五木ひろし「地味にすごい」故郷・福井県。大河で話題の紫式部もいた!メガネにハープ…記念すべき年に故郷を歌う

五木ひろしが歌手生活60年を迎える今年、3月に発売される新曲が『こしの都』。
故郷「福井」を歌った壮大でドラマチックな楽曲となっている。カップリングは、『ひろしま雨情』。誕生秘話も含めて、新曲にかける思いを聞いた(構成◎吉田明美)

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【写真】出待ちで男性が持っていたという達筆の封筒

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地味にすごい

――歌手・五木ひろしは福井県美浜町出身、15歳でまずは京都へ、そして上京し作曲家上原げんとの門下に入り、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝、「松山まさる」として歌手の第1歩を踏み出す。さらに6年後、不退転の決意で臨んだ『全日本歌謡選手権』で10週勝ち抜き、「五木ひろし」として再デビュー。爆発的な大ヒットとなった『よこはま・たそがれ』で一躍トップスターの座に上り詰める。福井の街を出てから8年後のことだった。1981年には福井県民栄誉賞を受賞。まさに故郷に錦を飾っている。

今年、3月16日、これまで金沢どまりだった北陸新幹線がついに福井・敦賀まで延びます。うれしいですね。福井県民にとっては念願の開通です。これは福井の歴史の中でも100年に1度あるかないかの歴史的瞬間です。

しかも、僕も歌手生活60年。来年は五木ひろしになって55年と、まさにいろいろなことが重なっており、合田道人さんが詞を書いてくれたものに、僕が曲をつけて、故郷福井の素敵な歌ができあがりました。『こしの都』の「こし」というのは越前の「越」です。この歌は私の集大成です。

2月に能登大地震のお見舞いも兼ねて福井県知事を表敬訪問したのですが、その時、駅で目についたのが「地味にすごい、福井」というポスター。北陸新幹線PRのためのキャッチコピーなんですが、「地味にすごい」って、本当に福井をよく表しているなあと感心しました。

福井って、北陸地方では1番人口も少ないし、多くの人に地味だと思われているんですよね。でも実は「社長の輩出率」や「小中学生の全国学力テスト」、「女性の就業率」の都道府県ランキングはいつも上位。そして「幸福度ランキング」も常に高いんです。すごいでしょう? 確かに福井県人は控えめなんです。PRもあまりうまくない。でも、そこがいいんですよ。

『こしの都』の2番の歌詞に「越前福井は情けがあつい」とありますが、本当に福井の方々はみんな素朴だけど、温かい。そしてふるまいに余裕があるんです。江戸時代、大坂や蝦夷を結んだ「北前船」が敦賀港などに寄港していたこともあって、経済的にも豊かな土地であったことも関係しているかもしれません。

美浜・五木ひろしふるさとマラソン

僕は福井県出身ということで福井県民栄誉賞をいただいてから、何か地元に恩返しをしたいと考えて、1989年から毎年、美浜・五木ひろしふるさとマラソンを開催しています。

今年で36回目になりますが、若狭湾国定公園の海岸線コースを走るコースは本当に風光明媚でね。日本海の潮の香りを感じながら走っていただけるマラソン大会として、すっかり定着しています。

このマラソン大会のおかげで、年に1度は福井に行き、お墓参りをしてくるということも習慣になっています。

今年も5月に開催予定なので、たくさんの方に参加していただきたいと思っています。

風光明媚な福井

『こしの都』の歌詞に、福井の歴史やお国柄などが盛り込まれているので、今回、あらためて福井についていろいろと勉強させていただきました。(笑)

歌詞に「今も匠が生きている」とありますが、鯖江のメガネを始め、漆器や刃物の製造も盛んです。そしてあまり知られていませんが、楽器のハープの製造会社が国内で唯一、福井県にあり、なんと世界のシェアでも2位を占めているんです。

また、「紫式部もいた」とあるのですが、僕、紫式部が若いころ福井にいたということは知らなかったです。知らなかったことを知るって、ワクワクしますね。
越前守である父・藤原為時と摂津守の娘である母との間に生まれた紫式部は、今の越前市あたりに住んでいたらしいです。大河ドラマの主役でもある紫式部ゆかりの地だというので、また誇らしい気持ちになりました。

恐竜の街としても知られているし、おいしいものはたくさんあるし、風光明媚な福井。ぜひ北陸新幹線を使ってたくさんの方に、福井にいらしていただきたいです。

子どものころは福井を出たいと思っていた

子どものころ、福井で過ごしていたころは、早く福井を出たいと思ってしまっていました。

父親の影響で小さいころから歌が好きになり、どんな歌でも歌えるようになっていた。将来は歌手になりたいと夢見ていたのに、福井にいるとチャンスがまったくないんです。

のどじまん大会もないし、スカウトされる機会にも恵まれない。それが悔しくてね。1963年、中学の卒業式の翌日、京都に住む11歳年上の姉を頼って上洛しました。

でも、福井のことを忘れたことはありません。歌手五木ひろしのベースを創り上げてくれたのは、やはり福井だと思っています。

ひろしま雨情

出待ちで男性が持っていたという達筆の封筒(写真提供◎五木さん)

カップリングは『ひろしま雨情』という楽曲で、これも僕が作曲しています。これまで、いろいろご当地ソングを歌ってきましたが、広島は初めて。

この曲、実はとても不思議なご縁でできあがったんです。

昨年、広島でコンサートを行ったあと、会場の外でファンの方々が「出待ち」をしてくださっていた。いつものように車の中からみなさんに手を振ってご挨拶しながら進んでいったんです。

すると、その中にA4ぐらいの大きさの封筒を持って、こちらに向かって振っている男性が目につきました。いや、目についたのは、その封筒。とても達筆な筆文字で「五木ひろし様」と真ん中に書いてあったんです。
それが気になって、車を止めてもらい、窓を開けてその男性から封筒を受け取りました。そしたらその中に「ひろしま雨情」の歌詞が入っていたんです。

これまでも、ファンの方々から歌詞をいただいたことはありました。事務所に送られてきたり、直接手渡されたことも何度もあります。とてもありがたいのですが、残念ながらそのまま使わせていただいたものはほとんどなかった。でも、今回の『ひろしま雨情』は地元ならではの視点で書かれ、ストーリー性のあるとてもいい歌詞だったんです。

今だからこそ生まれた楽曲

世界にその地名を知られている「ヒロシマ」ですが、今回の歌詞に出てくる地名は、どこも知りませんでした。僕は原爆ドーム、広島カープ、マツダぐらいしか浮かばず…。

でも歌詞を読むと、男女の情景がイメージできて、曲もすぐに浮かんできた。すぐご本人に「使わせていただきたい」と連絡し、僕にとっては初の広島県を歌った「ムード歌謡」に仕上がりました。

歌手生活60年の記念の年に出す「こしの都」と「ひろしま雨情」。どちらも、今だからこそ生まれるべくして生まれた楽曲のような気がしています。

特に「こしの都」は故郷福井の記念すべき歴史的なタイミングに合わせて出すことができて、とてもうれしい。ぜひたくさんの方に聴いていただき、歌っていただきたいと思っています。

※次回は「五木ひろしが語る~~昭和歌謡史(10)」をお届けします。

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