「若すぎる出家」の夜明け、突然現れた物の怪の魂胆

(写真:micromagic/PIXTA)
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。
この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 5 』から第36帖「柏木(かしわぎ)」を全10回でお送りする。
48歳の光源氏は、親友の息子である柏木(=督(かん)の君)との密通によって自身の正妻・女三の宮が懐妊したことに思い悩む。一方、密通が光源氏に知れたことを悟った柏木は、罪の意識から病に臥せっていく。一連の出来事は、光源氏の息子で柏木の親友である夕霧(=大将)の運命も翻弄していき……。
「柏木」を最初から読む:「ただ一度の過ち」に心を暗く搔き乱す柏木の末路
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姫宮の決意に動揺する光君

光君は、姫宮を厭わしく思っていたことも忘れて、これはいったいどうなることかと悲しく、また残念で、我慢できずに几帳の内に入り、

「どうしてこの先幾ばくもない私を見捨てて、こんなお気持ちになったのです。どうかもうしばらくお気持ちを静めて、お薬を召しあがり、お食事などもなさいませ。出家は尊いことですが、お体が弱っていてはお勤めもできませんよ。ともかく養生なさってからにしましょう」と言うが、姫宮は頭を振り、なんとひどいことをおっしゃるのかと思っているようである。光君はそんな姫宮を見て、表面的にはさりげなく振る舞っていても、心の内では私のことを恨めしく思うこともあったのだろうと考え、姫宮がいじらしくかわいそうに思えてくる。

ともあれ光君は思い留まるよう言い、ためらっているうちに、夜明けが近づいてくる。西山に帰るのに、その道中も昼では人目について体裁も悪かろうと院は急ぎ、姫宮の祈禱のために来ている僧たちの中で、位の高い徳のある僧ばかりを呼び集め、姫宮の髪を削がせる。今がうつくしい盛りの髪を惜しげもなく切り、戒を授ける儀式が、光君はあまりにも悲しく無念で、激しく泣かずにはいられない。院はもちろん、そもそもこの姫宮をとりわけだいじにしてきて、だれよりも幸せにしてあげたいと思っていたのに、この世では生きる張り合いもないような尼姿にしてしまうのが、あきらめきれないほど悲しく、涙にくれている。

「こうしたお姿にはなってしまったが、どうかご病気をなおして、せっかく出家したからには念誦(ねんじゅ)に励みなさい」と言い置いて、すっかり夜が明けてしまいそうなので院は急いで帰り支度をする。

姫宮は、なお弱々しく消え入りそうな様子で、はっきり院を見ることもできず、挨拶を口にすることもできない。光君も、

「夢かと思うばかりの気持ちで取り乱していて、こうして昔を思い出さずにはいられない御幸(みゆき)のお礼もきちんとできない不作法は、後ほど改めてお詫びに参ります」と言う。院の見送りに、お供の者をつける。

「柏木」の登場人物系図(△は故人)

夜明けにあらわれた「物の怪」

「私の命も今日か明日かと思わずにはいられなかった頃、ほかに面倒をみる人もなく姫宮が途方にくれることになるのかと、それがかわいそうで死ぬに死ねない気持ちでした。あなたはご本意ではなかったのでしょうが、このようにお願いして、今まではずっと安心していました。しかしもし姫宮が命を取り留めましたら、尼に姿を変えた者が人の多いところに住むのはふさわしくないでしょうし、そうかといって山里などに離れ住むのも、またさすがに心細いでしょう。尼の身となってもどうぞお見捨てなさいませんよう」と院が言う。

「重ねてこうまでおっしゃられますと、かえって顔向けできない気持ちです。すっかり気が動転し、とにかく取り乱していて、今は何も考えられません」と、光君はいかにもこらえきれない面持ちである。

夜明けに行われる後夜(ごや)の加持祈禱に、物の怪があらわれた。

「どう? この通り。うまく命を取り返したと、もうおひとりについて思っていらっしゃるのがくやしかったので、この姫宮のそばにそっとやってきて、ここ何日も取り憑いていたのだわ。さあ、これで帰ることにしましょう」と言って笑う。光君はあまりのことに、「では姫宮にも物の怪が取り憑いていたのか」と思うと、姫宮が気の毒でもあり、また出家を許したことが悔やまれる。姫宮は少し生気を取り戻したようだが、まだ頼りなさそうな様子である。お付きの女房たちも、姫宮の出家にひどく気落ちしているけれど、しかし尼となっても無事に回復するのならば、と悲しみをこらえている。光君も祈禱をさらに延長し、休むことなく行わせるなど、あらゆる手を尽くす。

あの督の君は、こうした事情を聞き、ますます消え入るように、まったく回復の見込みも望めなくなってしまった。妻である女二宮(落葉宮(おちばのみや))がかわいそうに思えてきて、しかしこの父の邸に来てもらうのも、その身分柄、今さら軽々しくふさわしくない。さらに母北の方も父大臣(おとど)も、このようにそばにつきっきりなので、女二の宮がこちらに来れば自然とその姿を見られてしまうことがあるかもしれない、それはさすがに不都合だと思い、「なんとかして妻の邸にもう一度会いにいきたい」と訴えるが、両親は許すはずもない。

督の君はこの妻のことをだれ彼となく頼んでいる。妻の母(一条御息所(いちじょうのみやすどころ))がはじめから督の君との縁談に乗り気ではなかったのに、督の君の父大臣が奔走し懇願したので、その熱心さに根負けして、朱雀院(すざくいん)も致し方あるまいと思って同意したのである。その院が、女三の宮と光君の噂を耳にしてあれこれ心を痛めていた時に、「かえってこの女二の宮は行く先も安心できる、しっかりした後見を持ったことだ」とおっしゃっていたと聞いたのを、畏れ多いことだと思い出す。「こうして後に残していくと思うと、あれこれとおいたわしいのですが、思うようにならない命ですから、添い遂げられぬご縁が恨めしく、宮がどれほどお嘆きになるかと思うと胸が痛みます。どうか心を掛けて面倒をみてあげてください」と、母北の方にも頼んでいる。

いっこうによくなることがなく

源氏物語 5 (河出文庫 か 10-10)

「まあ、なんという縁起でもないことを。あなたに先立たれて、その後私がどれほど生きていられると思って、そんな先々のことをおっしゃるの」とただもう泣きに泣くばかりなので、督の君も何も言えなくなる。弟である右大弁(うだいべん)の君に、ひととおりのことはこまごまと頼む。

督の君は気性の穏やかなよくできた人で、弟君たちの、ことにずっと年下の幼い君たちは、まるで親のように頼りにしていたので、督の君がこうも心細いことを口にするのを悲しいと思わない人はいない。邸に仕える人々も嘆いている。帝も惜しみ、残念に思っている。このようにもう最期だと聞き、急いで権大納言(ごんだいなごん)に昇進させた。それを喜んで元気を出して、今一度参内(さんだい)することもあるのではないかと帝は思ってそのように言うが、督の君はいっこうによくなることがなく、苦しい病床からお礼を言上した。父大臣も、こんなにも篤い帝の処遇に接し、ますます悲しく残念で、途方に暮れている。

次の話を読む:10月6日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)

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