「死ぬ」とは、どういうことなのか

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Image: Angelica Alzona/Gizmodo

死を迎えるその瞬間を、想像したことはありますか?

病気や事故など、苦しみの中ではなく、自然と息を引き取りたい。そうした老衰による「自然な死」を、望んでいる人も少なくないでしょう。

では、老衰による死とは、一体どのようなものなのでしょうか? 4人の専門家に、話を聞いてみました。

1人目

人間は「老衰で死ぬ」わけではありません。死を引き起こすのは、常に何らかの病気です。

ごく一般的に、「老衰で死を迎えた」という表現が使われています。しかし実際に人間は「老衰で死ぬ」わけではありません。死を引き起こすのは、常に何らかの病気です。老衰は、死因として死亡診断書に記載されるものではありません。一般的には心停止といった形で表され、その背景には感染症、心臓発作、がんなどの基礎疾患が存在します。

例えば、血栓が肺に詰まり、脳や体が酸素を得られなくなることで心臓が止まり、結果的に死亡することがあります。死亡する状態とは、年齢に関係なく何らかの病気、または病的なプロセスによって、体が機能しなくなった結果なのです。

年をとると、体は自然に衰え、若い頃のように病気や健康の変化に対して強い回復力を持たなくなります。同じ病気でも高齢者の場合、普通とは異なる症状が現れる場合があります。例えば、糖尿病を持つ高齢者が肺炎にかかった場合、血糖値が上昇することがあります。また、認知症を患っている高齢者が肺炎にかかった場合、精神状態の変化が顕著になり、混乱したり、普段できることができなくなってしまったりします。高齢になると、こうした症状の原因が、本質的には別の病気にあるということが認識されず、ただ老化が原因であると結論づけられてしまうことがあります。

よく聞くことがある「眠るように死にたい」という言葉。ただ、実際にはこのような現象は存在しません。眠っている間に亡くなったとしても、その人が知らず知らずのうちにがんや感染症を患っており、それがたまたま眠っている間に発症したのかもしれません。また、重篤な病気を抱えているがために、死を受け入れる人も多いです。末期の心不全や末期がん等の重篤な病気を抱えている人は、往々にして積極的な治療を避け、自然に死を迎えることを受け入れた上で、症状の緩和に重きを置いて最後の時を過ごします。

Elizabeth Dzeng(カリフォルニア大学サンフランシスコ校 医学部 助教授)


2人目

死とは、誰もが等しく、何かの要因で心臓が止まることで起きるものです。

死とは、誰もが等しく、何かの要因で心臓が止まることで起きるものです。死亡診断書に記入する際は、心肺停止の要因をたどり、肺に入った血栓や診断されていたがんなどについて、詳細を記録します。私は学生たちに「死に至った原因は何だったのか?」を考えるように指導しています。

私は緩和ケア医として、私は重篤な病気を抱える多くの人々を看取っています。私の仕事は、まず患者と話し、死のプロセスについて説明し、その過程を通じて彼らを支えることです。

私にとって「自然な死」という言葉は、ある意味親切な言葉のように感じられます。なぜならそれは、何が起こっているのかを認識せず、考えることなく死を迎えるということだからです。ただ実際には、自然な死というものはほぼ存在しないと言っていいでしょう。今日、完全に健康で、何も問題を抱えていない人が、ある夜突然心臓発作を起こして亡くなることは非常に稀です。

「眠っている間に息を引き取った」という表現はよく使われますが、実際にその人が本当に眠っている間に亡くなったのかどうかは、観察していない限りわかりません。死の瞬間、もしかしたら目を覚ましていたかもしれません。

アメリカでの「自然な死」とは、一般的に次のようなことを指しています。何か問題が見つかり、治療しようとします。苦しみを和らげ、命を延ばそうとしますが、最終的にはその戦いに敗れます。そして私たちは最後の瞬間をできる限り辛くないものにすることを目指し、終わりの支度に取り掛かっていきます。

ただ、ウガンダやインドでたくさんの仕事をしている私の経験からすると、世界のほとんどの地域で「自然な死」とは、はるかに多くの苦しみと、痛みを伴うものと言えます。世界のほとんどの地域では、鎮痛薬であるオピオイドが入手できないためです。ある意味で、最も自然な死の迎え方は、激しい苦痛の中での死と言えるのかもしれません。そのような状況の中で、私たちの目標は苦しみを可能な限り和らげることにあるのです。

Jessica Humphreys(カリフォルニア大学サンフランシスコ校 医学部 助教授 緩和ケア専攻)


3人目

加齢は、がんから認知症まで、さまざまな病気のリスクを高め、こうした病気が最終的には命を奪います。

老衰での死を望みますか?老衰での死は多くの人に望まれている最後です。心不全、前立腺がん、肺炎、現在ではコロナウイルスなど、次々と迫る命にかかわる病気を避けながら人生を突き進み、老衰で穏やかに死ぬことを目指している人は多いです。

しかし残念ながら、「老衰で死ぬ」ということはありません。年を取るにつれて心臓が徐々に遅くなり、ついにはある夜、心臓が動かなくなる、ということが起きるわけではないのです。加齢は、がんから認知症まで、さまざまな病気のリスクを高め、こうした病気が最終的には命を奪います。

例えば、私の祖母は103歳という高齢で亡くなりました(家族みんなが、彼女の食器のコレクションを受け継ぐことを心配するよりも、彼女の長寿遺伝子を受け継ぎたいと願っていました)。徐々に体は衰えていましたが、亡くなるまで頭はしっかりとし、私の小説も含め毎日本を読み続けていたほどです。

しかし、彼女は老衰で亡くなったわけではありません。年齢と脆くなっていった体によって、股関節骨折のリスクが高まり、骨折してしまい、手術を無事に乗り切ることができましたが、最終的には脳卒中で亡くなりました。高齢でありながらも心身共に良好な健康状態を保っていた彼女は、老衰で亡くなったのではなく、一連の不運な出来事によって亡くなったのです。そして彼女が高齢であったことが、その出来事を引き起こすリスクを高めていたとも言えるのです。

人間は、遅かれ早かれ、死からは逃れられません。心臓発作を予防するためにコレステロールを厳密に管理しても、大腸がんの予防に大量の生のケールを食べても、肺気腫を起こさないためにタバコを避けていても、必ず死は人を迎えます。

私の祖母は、健康的な生活習慣から、非常に落ち着いた性格に至るまで、正しく生活を営んでいた人でした。それでも最終的には、骨折を起因として、死を迎えました。

改めて、死とは単に年齢が原因で引き起こされるものではなく、高齢になることで身体の全体的な機能が衰え、病気などのリスクが高まり、健康問題が積み重ねられ近づいていくものである、ということを認識することは重要です。

こうした死に近づいていく老化のプロセスの中でも、非常に高齢まで生きた多くの人は、亡くなるまで認知機能と身体機能を維持しています。そして、徐々に身体機能が衰えながらも大きな症状を示さないまま、突然死、つまり眠っている間に亡くなっていきます。20代のうちに予告もないままにこのような死を迎えるのは悲劇と言えるかもしれませんが、100年近くも生き、家族や友人に別れを告げた後であれば、眠っている間に死を迎えることはある意味で良い最後のようにも思われます。

90歳以上で亡くなる多くの人々は、死を受け入れ、やるべきことを済ませています。彼らは数年間かけて、その事実に対し心の準備をしているのかもしれません。緩和ケア医としての私の経験では、最後を迎えようとするこうした人々は、積極的な手術や長期の化学療法などの救命措置を取ろうとはしません。彼らはただ平穏に、世界に別れを告げるのです。「老衰で死ぬ」という言葉に意味があるとすれば、それはおそらく、次に進む意志を持つということなのかもしれません。

David Casarett(デューク大学医学部 医学教授 兼 緩和ケア部門長)


4人目

死に至る時間と、死を引き起こす原因によって、息切れが起きたり、痛みが生じたり、せん妄(集中力を失い、混乱する一般的な医学的状態)といった症状を示したりすることもありますが、現代では、苦痛を最小限に抑え、残された時間をできる限り快適にすることが可能です。

アメリカ疾病予防管理センター(CDC)は、医師に対し「老衰により死亡」や「自然死」といった用語の使用を控えることを推奨しています。こうした用語は医学的ではないからです。この言葉は、死因を正確に把握することができなかった時代に(ただし他殺や自殺の可能性が疑われない場合)によく使われてきました。また、設備が乏しく、検死官が死因を特定する調査を行えない地域でも、これらの用語が使われてきました。

しかし、一般の人々には今でもよく使われています。おそらくその理由は、この言葉が、死が突然のものではなかったことを伝えながら、死因に関して他者から踏み込んだ詮索をされないために有効だからでしょう。私たちは皆、できるだけ長く若く健康でありたいと願い、苦痛を伴う長引く重篤な病気を避けたいと望んでいるものです。死は、誕生と同様に、強い感情を伴う大きな出来事であり、一般的に人々が避けがちな話題です。

興味深いことに、多くの人々は死そのものを恐れているわけではなく、むしろ死のプロセスを恐れています。人工呼吸器などの人工的な生命維持装置を使わずに死を迎える場合、人は、体が機能を停止するまでにどれぐらいの時間を要するかによって、異なる死の迎え方をします。

人により、数週間から数か月、数日から数週間、数時間から数日、あるいは数分から数時間と、死に向かう時間は違います。数週間から数か月の時間がある人は、体の機能が徐々に低下し、座ったり横になったりする時間が増え、他者に活動を頼るようになっていきます。数日から数週間の時間が残された人は、集中力を保つことが難しくなり、周囲への関心が薄れ、食事や水分摂取への関心も低下していきます。数時間から数日で亡くなる人は、一般的に周囲を認識することができず、飲み込むことは困難に、呼吸は苦しくなり、全力疾走を終えたかのように疲れ果てた様子を見せます。最後に、数分から数時間で亡くなる人は、意識がなく、呼吸のリズムが不規則になります。

死は自然の理であり、通常ではとても穏やかなものです。死に至る時間と、死を引き起こす原因によって、息切れが起きたり、痛みが生じたり、せん妄(集中力を失い、混乱する一般的な医学的状態)といった症状を示したりすることもありますが、現代では、苦痛を最小限に抑え、残された時間をできる限り快適にすることが可能です。

Allen Andrade(マウントサイナイ医科大学、老年医学、緩和医療学 助教授)

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