『報ステ』『水戸黄門』『K-1』…伝説の番組の裏側にうごめく“テレビ局の思惑”とは

 作り手がいかに力を入れて制作したとしても、人気=視聴率を獲得できなければ放送が打ち切りになってしまう。テレビ番組制作はある種残酷な一面を持つといえるかもしれない。弱肉強食な世界で、どのようにご長寿番組は誕生するのだろうか。その背景にはテレビスタッフの創意工夫と努力の姿があった。

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 ここではフリージャーナリスト小田桐誠氏の著書『テレビのからくり』(文春新書)を引用。伝説の番組を生み出した関係者たちが、テレビ番組制作の裏側を明かす。(全2回の1回目/後編を読む)

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『報道ステーション』が目指すもの

 久米宏の後を受けた古舘伊知郎の初日第一声は、「申し訳ありません。スポーツ、バラエティとやってきたんでニュースキャスターではありません。これからニュースキャスターになります」。番組スタートから1カ月の古舘を見ていて、「キャスターになります」との宣言を実行しようと、肩に力が入りすぎ、眉間にシワを寄せすぎているとの印象を受けた。 

 久米と古舘は、多少軽佻浮薄ながら歯に衣着せずモノを言う共通点がある。ちなみに久米は再三再四、「自分はキャスターではありません。司会者です」と強調していた。『報ステ』について、同局の広瀬道貞社長は4月27日(編集部注:2004年時)の定例会見でこう語っている。

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「古舘さんは押しつけがましくない。加藤千洋コメンテーター(朝日新聞編集委員)とのバランスがよい。視聴率は『ニュースステーション』並みの14%台を期待している」

基本コンセプトは「正直なニュース」

『報ステ』のプロデューサーを務めるのは蓮実一隆。88年テレ朝に入社後、『サンデープロジェクト』でアシスタントディレクター、ディレクター、チーフディレクターを務め、『たけしのTVタックル』や視聴者との双方向による生のIQテスト番組『テスト・ザ・ネイション』プロデューサーから『報ステ』に転じた。その蓮実は、『GALAC』2004年6月号(編集発行・放送批評懇談会)で、

〈数字の取り方は僕もわかってるつもりですが、明日20%取ることがこの番組にとって得なのか。最低でも2年、3年やっていく番組として、それをやると結局尻すぼみ。(番組は)7割の伝統、3割の挑戦。7は『ニュースステーション』の財産で、3が新しい挑戦。凄まじくおもしろくはなかったけど、安心してニュースが見られるというのが最大の戦略〉

 と強調した。「正直なニュース」を基本コンセプトとし、その意味するところとして、わかったふりをしない。自分が正しいと思い込まない。視聴者をだまさないの三つを挙げ、視聴率との関わりで次のようにも語っている。

〈視聴者をだまさないのは、「CMの後はジャイアンツ」と言ったのに、なかなか出てこないことがよくある。こういうウソはつかない。これは視聴率との葛藤でもあります。視聴率を捨てるというのは、僕たちにとっては大きな決断なので〉

難産だった『水戸黄門』

 そう、視聴率抜きには番組は成立・継続できないのである。濃淡の差はあっても、制作者の視聴率に対するこだわりは強い。もちろんテレビ局の経営者もだ。

 たとえば、69年8月に始まったTBSの『水戸黄門』が今日まで続いているのは、20%を超える高い平均視聴率を維持してきたからである。

 番組の放送枠月曜日20時は、56年から松下電器産業が一社提供する「ナショナル劇場」として定着、『青年の樹』『七人の孫』などのヒット番組を生み出していた。同枠のキーマンが松下電器の東京宣伝部員だった逸見稔。テレビ番組制作の素人である逸見が企画をリードできたのは、テレビ草創期で関係者全員手探りという事情があったからだ。今でも言えることだが、制作経験の長短やテレビ技術に知悉しているかどうかではなく、ヒット番組の産みの親こそが偉いのである。

「ナショナル劇場」で数々のヒット作を送り出した逸見だが、60年代半ばからTBSとドラマ路線の喰い違いが目立ち始め、松下提供の仕事の重心を他局に移していた。それに合わせるかのように「ナショナル劇場」は低迷、TBSは逸見に「視聴率をとれるドラマを」と復帰を要請した。同時に松下幸之助会長からは、「世のため、人のためになる番組を作れ」という号令が下った。

日本人の心のふるさと

 逸見の頭をよぎったのが、『忠臣蔵』の大石内蔵助と並ぶ国民的ヒーロー、水戸黄門である。フジテレビでほぼ一貫して時代劇を作り続けてきた能村庸一は、その著書『実録 テレビ時代劇史』(東京新聞出版局)でその企画の意図をこう書いている。

〈逸見の狙いは、時代劇をホームドラマとして描いていく事にあった。すなわち水戸の隠居を中心とする助さん格さん、風車の弥七は、主従というより家族に近い人間的な触れ合いのある暖かいもの。いわば『七人の孫』の時代劇版であった。うっかり八兵衛、かげろうお銀と次々三国志風にファミリーが広がっていく中で、黄門主従は「旅」というキーワードで、日本人の心のふるさとに触れた〉

 頑固で茶目っ気のある好々爺黄門さまにとって、助さんや格さんは主従というより孫のような存在というわけだ。

 だが、TBSは難色を示した。月形龍之介主演の『水戸黄門』を放送したばかりという事情に加え、NHK大河ドラマの向こうを張った中村錦之助主演の大作『真田幸村』が空振りに終わり、局内に時代劇アレルギーが蔓延していたからだ。

 激論の結果、松下側の意向を受けた広告代理店の電通が局を介さず、関連制作会社の「C・A・L」に制作を発注することになった。つまりTBSは放送枠を提供するだけで、制作・著作権はC・A・Lに帰属するという変則的な形が生まれたのである。TBSは著作権という大きな果実を失うことになったが、「勧善懲悪のマンネリ番組」「究極のVSOP(ベリー・スペシャル・ワン・パターン)番組」と言われながらも高視聴率番組を確保することになった。

ブルース・リーからもヒントを得た!?

 番組の基礎を築いた初代プロデューサーの逸見と二代目プロデューサー西村俊一(二人とも95年に逝去している)は、エンターテインメント性を徹底的に追求するとともに、視聴率にも強いこだわりを見せていた。第8部から第14部までアシスタントプロデューサーを務め、いったん番組から離れたものの第28部で復帰、九代目プロデューサーに就いたC・A・Lの藤田知久がこう語る。

「逸見さんは、(松下退社後に構えた)事務所の近くにある店で古今東西のビデオ、LD(レーザーディスク)を買ってきては、のべつまくなしに見ているんです。少しでも『水戸黄門』に生かせるヒント、アイデアがないかというわけです。西村さんもブルース・リー主演の映画や長編マンガのビデオをよく見ていました」

 西村は視聴率とその分析を非常に重視したという。視聴率調査の結果が出る朝、西村は「今回はいくらだった」と外から電話してくる。30%台なら「まあまあ」、20%台の数字が出ると「どうしてだ」。年代別の視聴率獲得目標も設定していた。

「裏番組の視聴率が載っている資料に、毎回私なりの分析を書くんです。内容は他局の編成、その回のストーリー展開や演出の仕方などです。西村さんは毎シリーズの構成、レギュラー陣の役割と配置など、緻密な計算をした上で全体を統括していましたね」

 と藤田は振り返る。シリーズの構成を受け、毎回の脚本作りが行われる。プロデューサーや監督、スタッフが舞台となる現地で取材し、綿密な調査をし、膨大な資料を集めてくる。そしてディスカッションが重ねられ、脚本が完成する。その脚本をもとに演出していくわけだが、16年間の助監督を経て第16部(86年)で監督デビューした矢田清巳はこう話した。

「作る側からすればマンネリはあり得ません。確かに同じようなカットはよく撮りますし、同じようなストーリー展開ばかりに見えるでしょう。でも私たちは台本に命を吹き込む仕事をしているんです。小道具や食べ物一つにしても、事実に基づいて再現するようにしています。あたかもそこにあるような人生を紡ぎ出すのが、私たち現場の仕事なんです。毎回毎回新しい発見がありますし、生み出される命も微妙に違います」

高視聴率維持の秘訣

 チーフプロデューサー中尾幸男は、電通からC・A・Lに出向中。30%から40%が当たり前の時期があったゆえの通算平均視聴率24%台なわけだが、第33部以降は原点に帰りたいとこう語っている。

「今の時代、ファミリー視聴がどの程度あるのか分かりませんが、どの年代にも『入り口』のある、老若男女誰もが共感できる番組にしたいと思っています。第33部は時代劇でホームドラマという原点に戻っていくようなシリーズになります」

 第33部のキャッチフレーズは、「記録を超えて記憶に残る旅へ」。番組スタート当初のことを知らない視聴者をどう取り込むのか、それが高視聴率維持、さらなる長寿につながることになろう。

『紅白』の「格闘技」

 話題を大晦日に戻そう。NHKの『紅白歌合戦』を脅かしたTBSの格闘技番組は、01年大晦日の『最強の格闘王決定戦!! 猪木軍VSK-1最強軍全面対抗戦完全決着!!』が端緒だった。

 02年も『イノキボンバイエ2002最強の格闘王決定戦!!』として放送、16.5%という高い視聴率を稼ぎ出した。それを見た日テレがアントニオ猪木側との交渉をまとめ、03年に「猪木祭」の放映権を獲得した。

 そこでTBSは「K-1」に絞り込み、フジはホイス、ダニエルのグレイシー一族や柔道の吉田秀彦(五輪金メダリスト)、総合格闘家の桜庭和志らによる「PRIDE」を取り込んだ。

 こうして大晦日の格闘技番組は三つ巴となったわけだが、じつは今日に至る格闘技ブームを作り出したのはフジテレビである。

 フジが東京・代々木でそれまでの国際スポーツフェアを衣替えしたイベント「LIVE  UFO」を仕掛けたのは93年のゴールデンウィーク。そのイベントの中でK-1大会が実現したのだった。

「K-1」は、空手、キックボクシング、拳法など、立ち技(打撃系)格闘技には頭文字に「K」のつくものが多いこと、ノックアウト(KO)で決着する試合が目立つことから、そう名づけられた。

 第1回K-1大会のチケットは、販売開始から1時間で完売し、1万2000人もの観客を集めた。その試合の模様は、試合当日の26時30分(正確には翌日午前2時30分)から放送したが、深夜ながら3.1%の視聴率を上げ、その時間帯の占有率は38.9%に達した。

 このため同局は、翌94年から大会数を増やし、放送時間帯も休日の午後に移して視聴率、営業収入アップを図った。

極めてテレビ的なソフト

「K-1は(高視聴率・高収益番組として)“化ける”可能性が大きい」と考えた同局は、95年9月、「格闘技関連事業開発委員会」(略称・格闘技委員会、委員長・出馬迪男専務=当時)を発足させた。委員として集まったのは、編成部スポーツ担当の清原邦夫をはじめ、媒体開発局や社長室の社員、スポーツ部プロデューサー、スポット営業部員などで、横断的なプロジェクトチームとなった。清原は初めてK-1を見た時の印象をこう語る。

「出場している選手は皆初めて聞く名前ばかりだったのですが、素人が見ても非常にリーズナブルなスポーツだと思ったんですよ。倒すか倒されるか、勝敗がわかりやすいですし、展開もきわめて速い。柔道などの組み技系の格闘技は技術もルールも複雑ですけど、立ち技系はシンプルそのもの。極めてテレビ的なソフトだと感じました。心身ともに躍動感を覚え、気持ち良くスッキリ見てもらえる演出を心がければいける、との印象を持ったのです。以来、『これは、将来ゴールデンタイムでやれる』と言い続けました」

K-1をめぐる主催者とテレビ局の思惑

 あとは、「楽しくなければテレビじゃない」のフジらしいノリで、K-1を高視聴率番組、若者中心の一大イベントにするための仕掛けを施していくのである。

 まず、毎月第2月曜日27時台(火曜日午前3時台)のボクシング番組『ダイヤモンドグローブ』のセールスを担当していたスポット営業部員たちが、格闘技選手たちをテレビCMに起用するようスポンサーに働きかけた。K-1の認知度を高めるためで、正道会館所属の佐竹雅昭が日清食品の「桃金ラーメン」のCMに起用されたのをきっかけに、スイス出身の空手選手アンディ・フグも同社「強麺」のCMに登場した。ツムラの育毛剤のCMには佐竹、フグのほか、正道会館オーストラリア支部所属のサム・グレコも出演した。

 次に、96年4月、木曜日深夜枠で始まった格闘技情報番組の司会には、田代まさしと並んでモデル出身の藤原紀香を起用した。それは、司会もゲストも解説者も男性中心という格闘技情報番組の常識を打破するものだった。その後藤原は、K-1中継に欠かせないタレントになり、女優業にも進出する。

 そして中継時の演出である。K-1放送を始めた当初からなのだが、リングサイドには国内の人気アイドルから映画の封切に合わせて来日したハリウッド・スター、野球やサッカーを中心とするプロスポーツ選手などを招待、彼および彼女たちがファイト、KOシーンに熱狂している姿を映し出した。視聴者からすれば、あの人もこの人もK-1のファンなのかとなる。いわばファン層拡大、視聴率増対策だ。選手の登場シーンは、レーザー光線、スモークにロックコンサート顔負けの音響効果で盛り上げた。

各局に類似番組が広がるワケ

 K-1の放送時間は深夜から土・日曜の午後を経て、同年10月にはゴールデンタイムに進出した。『K-1 スターウォーズ’96』は、しばらく休養していた佐竹とフグの熱戦もあって平均視聴率15.6%と15%の合格ラインを超えた。翌年11月の日曜日19時から放送された『ツムラ K-1グランプリ’97決勝戦』は平均視聴率20.7%を記録した。

 このK-1人気を他局が黙っているわけがない。98年には日テレに『JAPAN シリーズ~K-1 JAPAN GP』が誕生した。コンセプトは、世界王者になれるような強い日本人アスリートを育てることだ。01年8月19日の日テレ『JAPAN GP』のミルコ・クロコップVS藤田和之戦がきっかけになり、「K-1 VS 猪木軍」「K-1 VS PRIDE」といった格闘技戦がテレビ画面を賑わすようになるのである。

 K-1がフジから日テレ、TBSへと広がった背景には、主催者正道会館の拡大戦略と同時に、「柳の下にドジョウは2匹、場合によっては3匹いる」と考えるテレビ界の体質がある。

 一つの番組がヒットすると、類似番組が次々と生まれ、やがていくつかの番組が淘汰されていく。そして残った番組も形を変えたり、放送時間を移動して、いずれ編成表から消えるというプロセスを辿る。それは一つの産業あるいは商品の盛衰に似ている。

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(小田桐 誠/文春新書)

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