【秘史発掘】中華民国総統・蒋介石とその妻・宋美齢の関係を象徴する3つのエピソード

台湾時代の蒋介石・宋美齢夫妻(写真/時事通信フォト)

 台湾有事への危機感が日に日に高まっている。そもそも「二つの中国」を生む原点となったのは、日本が敗戦した後に中国大陸で繰り広げられた「国共内戦」だった。「戦勝国」に名を連ねた中華民国・国民党は、中国共産党に敗れて台湾に撤退したが、蒋介石総統は最後まで「大陸奪還」に意欲を燃やしていた。そんな強権的な指導者・蒋介石に最も身近で接し、政治的な“同志”でもあったのが、妻の宋美齢だった。

中国人社会では「四巨頭会談」として認識されている

 夫婦という関係性以上につながっていた2人にまつわるエピソードをノンフィクション作家の譚璐美氏(璐は王偏に「路」)が解説する(同氏著『宋美齢秘録』より抜粋・再構成)。

* * *

エピソード1:「犬のリードを引っ張って散歩する夫人」

 1927(昭和2)年、南京において国民政府を樹立した蒋介石は、国家建設を国民教育の面から進めようとしていた。国家の基盤が脆弱な原因は、政治に無関心で愛国心がなく、礼儀作法も知らない無教養な国民がいるせいだと思っていたからだ。

 蒋介石は法に基づく国民教育を実践することを国家政策の大方針に据えて、3つの運動を実施した。そのうちの1つが「新生活運動」だった。

「新生活運動」の当初の目的は、国民のマナー向上と衛生管理、生活環境を改善することで、国民の教養を高めて、立派な国民を育てようというものだった。そして「新生活運動」の牽引役となったのは、ファーストレディである宋美齢だった。

 宋美齢の歩き方は、わき目も振らずに足早だった。一方、蒋介石は周囲に挨拶したり会釈したりする機会が多く、いきおい宋美齢の後を追うような格好になった。
 その様子を見て、口さがない人々は、宋美齢に渾名をつけて笑った。

「曳狗(イェーゴウ)夫人」──

「曳狗」とは、犬のリードを引っ張って散歩する女性という意味である。

 率先して歩く宋美齢が、まるで蒋介石の首にリードをつけて引っ張っているようだと言うのである。まことに辛辣な表現である。

エピソード2:「西安事件」で夫を救った宋美齢

 1936(昭和11)年12月12日、西安事件が起きた。東北軍総指揮官の張学良と西北軍総指揮官の楊虎城が、蒋介石を拉致監禁した事件である。

 蒋介石は2人に共産軍討伐を命じたが、なかなか動かなかったため、しびれを切らして西安へ督促に行ったところを捕えられた。2人は蒋介石に対して、「共産党と和解する」「国民政府を改組する」「民主諸党派と一致協力して日本軍と戦う」「言論の自由」など、8項目にわたる要求を出したが、蒋介石は頑として拒否した。

 南京の国民政府は、政府軍を派遣して西安を攻撃し、併せて空爆することを検討したが、宋美齢が蒋介石の身の安全を考えて強硬に反対し、張学良と交渉する道を探った。そして、オーストラリア人ジャーナリストで蒋介石の顧問となっていたウィリアム・H・ドナルドを派遣して、張学良に書状を手渡した後、交渉の余地ありとみた宋子文が西安に入り、交渉を開始した。次いで、宋美齢も西安に乗り込み、蒋介石の解放交渉を進めた。中国共産党は周恩来、葉剣英を西安へ派遣し、国民政府の蒋介石、宋子文、宋美齢との間で会談し、合意した。

 12月25日、蒋介石は解放されて、宋美齢、ドナルド、宋子文は張学良を伴い南京へ帰還。張学良は拘禁され、楊虎城はのちに一族郎党全員が処刑された。

 この事件によって、「国共合作」(第二次)が実現し、国民党と共産党、民主諸党派との間で一致団結して抗日戦争に臨むための「抗日民族統一戦線」が合意された。

 事件のあらましは以上の通りだが、西安へ飛行機で到着したときの宋美齢の写真がある。

 チンチラの毛皮のコートを着て、コックとお手伝い、医師を従えての大名旅行で、飛行機のタラップを降りる彼女に手を差し出しているのはドナルドである。

 宋美齢は気丈にも、夫の危機に際して圧倒的な力を発揮し、どのような手段を使ってでも救い出そうとする気迫に満ちている。愛するが故というよりも、自分の所有物を棄損する相手は決して許さないという気概がみなぎっているように見える。それが中国女性の強さの秘密でもあるかもしれない。

 とにかく、蒋介石は宋美齢のおかげで助かった。そしてこれまで以上に頭が上がらなくなったことは想像に難くない。

エピソード3:蒋介石の不貞と宋美齢の怒り

「カイロ会談」から半年後の1944(昭和19)年夏、重慶であらぬ噂が立った。蒋介石の元妻だった陳潔如が激戦地の上海から重慶へ避難してきて、蒋介石と逢瀬を楽しんでいるという噂だった。

 陳潔如は1927年に蒋介石が宋美齢と結婚する際、米国のコロンビア大学に留学させて、とうに縁を切っていたはずの女性である。だが人の口に戸は立てられない。当時、重慶に駐在していた米国の情報提供者は、米国国務院へ向けて報告した。

〈目下、重慶では蒋氏の家庭が紛糾しているという噂が飛び交っています。蒋氏に情婦がいることはだれでも知っていますし、蒋夫人との間で少なからず緊張した関係にあることが取り沙汰されています。[中略]

 夫人は目下、蒋委員長にこの話をするとき、「あの女」とだけ言い、蒋委員長が「あの女」に会いに行く時だけ、入れ歯を入れていくことを恨んでいます。[中略]

 しかしながら、多くの見方では、権力を失うことは宋一族にとっても損害が大きく、彼ら(孫文夫人の次姉・宋慶齢を除いて、長姉・宋靄齢の夫である孔祥煕も)は、全力で決裂するのを回避しようと尽力したことで、蒋夫人もようやく矛を収めたとのことです。〉

(『宋美齢伝』林家有、李吉奎著、中華書局、2018年)

 これはあくまで噂に関する報告書だが、実際もその通りだったようだ。

 宋靄齢と娘夫婦は、医師から病気治療を勧められていた宋美齢を誘って一緒に重慶を離れ、ニューヨークへ移動した。宋美齢はニューヨークで、2年前にも入院したプレスビテリアン病院に1カ月ほど入院した。その後、マンハッタン北部のリバーデールにある孔祥煕の邸宅に移った。邸宅からはハドソン川が眺められた。
 
 中国では、宋美齢はもう祖国に戻ってこないのではないかと、噂になったのだった。

【プロフィール】
譚 璐美氏(たん・ろみ/璐は王偏に「路」)

作家。東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。同大訪問教授などを務めたのち、日中近現代史にまつわるノンフィクション作品を多数発表。米国在住。主な著書に『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『帝都東京を中国革命で歩く』『中国「国恥地図」の謎を解く』など。最新刊は『宋美齢秘録 「ドラゴン・レディ」蒋介石夫人の栄光と挫折』

 

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