今陽子さんが『徹子の部屋』に出演。認知症の母の介護を語る「胸の激痛で緊急搬送、労作性狭心症だった。家に残した認知症の母を心配しつつ手術に臨んだ」

「手術前、激痛に耐えながら、まず私が心配したのは、家に一人残してきた母のこと。『母を一人残しては死ねない』という思いでした。」(撮影:宮崎貢司)
2023年3月2日の『徹子の部屋』に今陽子さんが登場。90歳で認知症になった母の介護のストレスが、医師からのあるアドバイスで軽減。現在96歳になる母の症状も改善してきたと語ります。それに合わせ、3年前の大病や、認知症になった母への気持ち、これまでの人生について語った『婦人公論』2022年7月号の記事を再配信します。

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55年前、ピンキーとキラーズのボーカルとして、「恋の季節」をはじめとするヒット曲で国民的アイドルとなった今陽子さん。その後、ソロシンガーに転向、70歳になる現在もライブやミュージカルなどで活躍中だ。ところが3年前、突然病に襲われたという。大病を経て気づいた、心身のしなやかさと元気を維持する秘訣とは――
(構成=福永妙子 撮影=宮崎貢司)

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【写真】1968年の「ピンキーとキラーズ」 5人で帽子を片手に 

呼吸ができないほどの痛みに襲われて

体に異変が起きたのは、67歳のときです。2019年9月、胸の激痛に襲われ、救急搬送されました。あまり耳慣れない、労作性狭心症と診断されて……。これは、心臓の血管が狭くなり酸欠状態になる病気で、カテーテルを心臓まで挿入し、バルーンで血管を押し広げて血流を回復させる緊急手術を受けたのです。運良く、すぐに手術で対処できましたが、好きな歌が歌えるのも健康であればこそと、しみじみ感じました。

じつは、その3ヵ月前くらいから胸が締めつけられるように痛むことがあり、心臓の専門医を訪ねていたんです。医師からは、LDL(悪玉)コレステロール値の異常と軽い狭心症を指摘されて。胸に痛みを感じたときは、治療薬のニトログリセリンを服用していました。

9月9日の朝、目覚めたときからどうも気分が優れませんでした。同居していた92歳の母のために朝食を作っていると、胸が締めつけられるように痛みだして。薬を飲んでも呼吸困難になるほどの痛みが続き、「これはただごとではない、病院へ行かなければ」と思いました。

母に「ちょっと待っててね」と声をかけて家を飛び出したら、外は土砂降りの雨。タクシーもつかまらず、襲ってくる痛みでその場にしゃがみ込んでしまいました。ふと交番が目に入り、「そうだ、救急車を呼べばいいんだ」とようやく気づいたんです。

いつ心不全、心筋梗塞を起こしてもおかしくない状態だったそうです。手術前、激痛に耐えながら、まず私が心配したのは、家に一人残してきた母のこと。母はその3年前から認知症の症状が出ており、私が介護をしていたのです。「母を一人残しては死ねない」という思いでした。

私には弟がいるので、「母のことをお願い」と急いで電話。翌日から私は仕事で東京を離れなくてはならず、母をショートステイに預ける予定だったのですが、それも弟が引き受けてくれました。

もう一つの心配事は、仕事のこと。それはクルーズ客船「飛鳥II」での船上ライブでした。2日後の本番に向けて、翌日には寄港地である京都の舞鶴港まで移動しなければならなかったのです。

絶対、仕事に穴は空けられないと思った私は、「明日には、どうしても退院したいのです」と先生に懇願しました。所属事務所にも、「いまから心臓の手術をするけど、明日には船に乗る」と伝えて。

15歳でデビューしてからの長い芸能生活で、私は一度も仕事に穴を空けたり、代役を立てたことはありません。このときも胸の激痛に耐えながら、チケットを買ってくださったファンの方たちのことを考えていました。

そして手術は無事成功。幸いなことに詰まった箇所が太い冠動脈ではなく、心臓周辺の細い血管だったので、「無理をしないように」と念を押されながら、仕事復帰の許可もいただき、手術から2日後、船上での2回のライブを無事に終えたのです。

「60代半ばになってようやく悟りました。私も人の子、病気もするし、確実に歳をとっているのだと」

しっかり者の母の変化に泣いた

健康には自信があったのに、病気になるなんて。それも心臓の病とは、と驚きました。「心臓に毛が生えている」と言われていた私がです(笑)。若い頃からずっと忙しいのがあたりまえで、心身ともに無理をして疲れていたんだなと思います。同時に、母の介護をめぐるストレスもあったのではないかと――。

母は料理上手で、私に舞台の仕事が入ると、スタッフの分までお弁当を作ったり、私の個人事務所の経理事務をこなしたりと、昔からずっと私を支えてくれていました。

そんな、しっかり者で明るい母の様子に変化があらわれるようになったのは、90歳頃から。ボーッとする時間が多くなり、バッグやものを置いた場所を忘れる、待ち合わせの場所にたどり着けない、ということが続いたため、専門家に診てもらったところ、認知症と診断されました。

ショックを受けましたね……。そのうえ、日々変わりゆく母の姿を受け入れることもつらかった。認知症の症状に振りまわされてイライラして、声を荒らげることも。そのあとはひたすら自己嫌悪です。母は母で戸惑っていて、「迷惑かけてごめんね」と詫びながら涙するし、二人して泣き続けた日もありました。

そして仕事を続けながら、初めて経験する介護で、大忙しに。区役所に何度も足を運び、ケアマネジャーさんを探す。要介護認定を受け、さあデイサービスはどうする? ショートステイは? と、ヘトヘトになりました。日々のあれこれがストレスとなって積み重なり、心臓に負担をかけていたのでしょう。

自分は健康そのもの、病気なんかしない。自信満々でそうタカをくくっていた。でも、60代半ばになってようやく悟りました。私も人の子、病気もするし、確実に歳をとっているのだと。

過密スケジュールがあたりまえだった頃

15歳で歌手デビューして、その翌年ピンキーとキラーズのボーカルとして歌った「恋の季節」が大ヒット。日本全国で《ピンキラ旋風》が巻き起こり、脱退までの4年間は殺人的なスケジュールでした。1日に25本のテレビ収録をしたことも。当時は歌番組がたくさんあり、撮りだめをしておくのです。

1日の睡眠時間は1、2時間とれればいいほう。専属のお医者さんと看護師さんがついていて、移動中に点滴です。39度の熱があってもコンサート会場へ。2時間歌いきったあと、救急車で運ばれたこともありました。それで1日休んでまたツアーへ。

私の10代は、身も心も疲れ果てていました。歌手の多くが罹患する声帯ポリープができたときは切除したくらいで、とくに病気をすることなく乗り切れた。若さはもちろんですが、持ち前の丈夫さもあったのでしょう。

売れたのは嬉しいしありがたかったのですが、ずっと 《「恋の季節」のピンキー》のイメージを求められる。今ではピンキラ時代の歌は宝物と思っていますが、ジャズやポップスを歌いたくてこの世界に入った私は、やりたい仕事がなかなかできず苦しんでもいたのです。

そこで、23歳を目前にしたとき、結婚に逃げてみました(笑)。結局、《奥さん》というものになりきれず、3年8ヵ月しかもちませんでしたが。

28歳でニューヨーク留学を決めたのは、自分を立て直し、再スタートしたいという思いがあったから。あちらでは歌やダンスなど、基礎を一から学び直しました。アパート探しに始まり、何もかもを一人でやらなければいけない生活。精神的にタフになりましたね。

アーティストとしての技術の向上はもちろん、身も心も鍛えてくれた、それがニューヨークでの2年間でした。

<後編につづく

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