元日テレ・藪本雅子さん“アイドルアナ”は「ハンセン病をいつか落語に」夫の増田防衛事務次官とは「超仲よしです」

社会人落語家としても活動する藪本雅子さん

 

「女子アナ黄金期」といわれた1990~2000年代に注目を集めながら、“消費” されることに抗った人気アナウンサーたち。新たな場所でも全力疾走し、キラリと輝いていた!

 

 1991年に入社し、日本テレビのアナウンサー3人(ほか2人は永井美奈子さん、故・米森麻美さん)で歌手ユニット・DORAを結成。女子アナのアイドル化の元祖の一人ともいわれる藪本雅子さんだが、本人はそれに首を傾げる。

 

「業務命令に忠実にやっていたら、文字どおり踊らされていたんです。アナウンサーなんて孤独な商売ですから、3人でDORAというのは楽しかったですよ。もともと、中学時代、単身で上京して、芸能活動をしていましたし……」

 

 

 当時、大ヒットしたバンド、ジューシィ・フルーツに13歳の天才キーボード奏者として参加していたのは、有名な話。

 

「参加したのは、1曲だけ。コーラスの音程を外して、すぐにクビになりました。女優になりたかったんですけど、諸事情あって続けられなくて……とにかく、“メジャーになりたい”という一心で、アナウンサー試験を受けることにしたんです。でもね、なんで入れたんでしょう(笑)」

 

 アナウンサーに“なってしまった”藪本さんは、迷いながらも仕事を始めた。

 

「しゃべるのはもともと苦手でした(笑)。アナウンサーになってからも、やっぱり違うなって思いました。アナウンサーとしては、本来は進行してツッコんであげないといけない立場ですが、意図せずにボケてしまって、言葉のキャッチボールができないんです。自分でも“どうなのかなあ”と思っていました。ニュースにしても、取材してない私が、さもわかってるふりして読むのは無理だって思っていました。今思うと、まじめですよね」

 

 1990年代前半の日テレは、バラエティを軸にフジテレビに戦いを挑んでいる時期だった。

 

「当時の日テレは、不適切にもほどがある番組ばかりだったじゃないですか(笑)。『スーパーJOCKEY』では熱湯コマーシャルにも入りました。まあ水着くらいは別にいいですけど、深夜でバニーガールもやったし、『AVカルトピュッ』という『爆発!なべしま部屋』のなかのコーナーで、卑猥な言葉をしゃべらされました。だんだん疲弊してきちゃったんですよね。何やってんだかって」

 

 アナウンサーに限界を感じた藪本さんは、報道記者に転身する。

 

「自分で取材して、言葉にするというのは、本当に面白かったですね。1998年に報道に移ったのは、自分の希望なんです。ハンセン病の実態を報道したかった。当時はどこもハンセン病を取り上げることはなかったし、放送禁止みたいな扱いで、『できるわけねえだろ』って言われました。過去に取材した映像も一切ありませんでした」

 

 それでも藪本さんは国立療養所多磨全生園に通い、地道な取材を続けていった。

 

「ハンセン病の前にも、足利市にある知的障害者施設『こころみ学園』を一年かけて取材しました。今や日本を代表するワインをつくっています。でも、当時は放送するときに、上司から『モザイクをかけろ』って言われたんです。胸を張って誇れる仕事をしているのに、なんで? という疑問が重なっていって、“テレビじゃないな”って思い始めたんですよね」

 

 2001年に日テレを退社。上智大学大学院で「ハンセン病・メディアの責任」を研究し、修士号を取得した。人権教育の世界でも活動を始めた。会社を辞めたのは、結婚したからでもある。夫は第36代防衛事務次官の増田和夫さんだ。

 

「2001年のハンセン病の国賠訴訟、原告勝訴でやりきった感がありました。社会部にずっといたいと思いましたが、まさかの政治部異動。社会問題を追いかけたいのに、田中真紀子大臣の追っかけ。しかも9・11テロ以降は防衛庁担当になりました。もっともよくわからない防衛の世界。困り果てていたとき、記者クラブの隣の部屋にいたのが今の夫でした。そう、それで、出会って1カ月ほどして、『こころみ学園』の収穫祭に行ったんです。すると、園生たちがバッと彼に集まってきて、障害のある私の大事な人たちと自然に笑い合っている姿がすごく嬉しかったんです。その日、結婚を決めました」

 

 夫婦関係は順調?

 

「すれ違う時期もありましたが、2019年に、私は自らの少女期の性被害についてカムアウトし、性犯罪の刑法改正を目指す活動をしたんですね。そのとき、彼は全面的に私を支えてくれました。それまでは、私も話せないことだらけで距離があったんですが、今は超仲よしです」と笑う。

 

 2021年、コロナ禍に出合ったのが落語だった。

 

「講演では自分のことも含めて語っていますが、だんだんしんどくなってきて。なにか新しいことを始めようと思っていたんです。子供2人も大学生になり、子育てが終わりました。そんなときに立川談志師匠の噺に出会い、いろいろな噺を聴くようになりました。人権という視点では廓噺などもありますし、どんどんハマりこんじゃった感じですね」

 

 2023年からは、社会人落語家として高座に本格的に上がるようになった。

 

「近所のワインカフェで、京都大学落研出身の葵家金太郎さんが落語会を開いていて、ふらっと行ったんです。そこで意気投合し、音羽亭左京という名前をいただきました。今は月一で『音羽寄席』を開催しています。私は番頭として、チラシを作ったり雑務を担当しています」

 

 ちなみに、藪本さんの得意な噺は?

 

「今、持ちネタは10あって『松山鏡』『権助魚』が好きですね。今は『厩火事』を覚えたので、これから温めて発展させていきたいと思ってます。まだ、自分にどんな噺が向いているのか、できるのか、まったくわからないので手探りです」

 

 そして、挑戦したいテーマがある。

 

「いつか、ハンセン病を落語にしたいと思っています。創作落語ですね。本来はやりづらいテーマですけど、これまでハンセン病既往歴のある人たちにたくさん出会ってきました。これ以上ない過酷な人生を強いられてきた被害者です。それでも、尊厳とユーモアを失わず、豪快に笑う人たちがいました。私がハンセン病から離れなかったのは、正義感でも何でもなく、おもしろいからです。罹患者の数だけ、人情噺があります。当事者にも落語作らせてねと伝えていて、『おやりなさい』と応援してもらっています。いつになるやら、無謀な挑戦ですが、それをやれる技量を身に着けて、頑張って形にして、私が死んだ後も誰かができるように残したいと思っています」

 

 多いときは月に5本、高座にかける生活を続ける藪本さんは、生き生きとした表情でこう語った。

 

「多くの社会人落語家さんとご縁がありました。会社勤めをしながら落語を人生の生き甲斐でやってらっしゃる人がたくさんいて、皆さんクセ強めで魅力のある人たちなんです。いいなあ、定年も何もなく、自分の好きなことを一生やって、“はい、さようなら”で死んでいく。そんな人生はありだなあって。第二の人生って『自分が小さいときに何をしたかったか』に戻って、それを追求するのがいいんじゃないかと思うんです」

 

 女優を諦め、ひょんなきっかけで局アナになった藪本さんは今、高座で第二の人生を謳歌している。

 

やぶもとまさこ
1967年生まれ 京都府出身 早稲田大学卒業後、1991年に日本テレビ入社。2001年に退社し、2023年から「音羽亭左京」の高座名でも活動する

 

写真・久保貴弘

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