挫折したからで。(笑)

さだ ただ、「この歌を歌って」と言われた時、譜面を見て単旋律だったら初見で歌えるのは、ヴァイオリンをやっていたおかげです。前橋さんは小野アンナ先生に師事されていたんですよね。

前橋 5歳からです。金髪の白系ロシア人の、とても厳しい先生でした。貴族の出身で、家の中でもハイヒール。シルクのブラウスに黒いタイトスカートを着て。

さだ おしゃれだったんですね。子ども心に、レッスンに行くのはイヤじゃなかったですか?

前橋 母が厳しかった。(笑)

さだ お母さまですね、やっぱり。ヴァイオリン弾きは〈お母さま〉が大事。うちのお母さまも(笑)、ヴァイオリンのことはわからないのに厳しかった。もちろん長崎の先生も怖かったですよ。今思えばプロを育てるための教育をしてくれたと思います。

前橋 どんなふうに?

さだ 土曜になると生徒たちが集められてソルフェージュ(読譜など音楽理論の基礎を学ぶレッスン)をします。聴音は必ずやりましたね。日曜はオーケストレーション(各楽器のパートを割り当て、音色や音量、演奏法などを指示する)を朝9時から午後5時まで。

前橋 ええー。スパルタですね。

さだ 食事とおやつの休憩はありました。上手になって弾くポジションの順位が上がると、譜面が配られて初見奏です。

前橋 その時、さださんは小学生でしょう?

さだ はい。僕は中学に入る時、ヴァイオリンのために1人で上京して下宿生活を始めましたから。でも前橋さんは、東京どころかレニングラードに行かれたわけです。

前橋 17歳で高校を中退して、レニングラード(現・サンクトペテルブルク)音楽院に留学しました。横浜港から船に乗って太平洋を北上、津軽海峡を渡って日本海に出て、ナホトカまで3日かかりました。ウラジオストクまで汽車で24時間。シベリア大陸を横断し、モスクワ経由でレニングラードへ。

さだ 横浜からどれくらいかかるんですか?

前橋 1週間かかりました。冷戦の1960年代ですから。スターリンが亡くなってから8年しか経っていない。今思うと知らない土地によく飛び込んでいけたな、と。

さだ なぜ、留学したいと?

前橋 世界的ヴァイオリニスト、ダヴィッド・オイストラフの素晴らしい演奏を聴いたからです。日ソ国交回復の前年に初来日したオイストラフのコンサートが、日比谷公会堂で開かれました。母はどうしても私に演奏を聴かせたいと、高価なチケットを1枚だけ買って。コンサートが終わるまで、母は階段の下で待っていました。

さだ どんな演奏だったのでしょう?

前橋 初めてプロの見事な演奏を聴きました。ヴァイオリンを自由自在に、まるで体の一部のように弾く演奏に触れ、子ども心にもすごく感動して。ソ連に行けばあんなふうに弾けるようになるんじゃないかと(笑)。それでどうしてもソ連で勉強したいと思ったのです。

さだ レニングラード音楽院といえば、1回生がチャイコフスキーですね。

前橋 私は音楽院の創立100年記念の行事の一環で、共産圏以外から選ばれた初の留学生でした。

さだ チャイコフスキーの後輩じゃないですか。

前橋 そうです。(笑)

さだ 羨ましい。「私の先輩、チャイコフスキーなんです」って言ってみたい。

<後編につづく

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