戦禍3年目のウクライナ、ロシア軍が行う占領統治の実態。妊娠8ヵ月の娘を喪った母の悲しみと、ウクライナ軍兵士の息子の存在を隠した夫婦【現地ルポ】

妊娠中のカーチャさんと、母子のあわせて3人が犠牲となった産婦人科病棟。「助けることができず無念です」と涙を浮かべる警察医療隊員(24年2月、東部ドネツク州セリドヴォ)(撮影:玉本英子)
2022年2月に始まったロシア軍によるウクライナ侵攻。今もウクライナでは市民がミサイルに怯える日々が続く。長引く戦禍のなかで追い詰められていく苦境を、2つの家族の姿を通してレポートする(取材・文・撮影:玉本英子)

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【写真】ウクライナのオデーサにある戦没兵士の墓。2022年夏に訪れたときの何倍にも増えていた

病院への攻撃で妊婦が犠牲に

ロシア軍はウクライナ東部の要衝地を攻略しながら、徐々に戦線を広げつつある。ドネツク州の前線の町セリドヴォでは、20キロ先までロシア軍が迫る。

町は繰り返しミサイル攻撃や爆撃にさらされてきた。民家や工場、学校……あらゆるものが狙われる。今年2月14日には、町のいちばん大きな中央病院が攻撃を受けた。

私は、攻撃から4日後に病院を訪れた。産婦人科病棟の破壊はすさまじく、屋根もコンクリート壁も吹き飛んでいた。崩れ落ちた瓦礫のなかに、赤ちゃん用の紙オムツや、聖書の言葉を記した小冊子が転がっていた。

攻撃の前日、妊娠8ヵ月だったカーチャ・グーゴワさん(39歳)は、体調を崩したため中央病院にやってきた。その日は、付き添いの夫と病棟に泊まることになった。

深夜、町に大きな爆発音が響きわたる。カーチャさんの家のすぐ近くにミサイルが落ちた、と母親から連絡が入った。夫が急いで家に戻ると、自宅のすぐ先の集合住宅が燃えていた。救助隊は子どもを含む負傷者を救い出し、次々と中央病院に搬送した。

病院へのミサイル攻撃で亡くなったカーチャさんの部屋で、娘の肖像画を手にする母・オルガさん。カーチャさんは妊娠8ヵ月だった(24年2月、東部ドネツク州セリドヴォ)

ところが約1時間後、その病院に3発のミサイルが続けざまに着弾する。うち1発が産婦人科病棟を直撃し、カーチャさんと、同じ病棟にいた母子のあわせて3人が亡くなった。現場に駆け付けた警察医療隊の隊員は、瓦礫に埋もれたカーチャさんらを救えなかったことを悔やんだ。

「まず住宅を攻撃し、負傷者が病院に運ばれてきたタイミングで3発のミサイルが撃ち込まれました。市民の犠牲拡大が目的です」

私はカーチャさんの自宅を訪ねた。たくさんのぬいぐるみが並ぶ部屋。食べかけのクッキーが棚に載ったままだった。

「もうすぐ生まれてくる赤ちゃんを、どれほど心待ちにしていたことか……」

母のオルガさん(62歳)は、力なく言った。

「人が、子どもが、毎日殺されている。私は感情も失ってしまいました。憎しみすらわきません。みんな平和を望んでいます。もうこの戦争を終わらせてほしい。ただそれだけです」

部屋にあったカーチャさんの肖像画の目は、大きく見開いている。

「なぜ私と赤ちゃんは死ななければならなかったの」

彼女がそう問いかけてくるようで、胸が痛んだ。

●ウクライナ周辺の地図(地図製作◎アジアプレス)

孫との再会を待ちわびて

2022年の侵攻後、ウクライナ・ロシア間にあった国境検問所はすべて閉鎖された。だが1ヵ所、北部の町スーミィのポクロフカ検問所だけは、ウクライナのパスポートを持つ市民が今も、ロシア側から越境することができる地点だ。

南部や東部のロシア軍支配地域から逃れてきた住民は、ロシア経由でこの検問所を目指す。ロシア側の検問所では警備官と情報機関が越境するウクライナ人を尋問するものの、通過自体は認められている。ほとんどが高齢者や女性、子どもであることもその理由のひとつだ。

毎日、数十人が、国境の2キロの砂利道を歩いてウクライナ側に入る。越境してきた帰還民は、支援団体のミニバスでスーミィ市内に向かい、警察が記録調書をとる。

2月下旬、国境検問所から帰還民を運ぶミニバスに、私も同乗させてもらった。この日の午後、国境を越えてバスに乗り込んだのは7人。隣に座る夫の手をしっかりと握りしめていたのが、イリーナさん(64歳)だった。

彼女は、夫のアナトリーさんとともに、ウクライナ中部にいる子や孫と再会できる日を待ちわびていた。

「私たちは2年間、待ちました。春が来れば私の町も解放される、次の秋にはきっと……そう信じ、希望を捨てませんでした。でも夢はかなわぬまま、時間だけが過ぎていきました」

イリーナさん夫婦は、南部ヘルソン州のアゾフ海に面した保養地で、小さな民宿を営んでいた。夏には各地から行楽客がやってきた。侵攻前、収入は夏のシーズンだけだったが、老夫婦がつつましく生活するには十分だった。

2年前のロシア軍の占領で、すべてが一変した。侵攻直後、ウクライナ軍兵士だった息子のドミトロさん(42歳)は、戦闘任務のため所属部隊に向かった。イリーナさん夫婦は逃げるあてもなく、しばらく様子を見るしかなかった。

突然の侵攻にウクライナ軍は反撃できず、あっという間に南部と東部の町や村が制圧された。

支配地域で進むロシア化

侵攻から7ヵ月後、ロシアは、占領したウクライナ南部・東部4州のロシア帰属を問う「住民投票」を一方的に実施する。イリーナさん夫婦は、家から一歩も出ず、投票に行かなかった。

プーチン大統領は、住民投票の結果を「民意」だとして、支配地域をロシア連邦に併合すると一方的に宣言。「ヘルソンはロシアの都市」と記された大きな看板が立てられた。

プーチンの肖像写真が郵便局、バスターミナルなどいたるところに掲げられ、ロシア化が進んでいった。

ドミトロさんの部屋にあった戦闘服やブーツは焼却したり、庭に埋めたりして処分した。彼が写る写真もスマホからすべて削除した。

ある日、ロシア軍が家にやってきた。兵士である息子の存在はごまかせたものの、ロシア兵は部屋にあった青と黄のウクライナ国旗色の小さなブレスレットを見つけ、アナトリーさんを銃床で殴りつけた。

「スパイはいつでも殺してやる」と脅し、テーブルやイス、戸棚をひっくり返して出て行った。

イリーナさんが、スマホに保存していた民宿の写真を見せてくれた。庭の緑の木々に囲まれた、白壁の小さなコテージ。室内には素朴なテラコッタの皿が並ぶ。占領で民宿は閉めざるをえなくなり、年金だけが頼りとなった。肉など食料品の値段は跳ね上がり、生活は苦しくなる一方だった。

占領統治下では、住民は必ずしもロシアの身分証を取得することを強制されなかった。だが、身分証がないと水道代、電気代などの公共料金が支払えず、病院でも診察してもらえない。

生活のため、夫のアナトリーさんだけがロシアの身分証を取得した。「自分の魂に罪を背負った気持ちでした」。

ロシア軍の支配を受け入れた人もいるが、自分と同じように身分証を取得したからといって、皆が占領を肯定しているわけではないと、アナトリーさんは言う。

ロシア側は、身分証を取得した高齢住民に、これまでウクライナ政府から支給されていた年金の倍の額を給付し、一時支援金まで配った。一方では暴力によって、他方では経済的に追い込む占領統治が進んでいった。

後編につづく

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