アメリカ企業とは「もはや勝負にはならない」日本のAI研究開発予算…それでもGoogle出身の人工知能研究者が日本で起業したのはなぜ?
〈誤動作を起こして事故を起こしてしまう可能性もある…それでも日本がAI制御の自動車を積極的に開発すべき“納得の理由”〉から続く
世界中で覇権争いが繰り広げられている生成AI開発事業。日本が置かれるリアルな現状はいったいどのようなものなのか。
慶応大学理工学部教授の栗原聡氏の著書『AIにはできない 人工知能研究者が正しく伝える限界と可能性』(角川新書)の一部を抜粋し、紹介していく。(全2回の2回目/前編を読む)
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巨大AI開発は米国IT企業の独占状態
日本におけるAI研究および活用状況を概観し、どのような方向で研究が進んでいくか、といったことについて触れたいと思う。
まず、スケールする(量が指数関数的に増加すること)巨大な大規模基盤モデルを構築するには、大量のデータや計算リソースが必要であり、そのためには高いノウハウを持つ研究者が必要で、巨額の資金も必要となる。日本の状況はどうかといえば、まず、人材はあると言える。しかし、インフラの面では、現段階で日本はなかなか手が出せない状況にあることは間違いない。第1次AIブームから学んだこと(斬新なアイデアであっても、それが実用化されるにはインフラが整っていなければならない)に従えば、「手を出してはいけない」ということになる。
日本がAI研究開発に投じる予算は数千億円と言われる。巨額である。しかし、OpenAIやGoogleといった米国のIT企業がAI研究開発に投じる資金は1兆円をゆうに超えるという。もはや勝負にはならないのだ。
このことは、今や日本のみならず、世界において、AIを開発する米国の巨大IT企業数社のみが巨大な大規模基盤モデルを開発できる能力を有しており、一極集中状態すなわち実質的に独占状態にあるということである。このような場合、冪(べき)乗則の性質(ジップの法則/ごく少数の圧倒的に高い数値を持つものと、圧倒的多数のごく低い数値を持つものがあるような分布)にならい、過度に集中する状況はひたすら進むことになり、ごく少数の企業がAIを独占する状態はより顕著となる。“民主化”からほど遠い状況がさらに加速し続けることになるのだ。
小粒AIの開発にシフトする日本
さて、そのような状況において、日本国内では小規模の基盤モデル構築があちこちで進んでいる。いわゆる小粒AIである。用途を限定すれば小粒でも有用であることは間違いなく、国内産業活性化に役立つことも間違いない。ただ、GPT-4のような大粒AIを構築できないという消極的な理由からの小粒モデル開発へのシフト、というのは残念なことではある。
複数の研究開発業者が似たようなデータを使い、どんぐりの背比べのように小粒AIを多数開発すること自体、省エネではない(非効率)と思うところもある。また、OpenAIのような巨大企業も精力的に多言語化を進めているので、今後リリースされるOpenAIの巨大な基盤モデルであるGPTシリーズにおいて日本語特化型が発表されれば、その時点で小粒AIのメリットは一瞬にして吹き飛び、日本語に特化された海外巨大AIに置き換わってしまうだろう。
経済安全保障の観点からも、国産の巨大AIを独自に構築して運用することは絶対に必要であると思うが、そのための開発費の捻出が難しいのが現状である。
小粒AIの集合体がASIを生み出す可能性
しかし、巨大AIが開発できないことのデメリットを打破できる可能性がある(それに気がつき始めたのが海外の研究者であるというのが残念なところだが)。何かというと、「スケール化」による性能の向上という手である。一つの巨大AIを作るのではなく、小粒AIを束ねてスケール化することで、上位のスケールとして大粒を越える性能のAIを構築しようという戦略である。
それぞれ特徴の異なる小粒AIの集合体のほうが、多様性の観点において単体の巨大AIよりも高い性能を発揮できる可能性すらある。実際、小粒モデルを集合させることで高い性能を発揮する基盤モデルの構築をめざすスタートアップ(sakana.ai)が米国ではなく日本で立ち上がっており、今後この流れが加速するかもしれない。
そして、小粒AIを集合させる考え方の延長線に、実はASI(Artificial Super Intelligence/人工超知能)が見えてくるのだ。ASIは、我々が構築するAIがスケールすることで創発(多数の個が群れることで、群れを一つの個とする能力が生まれる現象のこと)するのかもしれないのだ。
小粒AI同士を連携させて、大粒AIの性能を発揮させようとするのは、我々が構築できるAIのスケールの世界での話である。もちろん、ChatGPTのように、計算リソースやAIの大きさをスケールすることで性能が大きく向上したことと同じことが、小粒AIをスケールすることで起こせる可能性は十分にある。
我々の理解できない高いコミュニケーション能力を持つ言語を生み出したり、ノーベル賞級の新たな発見をしたりイノベーションを起こせたりする可能性は多分にある。そうであっても、そのAIは我々が理解できる範囲から大きくは逸脱しないのだと思うわけである。その意味ではそのAIはまだASIとは言えない。
我々を超える能力を持つASIが創発される?
これに対して、細胞のスケールが臓器のスケールを創発するように、我々が構築できるスケールでのAIが群れることで、上位のスケールのAI、すなわちASIを創発するかもしれない。その場合、アリが創発する行列の機能を認識できず、細胞が創発する臓器の機能を認識できないように、創発されるASIは、それを創発させたAIを越える能力を持ち、我々そしてASIを創発したAIは、ASIの知能を理解できないのかもしれない。
たしかに我々は、アリとアリが創発する行列という二つのスケールを観察し、理解することができるが、我々を越える能力を持つASIを客観的に観察できるかどうかはわからない。そうなると、もはや我々には理解できないであろうし、ASIが我々によい意味で介入するとしても、我々にはそれを自然現象や天変地異と区別できないのであろう。
ASIが創発されたとして、そもそもそれを認識できるかどうかも怪しいのであるが、では、我々はASIを制御したり、機能を停めたりすることはできないのだろうか? 実はそうでもないのである。アリの群れが創発する行列自体への邪魔は難しい。行列の上に石を置いたとしても、すぐに石を回避しつつ最適な行列が創発する。創発されるシステムや現象には高いロバスト性(様々な外部の影響によって影響されにくい性質)やレジリエント性があるのだ。
しかし、行列を創発する個々のアリに対して、例えば、別の餌を置いたらどうなるか? 当然その餌にアリが群がることになり、それまでの行列は乱されて消えてしまう。創発された側ではなく、創発する側に対して介入すればよいのである。つまりは我々が構築する、我々が制御可能なAIに対してその挙動を変化させるような処理を施すことで、それらが創発するASIの挙動に対しての何らかの影響を及ぼせる可能性があるのだ。
ただし、ASIの創発については、そもそもそれを創発するAIが超多数必要であることと、単に集合すれば創発が起きるわけではないことに留意が必要だ。アリにせよ、細胞にせよ、人にせよ、お互いが連携するための共通したルールが必要であることから、単にあちこちで小粒AIが開発されているからといって、それらが連携してASIが創発されるなどということは万に一つもない。
「個」を見るか「集合体」を見るか
ところで、なぜsakana.aiは、わざわざ日本で起業したのか? そもそもなぜ「sakana=魚」なのだろうか?
それは、巨大なAIを「群知能」として構築することを目的としているからである。
ある要素の群れから、集合体としての要素が生まれる現象のことを「創発現象」と呼ぶことはすでに述べた。そして、アリと列の関係や、魚と群れ、脳神経細胞と脳という塊の関係において、あくまで個々の要素しか見ないモノの見方と、個々の集合体として創発される一つの塊を一つのモノとして見る見方とのどちらのほうが強い傾向があるかが、実は東洋と西洋では大きく異なるのだ。しかも、グローバル化した現在においてもその傾向は変わらない。
ここで、リチャード・E・ニスベットの『木を見る西洋人 森を見る東洋人』という書籍を紹介しよう。その中に興味深い図が描かれている。ヒマワリのイラストがそれぞれ四つ描かれた二つのグループがある。左側のグループに描かれたヒマワリは、四つのうち三つのヒマワリの花びらが丸形で大きく、一つのみが三角形のような形で小さい。茎は四つ全部が曲がっている。葉は四つのうち三つにそれぞれ一つずつ付いている。一方、右側のグループは、三つのヒマワリの花びらは小さめの三角形で、一つのみが大きい丸型になっている。茎は四つ全部がまっすぐで、葉は一つの花にのみ付いている。
さて、次に、「大きい丸型の花びらで、葉が付いていて、茎がまっすぐ」なヒマワリの絵(ターゲット)が示されるのだが、あなたならそれを、右・左どちらのグループに入れるだろうか。これはどちらを選択したほうが正解ということではなく、モノの見方が人によって大きく異なることを実感していただく例として引用した。
同書によれば、興味深いことに、東洋人は、ターゲットはグループ1(左側)に属すると答え、西洋人に尋ねると、彼らはグループ2(右側)に属すると答える割合が高いのだという。ちなみに、筆者もグループ1だと感じた。
国内のあちらこちらで講演をした最後にこの質問をすると、日本人においてはやはり大半がグループ1だと回答するケースが多い。しかし、米国の大学で講演した際にも同様の質問をしたら、大半がグループ2と回答したときはやはり驚いた。
日本的な「森を見る」物の見方の出番
ニスベットによれば、東洋人は木の集合体である森を見る傾向がある。つまり、全体を包括的に見るということである。ターゲットである葉が付いたヒマワリは、丸みのある花びらが印象的であり、グループ1に描かれたヒマワリは三つが丸みのある花びらであり、葉が付いているものも三つある。よって、ターゲットは全体的な印象として、グループ1に属すると感じるのだ。
これに対して、西洋人は森ではなく木、すなわち部分に着目する傾向が強いのだそうだ。ターゲットのヒマワリの茎はまっすぐであるのに対して、グループ1のヒマワリの茎はすべてが曲がっている。これに対し、グループ2の茎はすべてまっすぐである。そして、ヒマワリの構造である、花びら、葉、茎などの基本パーツはグループ1も2もほぼ同じ。よって、ターゲットはグループ2に属すると感じる、というのだ。そのように説明されても、筆者の「グループ1に属する」という感覚は変わらず、グループ2に属するという感覚が湧き上がることはなかった。
ここで主張したいことが何かといえば、「森を見る」傾向が強い日本人のモノの見方は、今後のAI研究開発において、有利に働く可能性があるということだ。
個々の要素であるアリや脳神経細胞をひたすら見ていても、群れた全体として何が創発されているのかを見ることができなかった。東洋的な物の見方ができる日本人には、群れることで創発される知能を感覚的に理解できる感性があるのかもしれない。重要なのが、モノの見方の違いは、モノの作り方にも影響を与えるということである。一つのスケールした巨大なAIを作るやり方に対して、小粒なAIが多数群れることで巨大なAIの能力を創発させるという戦略はまさに東洋的であり、sakana.aiの創業者らも、だからこそ日本において起業したのだという。
次世代の、人と共生する汎用性の高い自律型AIは一つのAIではなく、小粒のAIの群れが創発するAIとして実現されると考えられる。そうなると、生物のような群知能型に基づく構築への期待が高まってくる。そのときこそ、東洋的感性を持つ研究者がブレークスルーを起こす可能性があるのだ。
(栗原 聡/Webオリジナル(外部転載))
11/08 06:10
文春オンライン