近藤サト、フジテレビやめたら「自分には何も残ってない」と愕然…いまは番組制作の裏方「ナレーター」で「日芸魂」発揮
「女子アナ黄金期」といわれた1990~2000年代に注目を集めながら、“消費” されることに抗った人気アナウンサーたち。新たな場所でも全力疾走し、キラリと輝いていた!
「大学時代は、派手めなシャツにジーパン履いて、すごいでかいスニーカーを履いて、ヒッピホッパーでした。まわりの友人には『ぜんぜん似合ってない』『また近藤が、ヘンな格好してる』って言われていたんですけど、気にしてなかったですね。
日芸(日本大学芸術学部)には、変わった格好をしている人がたくさんいましたからね。そのなかでは、まったく違和感がなかったんです」
こう語るのは、元フジテレビアナウンサーで、現在はナレーターとして活躍する近藤サトさん(55)。グレイヘアに着物がトレードマークだが、取材日は、夏らしく浴衣姿を披露してくれた。60分インタビューでプライベートを紐解いた。
――幼少時代、どんな子供でしたか?
そこまで遡りますか(笑)。もう半世紀になりますけど、大丈夫ですか? 小学校ぐらいまでは目立ちたがりやの学級委員タイプでした。明るく元気で、お勉強はまぁそこそこ。スポーツはびっくりするほどできなかったです。
――ドリフターズが好きだったとか。
幼稚園から小学校低学年ぐらいのころですね。当時、PTAが、「ドリフを子供に見せちゃよくない」と怒っていましたよね。今から思うとおもしろい時代ですけど、親がそんなに見せたくないなら、(私はあえて)そこ行くと。『ルパン三世』もそうですよ。ちょっと成人漫画みたいでよろしくないみたいな、そんな時代です。
そこに対する反発心というか、それがおもしろいという。テレビに対してすごく強い憧れを抱いていました。
――どんな番組が好きでしたか?
NHKの動物番組や、ドキュメンタリーなどをよく観ていました。あと、木村太郎さん、宮崎緑さんのニュースですね。それ以降は、もう近親憎悪でした。
――近親憎悪?
テレビに熱中したのは、じつは小学3、4年生ぐらいまでです。それ以降、「私は向こう側(演者)の人間でいたい。テレビを観て喜んでいる場合じゃない」っていう思いが生まれたんです。だから、テレビをあまり観なくなるんですね。テレビが好きで好きで、「テレビの中の人」になりたい、観客にはなりたくない、というスタンスになったんです。
――テレビの中の職業といってもいろいろありますが、アナウンサーになりたいという意識はあったのでしょうか?
ないです、ないです、ないです。宮崎緑さんが好きだとは思いましたけどね。
――将来、何になりたい? という問いにはどう答えていましたか?
ぼんやりとした答えですね。いわゆるメディアに携わる人になりたいとか。制作サイドではなくて、“出役” のイメージですね。女優さんに憧れたことはありましたけど、でも、どちらかと言うと、ニュースや情報番組とか、そこに強い憧れがありました。漠然と、テレビの中の人間になりたいという。
それで、もし目標を「アナウンサー」にしたら、沖縄から北海道まで仕事があるじゃないですか。そのなかでも、数多くの番組を作っている東京に行くしかないと思ったんです。東京ならどこでも。そして次は、テレビならどこでもっていう。
――日本大学芸術学部放送学科(日芸)に合格。そして、地元の岐阜県を離れます。
方向性としては、小学3年生からブレてないと思います。非常に個性的でしたよ。みんな変な友達ばっかりでした。今もですけど(笑)。大学生はディスコに行っていましたが、私たちはクラブに通ってましたね。クラブは、ヒップホップ、レゲエ、ハウスミュージックとか、そういうアンダーグランドカルチャーが盛り上がっていました。
映画館もシネコンに行ったことはなくて、単館ばっかり行っていました。
――いかにも日芸ですね。
いかにもです。そうなんです。大学時代は、ずっとNHKでアルバイトをしていました。わらしべ長者みたいに、最初はADでお弁当を用意していましたが、最後は情報番組『トライ&トライ』のレポーターになりました。TOKYO FMでもバイトしました。飲食店とかいっさいやってません。すべて業界でのバイトで、まったくブレてないです(笑)。
フジテレビは、1980年代後半から12年ものあいだ、年間視聴率三冠王に君臨していた。その真っ只中の1991年、近藤さんはフジテレビに入社した。
――当時の女子アナウンサー人気はすごかったです。とくに、フジテレビ。局アナはアイドルのような存在でした。
私、就職は東京のマスコミであれば、どこでもよかったんです。当時、フジテレビは「就職したい企業」の1位、2位を争うような、とんでもない勢いだったんです。だから、「おいそれと入れるわけがない、どこかに食い込めればいい」と思っていました。
――面接のとき、なにか爪痕を残したのでしょうか?
いえ、なんか「例外中の例外」って言われました。あとになって聞いたら、「お前の履歴書はめちゃくちゃ目立ってた」って言われて。みんな、伊勢丹写真館で、ブランドもののスーツで証明写真を撮っていましたが、私はお金がなかったので、友達と旅行に行ったときの写真を切って貼ったんですね。後ろに海が写ってそうな(笑)。
「たまたま成功したけど、万人にはおすすめしない」ってフジの人に言われて、私も「そうだな」と思いました。
――奇をてらって、“日芸感” を出したわけではないんですね。
いや、“日芸感” は出ていたと思います。「変わってるな、こいつ」っていうのはあったと思います。入社したばかりのころに、「近藤さんは上智だっけ、津田塾だっけ?」と言われたことが印象に残っているんです。“どんなイメージ?” って驚いたので。「日芸ですけど」と返すと、絶句されました(笑)。
でも私は、そんな日芸で、師匠に朗読の技術を叩き込まれたので、読みはうまかったらしいんです。だから、入社してから「君、中途?」「読みはちょっとできあがってない?」ということは言われましたね。
――そのころのフジテレビの女子アナウンサーのみなさんは、アイドルのような感じがありましたね。
めちゃくちゃありました。河野景子さんが真っ赤なジャケットを着てアナウンス室に入ってきたとき、「うわっ、河野景子だ!」と思って、もう完全に道端で有名人を見た、あの感じになりました。今でも忘れられません。「きたー!」と思いました(笑)。
――入社して10カ月でニュースを担当します。すごくレアケースですよね。
驚きでした。たぶん、ニュースが読めるのが大きかったと思います。それだけ……。いちばん驚いていたのは木村太郎さんです。「フジテレビは入社1年めの新人をニュース番組につけるんだ」って。
――このころ、「FLASH」も毎週、女子アナウンサーのみなさんを記事にしていました。
「FLASH」「FRIDAY」「FOCUS」……写真週刊誌だけでなく、女性誌にも出ましたね。会社もノーガードだったんです。来るもの拒まず、みたいな感じでね。狂乱の時代です。
――女子アナがちやほやされているな、というのはどんなときに感じましたか?
河野さんのお仕事の代理をしたんです。「サトちゃん、代わりに行ってくれないかしら」って言われて、「はい、わかりました」って。とあるイベントで、社長さんに花束を渡す役なんですが、ただそれだけの仕事。それはもう「フジテレビ」という看板ですよ。車もハイヤーで。河野景子さんってすごいなと思いましたね。
――そんなことまで女子アナがやるんですね。
脱ぐこと以外、全部やりました、みたいな感じですかね(笑)。「あなたたちはアイドル的な存在」というようなことを言われていたので、納得して楽しんでやっていた気がします。
――報道が中心で、ときどき、バラエティにも出演。理想的なスタンスでしたか?
私は7年でやめてしまうんですけど、そのあいだ、私は遊んじゃったんです。楽しんじゃったんです。ある程度年次を重ねてきたら、「あなたのキャリアプランはなんですか?」となってきますよね。
でも、それまでのフジテレビでは、今さっき申し上げたような「アイドルアナウンサー」じゃないですか。いろいろなものを積み重ねてステップアップしていくものがなかったんです。
変な話、結婚したら(会社を)やめます。子供ができたらやめます。だから、本当に “期間限定アイドル” 的な存在だったんです。
「フジテレビはボーイズクラブ(閉鎖的な男性中心社会)だから」と局内で公然と言われたこともあります。“君たちは蝶よ花よと大切にされるんだから、この時期だけ楽しかったら十分でしょ” という意味だと思います。これ、今だと完全なコンプライアンス違反です。
私たちはすごく恵まれていたし、楽しかったし、ちやほやされたけれども、とんでもないジェンダー差別のなか、ズボッとハマっていたんです。それに気づかず、楽しくやってきました。それで、ふと気がついたとき、何も残ってないって思ったんですよね。
――アナウンサーという職業でよかったと思う瞬間は、どんなときでしたか?
私のことを知ってくれているから、話しやすい、距離を縮めやすいというのはあったりします。しかし、フジテレビをやめて28年。いまだに「元フジテレビアナウンサー」と言われます。7年しか在籍していないのに、28年後に「フジのアナウンサーの方でしたよね」って言われるんです。
私、じつは日芸で先生をもう15年もやっています。ナレーターになってからも、10数年になります。でも、ほとんどの方はそのことを知らない。この28年間、いろいろなことをやりました。それらを軽く凌駕するほどのバリューというのは、ときに足枷でもあったりしますよね。
――フジテレビという看板の大きさというか。フジテレビのアナウンサーを目指していた人がかなり多くいましたからね。
テレビがメディアの頂点だった最後の時代でした。
――局アナからフリーのアナウンサーになり、ナレーターになったきっかけというのは?
局アナからフリーアナウンサーというのは、流れです。看板がとれてフリーになったというだけなので。そこで司会の仕事やナレーションの仕事をさせていただいたんですけども、そんな人いっぱいいるんです。
元局アナでフリーアナウンサーって、もういっぱいいて、そのなかで、これは専門的な職というか、その分野を持たないといけないと思って、ナレーターになりました。今から14年ぐらい前ですね。
――ずっとテレビの中にいる。初志貫徹というか。
テレビ局をやめたあと、起業されたり、素敵なマダムになられたり、弁護士になったり、別のジャンルで成功している人はたくさんいらっしゃるんですけど、私がたぶんいちばん泥くさいんだと思います。ずっとテレビにしがみついている。
私、フジテレビをやめてよかったなと思うのは、フジテレビに今もいたら、絶対に制作の現場にはいられないんです。
でも、私は今も、ナレーターとして現場のど真ん中にいます。ナレーターは、どちらかというと裏方の仕事なんですよね。VTRを作ってスタジオにいるタレントさんに見てもらって、笑っていただくっていう。裏方の仕事で、より泥臭い。そこがすごく好きなんです。そこがたぶん、私の “日芸的” な部分なんだと思いますね。
――ストレスがたまることはありませんか?
好きなことを仕事にできたのは本当によかったなと思っています。仕事でストレス発散しています。
――最後に、これだけは読者に言っておきたい、というようなことはありますか?
私が今、楽しく生きているのは、リスクを分散しながら、やっているからなんですね。アナウンサーだけじゃこの世の中を生きていけない。だから、ナレーターであり、学校の先生であり、着物YouTuberであり、司会者であり。これ、ぜんぶ並べられると思ったんです。そういう生き方、みなさんもどうですか、って。マルチステージっていうじゃないですか。
サラリーマンが「定年退職したらどうするかな?」というのではなくて、今からでも副業を探そうっていう話です。同じ会社にずっと勤めていたら、将来、必ず先細りになりますよ! っていうことです。会社をやめてから何かを始めているようじゃ遅い。同時進行でスタートしないとダメですよ。次、何やるのか、ではなくて、同時です!
――ちなみに、体調は問題ないですか?
いろいろあります。更年期障害から、血圧も高めだし、白髪もいっぱいあるし、なかなか痩せないし、老眼もあるし、耳鳴りするし、走ったら階段がつらいとか、いっぱいあります。でも、そういうものじゃないですか。泥臭く生きてりゃいいさって感じです。日芸ですから(笑)。
こんどうさと
1968年生まれ 岐阜県出身 日本大学芸術学部卒業後、1991年、フジテレビに入社。おもに報道番組を担当し、1998年に退社。YouTubeチャンネル「近藤サトの着物バラエティ『サト読ム。』」配信中
写真・木村哲夫、ヘアメイク・若宮祐子(特攻隊)
07/25 21:00
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