知られざる闘病生活の数々…日本初フリーアナウンサー・押阪忍さんが老衰で死去」、愛妻と花を育てた素顔も

2019年の押阪さん

 

 7月8日、所属事務所はフリーアナウンサー・押阪忍さんが老衰のため東京都内の施設で死去したことを発表した。亡くなったのは6月29日、享年89。

 

 押阪さんは、1958年に現テレビ朝日へ第一期生として入社し、その後、民放初のフリーアナウンサーとなり、司会やキャスターとしてはもちろん、CMや映画出演などにも活躍の場を広げ、後に続くアナウンサーたちの道を作った草分け的存在だ。

 

「1964年の東京五輪では、金メダルに輝いた女子バレー“東洋の魔女”の実況をおこない、当時話題になったテレビCM『ラーマ奥様インタビュー』に出演するなど国民的な人気を博しました。ただ、華やかな表舞台の影では、病魔との戦いの連続だったんです。

 

 

 若い頃に結核を患い、隔離病棟に入り治療を行った経験から健康の大切さを強く感じ、健康への気遣いは人一倍だった押阪さんですが、74歳のとき、大腸がんが発覚したんです」(押阪さんをよく知る関係者)

 

 毎年欠かさず受けていた健康診断で、早期発見できたため、手術のよってがんを乗り越え、仕事への復帰を果たした。

 

「ところが大腸がんの術後の検診で、今度は大動脈瘤が見つかり、またもや手術を受けることになりました。手術は無事成功したのですが、麻酔のため長い管を喉から通したせいで声帯が傷ついたのか『しゃがれ声』になりました。『昔のように声がでない』と嘆いていました。アナウンサーとして“声”を武器にしてきた押阪さんにとって、かなりつらい出来事だったと思います。ただ、こうした声の変化は、ファンや周囲の人にも気づかれなかったのでさすがプロだなと感じました」(関係者)

 

 私生活では、1963年にタレントでフリーアナウンサー栗原アヤ子さんと結婚し、おしどり夫婦として知られたが、90年代前半に栗原さんが「肺スエヒロタケ感染症」を発病した。

 

「アヤ子さんの晩年は入退院を余儀なくされましたが、押阪さんは献身的な看病を続けていました。『妻の笑顔をみると嬉しい』といつも愛情深い様子でした。それから、アヤ子さんと育てていたお花にはかなり思い入れがあって、『私はアナウンサーですから、花もことばで育てています。きれいだね、よく咲いたね、いい色してるね、と声をかけながら手入れをすると花も応えてくれて美しく咲いてくれますよ』と語っっていました。本当に素敵な人でした」(同前)

 

 どうか安らかにーー。

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