9億人超のユーザーを抱えるTelegramの創設者パーヴェル・ドゥーロフが10年ぶりにカメラの前でインタビューに応じTelegram誕生までの紆余曲折を語る

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全世界で9億人以上のユーザーを抱える人気メッセージアプリ「Telegram」の創設者でありCEOでもあるパーヴェル・ドゥーロフ氏が、10年ぶりにカメラの前でインタビューに応じるという貴重な映像が、アメリカの保守派政治コメンテーターであるタッカー・カールソン氏の独占コンテンツを配信するストリーミングプラットフォーム・Tucker Carlson Network(TCN)で公開されています。
The Tucker Carlson Interview: Pavel Durov
https://tuckercarlson.com/the-tucker-carlson-interview-pavel-durov


Transcript of Pavel Durov from The ... | Happy Scribe
https://www.happyscribe.com/public/the-tucker-carlson-podcast/pavel-durov
Telegramを創設したパーヴェル・ドゥーロフ氏は、1984年にソビエト連邦で生まれたフランス系ロシア人です。ドゥーロフ氏は子どものころについて「当時のソビエト連邦では、中央集権的なシステムの欠陥を目の当たりにすることができました。私が4歳の時、家族はイタリアに引っ越しました。そして、イタリアを旅行して見たものと、ソビエト連邦で経験したものを比較することができました。そして、少なくとも私にとって、資本主義システムや自由市場システムの方が間違いなく優れていると感じていました。私はイタリアで学校に通い、ヨーロッパ人になりました。しかし、ソビエト連邦が崩壊し、私たち家族はロシアに戻ることになりました。イタリアで私と弟はとても楽しい時間を過ごしました。弟はわずか10歳で三次方程式を解くことができる天才少年として、イタリアのテレビで生放送に出演したこともあります」と語っています。
イタリアで学校に通い始めたころ、ドゥーロフ氏はイタリア語が話せなかったそうです。そのため、多くの先生が「この子はうちの学校では成功しないだろう」と口にしていたとドゥーロフ氏は回想しています。しかし、学校1年目の終わりにはドゥーロフ氏は学年で2番目の成績を収めるようになり、2年目の終わりには学年で1番の生徒になっていました。この経験を通し、ドゥーロフ氏は自身が競争的な環境が好きであることに気づいたそうです。
ドゥーロフ氏たちの家族がロシアに帰国できたのは、ドゥーロフ氏の父親が古代ローマ文学を研究する有名な学者であり、サンクトペテルブルク国立大学の教職を打診されたためでした。イタリアとロシアの学校生活について、ドゥーロフ氏は「経験は非常に違うものでしたが、それでも楽しかった」と語っています。
1990年代のロシアでは何でも教えてくれる実験的な学校があり、6つの外国語を並行して学ぶことができたり、数学の専門学校で学ぶのと同等の高度な数学や化学を学ぶことができたりしたそうです。なお、ドゥーロフ氏の兄は数学で世界チャンピオンになった経験があり、国際オリンピックで数学とプログラミングの分野で複数回優勝したこともある模様。
ロシアに戻ってからもドゥーロフ氏は学校で1番の生徒で、コーディングやデザインといった分野に熱心に取り組んでいたそうです。1990年代初頭にイタリアから戻るにあたってIBM PC/XTをロシアに持ち込んだため、「私たちはロシアでプログラミングを自分で学べる数少ない家庭のひとつでした」と語っています。

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by ctgreybeard
大学進学後、ドゥーロフ氏は友達のためにウェブサイトを構築したりしながらプログラミングに挑戦しており、その後、21歳の時にロシアのFacebookとも呼ばれる「VK」を設立します。なお、ドゥーロフ氏は「VKを『ロシアのFacebook』と呼ぶのは好きではありません。なぜなら、VKはFacebookが登場する前から多くのことを成し遂げており、その後のソーシャルメディア業界の発展に大きく寄与したからです」と語り、「ロシアのFacebook」と呼ばれることへの不満を表明しました。
その後、VKはロシア・ウクライナ・ベラルーシ・カザフスタンなどの旧ソ連諸国で最大かつ最も人気のあるソーシャルネットワークへと成長します。そんなVKですが、ある時点ではドゥーロフ氏が唯一の従業員だったこともあるそうです。ドゥーロフ氏は「自分でコードを書き、自分で設計し、自分でサーバーを管理しました。その頃はかなりハードでした。顧客サポートのリクエストにも対応しており、ほとんど寝ていませんでしたが、この頃の経験は非常に楽しいものでした」と語っています。
その後、VKは会社としても成長し、アクティブユーザー数が1億人に到達します。これは当時としてはかなりの数字だったそうです。しかし、2011~2012年頃にVKは初めて問題に直面します。当時のドゥーロフ氏は「言論の自由」や「集会の自由」といった自由権を強く信じていたそうです。しかし、ロシアの野党がVKを使ってロシア国内で大規模な抗議活動を指揮し、約50万人が市内の主要な広場に集まって抗議活動を行なった際、ロシア政府からVK上の抗議活動に関するコミュニティ閉鎖要請が行われます。
「自由権」を信じていたドゥーロフ氏はこれを拒否しました。ドゥーロフ氏は当時の決断について、「当時、私たちは政治闘争のどちらかの側につくのではなく、言論の自由と集会の自由を守るための決断を下しました。それが正しいことだと信じていました」と語っています。政府はVKの対応を快く思っていなかったそうですが、具体的な衝突はなかったそうです。
その後、2013年にウクライナでもVKを使った反政府運動が行われます。すると、VKはロシア政府から抗議活動の主催者の個人情報を提供するよう要請を受けたそうです。VKは「ちょっと待ってください。これは別の国での出来事です」と政府に返答したそうですが、ロシア政府は「ロシアの指導者からの要請に従う」か「会社の株式を売却し、CEOを辞任し、国を離れること」を求めてきたそうです。そこで、ドゥーロフ氏はVKを売却し、ロシアを再び離れるという決断を下します。

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VK売却についてドゥーロフ氏は、「VKは私の宝物だったので少しつらかったです。自分が作ったものであり、たくさんの創造性、時間、努力がVKには注ぎ込まれました。しかし、同時に『自由になりたい』という思いを自分が抱いていることも理解していました」「私にとって人生のすべては自由になることでした。私が作ったプラットフォームを使って誰もが自由を表現できるようにすることが、私の望みでした。これがTelegramの使命であり、私の前の会社であるVKの使命でもありました」と語っています。
これに対して、インタビュアーのカールソン氏は「ロシア政府がドゥーロフ氏に、VKで政敵の検閲を行うよう求めたところ、彼は拒否しました。彼は、そのようなことに加わるくらいなら大企業のCEOを辞任して生まれた国を離れたほうがましだと語りました。それが彼の言論の自由に対する取り組み方です。マーク・ザッカーバーグ氏や、イーロン・マスク氏が買収する前にTwitter(現X)を運営していたパラグ・アグラワル氏と比較してみてください。2人とも政府と協力して人々を検閲しており、これは恥ずべきことです。ドゥーロフ氏のTelegramは言論の自由の砦になるだろうということを、私たちは信じています。なぜなら、実際にそうなっているからです。彼がそのことにどれだけコミットしているかを示しているからこそ、私たちは彼を信じているのです」と語り、ドゥーロフ氏を称賛しています。
こうしてロシアを離れたドゥーロフ氏ですが、ロシアを拠点に活動していた時からTelegramのアイデアを温めていたそうです。ドゥーロフ氏はTelegramのアイデアを思い付いた際について、「反体制派グループの検閲を私が拒否したところ、武装した警官が私の家に押し入ろうとするという事態が発生しました。この時、安全な通信手段を持っていないことに私は気づいたのです」と語っています。
当時ドゥーロフ氏が使うことができたメッセージングアプリは、どれも暗号化されていないものだったそうです。そこで、ドゥーロフ氏は「暗号化されたメッセージングアプリ」というアイデアを実現すべく、兄に相談します。ドゥーロフ氏は「兄は天才なので、わずかな変更を加えるだけで、今日まで使用されることとなる暗号化標準を作成することに成功しました」と語りました。ドゥーロフ氏によると、同氏の兄は数学の博士号を2つ所有しており、暗号学の専門家でもあるため、通信の暗号化に関する基本原理を設計することができたそうです。なお、ドゥーロフ氏自身はTelegramのユーザーインターフェース(UI)やアプリの動作方法、機能などの開発を担当しています。

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ロシアを出たあと、ドゥーロフ氏は最初にドイツのベルリンへ向かいました。その後、ロンドン、シンガポール、サンフランシスコなどのさまざまな場所へ向かい、会社を設立しようとしますが、現地の法律がハードルとなり、これらの土地で会社を設立することは難しいと判断しています。例えば、ベルリンで会社を設立する場合、まず地元の新聞や雑誌で求人広告を掲載し、6カ月経過してからでないとEU圏外から人を雇うことができないそうです。
このようなハードルが存在しない場所を探した結果、ドゥーロフ氏はドバイにたどり着きます。初めは半年だけドバイで暮らしてみるというプランだったそうですが、素晴らしい場所であることがすぐわかり、ここをTelegramの本拠地とすることに決めたそうです。ドゥーロフ氏はドバイの素晴らしい点として、「十分な給料を払っている限り、居住許可が簡単に手に入ること」「税金が安いこと」「インフラが素晴らしいこと」の3点を挙げています。
なお、Telegramはドバイを拠点に活動していますが、アラブ首長国連邦の政府当局から「バックドアを設置するように」「特定の個人のアカウントをブロックするように」「Telegramに何らかの変更を加えるように」といった圧力を受けたことは一切ないそうです。ドゥーロフ氏は「我々がここに来てから7年経過しましたが、アラブ首長国連邦からTelegramに対して圧力がかかったことはありません。政府はとても協力的でとても助かっています。これは我々が世界各国で経験したこととは全く異なります」と語りました。
Telegramは多くの国で人気があるため、同社は世界中の規制当局からさまざまなリクエストや要望を受け取っています。暴力を助長するグループやテロ活動を広めるグループ、まともな人間なら許可しない、あるいは投稿されたくないようなコンテンツを投稿するグループもあります。こういったグループに対する検閲ならば、喜んで政府当局の要請に応じるとドゥーロフ氏は語っていますが、それでも「言論の自由や個人の通信を保護するという我々の価値観にそぐわない場合は、要請を無視します」とも語っています。

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