大河ドラマ『光る君へ』脚本家・大石静「2話目を書き終えた頃に夫が他界。介護と仕事の両立は困難だったが、45年間で一番優しく接した時間だった」

「2021年の春ごろにお話をいただき、〈紫式部を描く〉というテーマを聞いて少し悩みました」(撮影:大河内禎)
年が明けてスタートした『光る君へ』。大石静さんが大河ドラマの脚本を手がけるのは、『功名が辻』以来、18年ぶりとなる。わかっていることの少ない紫式部と平安時代をテーマに、大石さんの描く1000年前の物語が幕を開けた(構成=山田真理 撮影=大河内禎)

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【写真】紫式部として『源氏物語』を書くことになるまひろ(吉高由里子)が辿る道は…

本名も不明の人物を題材に

『光る君へ』の放送はまだ始まったばかりですが、この仕事にとりかかってすでに2年半が過ぎました。大河ドラマであってもほかのドラマであっても仕事の厳しさに変わりはないですが、なにしろおよそ50話となると、普通の連続ドラマの5クール分、ぶっ通しで書かなければいけません。

いまは29話目を書き上げたところですけど、最終話を書き上げるまでホッとするときは訪れないでしょうね。

2021年の春ごろにお話をいただき、「紫式部を描く」というテーマを聞いて少し悩みました。平安時代に関する知識は、歴史の授業で学んだ程度。私でもピンとくるような有名な人物や事件がまったくないのです。『源氏物語』という題名は有名ですが読んだこともないし、紫式部は本名も生没年も定かではありません。

紫式部の父親は漢学に長けたインテリで、母はどうやら早くに亡くなっている。貧しいながら文化的レベルの高い家庭で育ち、できの悪い弟がいた。父の赴任で越前に行き、京に戻って結婚し、3年に満たない結婚生活で夫と死別。『源氏物語』を書くにあたっては藤原道長のバックアップがあったと思われる。

わかっているのはこのくらいです。なので脚本家として自由に想像を膨らませることができるのではないかと思い、この仕事を受けようと決意しました。

道長との関係については、『源氏物語』を書く前に「知り合いではなかった」という明確な記録がない以上、知り合っていた可能性もある。2人が少年少女期に出会っていたら、相手が親の仇だったら……などと考えているうちに物語が動き始めました。

皆さんもご存じの通り、紫式部は1000年以上読み継がれる物語を生み出した人。1964年にユネスコが「世界の偉人」を表彰した際、日本人でただ一人選ばれたのが紫式部です。

日本では多くの人が、『源氏物語』を「男女が寝たり起きたりしているだけのロマンス小説」と捉えていますが(笑)、世界でいまも研究が重ねられるほど評価されているのは、時の政権批判や文学論、下級貴族の娘として苦労するなかで培われた人生哲学などが、物語の端々に盛り込まれているからでしょう。

勉強や取材を重ねるうちに感じた彼女の魅力やこの時代の面白さを、1年かけて描いていこうと思います。

45年、そばにいた人がいなくなって

2話目を書き終えたころの2022年12月、夫が他界しました。その3年くらい前から体力的に弱りつつあるのは感じていたのですが、ある日血中の酸素濃度が下がり、呼吸不全を起こして。入院したら肺の手術が難しいところにがんが見つかりました。79歳という年齢もあり、治療は一切せず自宅に帰ることにしました。

いまの介護保険制度では、一人暮らしの人であれば訪問介護による身体介護のほか、掃除や洗濯、食事の準備や調理といった生活援助サービスを受けられますが、健康な成人の同居家族が一人でもいると生活援助面でのサポートは望めません。

病人に三度の食事をさせ、介護をしながら大河ドラマの脚本を書くのはやはり難しく、執筆はストップしてしまいました。

ケアマネジャーさんも自治体にかけあうなど、いろいろ苦心してくれて。でも結局、何もかも私が担わなければならない老老介護の典型となりました。介護と仕事の両立には、まだ多くの問題が立ちはだかっているのを痛感しましたね。

最後は容体が急変して病院で息を引き取りましたが、やるだけやったと思い、涙も出ませんでした。夫が恐れず、苦しまずに人生を終えられるように――それをプロデュースすることが妻としての最後のミッションだと思って、こちらの命も削れるほどやりましたので。

いくら夫がわがままなことを言っても「そうね」と応対したし(笑)、呼吸がしづらいのでディスカッションするほどの会話はしませんでしたが、最後まで話はできました。45年一緒にいて、こんなに優しく接した時間はほかになかったんじゃないかと思います。

舞台監督だった夫とは20代半ばで結婚しましたが、8歳も上ですから、知り合ったときから男女というよりは兄妹や親子に近いような感覚がありました。私が芝居をやっていたころ、劇団を立ち上げるときも背中を押し、苦しいときは支えてくれた。

ドラマの脚本を書くようになった私にも全面協力で、なにより自由に羽ばたけ、と言ってくれました。「君が輝いていることが一番。家のことなんてしなくていい」と考える人だったので、いま私はこの仕事ができているのだと思います。

45年間、いつもひたひたと仲良かったわけではないし、いやだなあと思うところも山のようにありました。ほかの人をいいと思うこともありました。年を取ってからは「おとうさん、いつまで生きてんのよ」なんて憎まれ口をきいて、夫も「だからといって、すぐ死ねないからなあ」なんて苦笑いで返したりしていたのですけれど。(笑)

最後の日々は、このための45年だったのね、と思えるほどでしたから、その点で悔いはありません。ただ、45年そこにいた人がいなくなるのはなかなかに寂しいものです。「あるべきものがない」感覚なんでしょうか。片腕をなくしたくらいの欠落感はあります。

ただ私には仕事が待っていて、いつまでもその感傷に引っ張られていてはいけない、と思いました。

思い切って部屋を片付けた

私の友人には、3年前に亡くなったご主人の部屋をそのままにして、「クローゼットを開けると、いまも夫の匂いがするのよ」と嬉しそうに話す人がいます。その気持ちも、よくわかりますね。

でも私はこのままだと前に進めないと思ったので、ひとりでささやかな葬儀と納骨を済ませたあと、思い切って夫の部屋を片付けました。ちょうどそのころ書いた『星降る夜に』というドラマに、北村匠海さん演じる遺品整理士が出てくるのですが、依頼したのは取材の際にお世話になった会社です。

早かったですよ。当日はプロフェッショナルが3人来て、2時間ほどできれいさっぱり。3人のなかには査定ができる人もいるので、「このコートは売れます」なんて言って、代金から引いてくれるんです。財布は処分せずによけておいてくれて、「これが入っていましたよ」と渡してくれたのが私の若いころの写真だったりしてね。(笑)

夫の物で残したのは、大工道具くらいでしょうか。寂しいけれど、いまの私に遺品を眺めながらしんみりしている時間はない。納骨したときも、「もう来ないからね、おとうさん」とお墓に声をかけたくらいです。

一周忌にはお経をあげてもらいましたが、夫は「いっぱい思い出してくれ」と言うような人じゃない。「君はまだまだ素敵なことをやって、生きろ」と言うと思います。

執筆が止っていることは知っていたので、夫には「迷惑をかけている」という意識があったのでしょう。医師の余命宣告より3ヵ月も早く逝ったとき、ああ、私のために早く旅立ったんだな、と感じました。

<後編につづく

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